第17話 警告の銀器
大広間を出たティアナは急ぎ足で自室へと戻る。
もしかしたらダリオが部屋にいるかもしれないと思ったが、部屋にいたのはマティルデとフィネだけだった。
「ダリオ様はこちらにいらっしゃいませんでしたか?」
息を切らせて尋ねたティアナに、フィネは顔を綻ばせて首を横に振る。
「いらっしゃいましたけど、すぐに執務があるからと王宮に戻られました。でも、安心してくださいな、アデライーデ様。夜にはおいでになるとのご伝言を承っております」
誇らしげなフィネの顔にどんな顔をしたらいいのか分からなくて、側で昼食の準備をしているマティルデに視線を向ける。普段はあまり感情を顔に出さないマティルデが少し複雑そうに微笑んで、準備の手を止める。
「ようございましたね、アデライーデ様。初めダリオ様からこの件をお伺いした時は、突拍子もない事と驚きましたが、宣言してしまえばこちらのもの。アデライーデ様は名実ともにスルタンの寵愛を受けたたった一人のお方ということです。これからはお部屋からも時々出てもよろしいでしょう」
マティルデの言葉に頭の中にどんどん疑問符が溜まっていく。
困ってフィネに視線を向けると、きらきらとつぶらな瞳を輝かせて見られていて、一歩後ずさる。
「私もお聞きしました、アデライーデ様はスルタンのハセキになられたのですね。お喜び申し上げますっ」
両手を握りしめて見つめてくるフィネに、その視線に耐えられなくてティアナは尋ねずにはいられなかった。
「えっと……ハセキってなんのことか私、分からなくて……」
首を傾げたティアナに、フィネが大きく目を見開く。
「まあ。アデライーデ様、ハセキをご存じでなかったのですか!?」
フィネがおおげさに驚いて、ティアナに近寄る。
「ハセキというのはスルタンの寵愛を一番お受けになる方のことですよ。イクバルやカドウン・エファンデよりも上の階級で、もちろん今ハレムで最高権力とされる数人のウクスよりも上――つまり、今日からアデライーデ様がハレムの最高位です」
思ってもいなかった衝撃の事実に、ティアナは目眩がして顔に手をかざし、ふらふらと側のソファーに腰掛ける。
そんな……自分に寵愛が向けられているという誤解を、さっきといたばかりなのに、と落胆する。
「そういえば――確かスルタンのご生母様もハセキ様でいらっしゃったはずですよ。ハセキ様というのはその時によっていたりいなかったりする特別の地位で、ハレムの女性なら誰もが憧れるものですわ」
ハセキについて話しているフィネを、サロンの円卓に昼食の準備をしていたマティルデは静かに聞いていた。
「アデライーデ様、昼食の準備が整いました。アデライーデ様がハセキ様になられたのは、ダリオ様になにかお考えがあってのことだと思いますわ。今はゆっくりと昼食をとられて、なにか不安に思うことがおありでしたら、夜ダリオ様がいらした時に直接お聞きになるのがよろしいのではないでしょうか?」
昼食の用意を終えマティルデとフィネは退室し、サロンの窓際に置かれた円卓に向かってティアナは一人座っていた。
私がハセキ――?
寵愛を受けている――?
マティルデに分からないことはダリオに直接尋ねるように言われたものの、頭からそのことが離れない。
円卓の上、銀器に美しく並べられた昼食に視線を向けて、悩ましいため息を一つついた。
一人で悩んでいてもティアナの疑問が解消されることはなく、今はとにかく昼食を済ませてしまおうと銀器のティーカップを手にとり、動きを止めた。
ティアナの手の触れた部分が黒く変色し始める。取っ手からすっと手を離し、手のひらをしばし見つめたティアナは、ティーカップのお茶を捨て水差しから水を注ぎ入れる。その水の中に指を数本沈め、翠の瞳をわずかに揺らす。
水の入ったティーカップの銀器はくすみ、水は怪しげに煌いている。
ティアナは静かに立ち上がると、まっすぐに洗面台に向かい念入りに両手と円卓の上から持ってきたティーカップを洗い、清潔な布を拭う。
銀器と布を手に持ったまま呆然と立ちすくんでいると、洗面所にマティルデが入ってきた。
「まあ、アデライーデ様。サロンにいらっしゃらないと思ったら、こちらにおいでだったのですね。どうかなさいました?」
問いかけに反応を示さないティアナの前に回り込んで、マティルデは首をかしげる。
「アデライーデ様……?」
「あっ、えっ……マティルデさん……」
「ご気分がすぐれないのですか?」
心配そうに尋ねてくるマティルデに、ティアナは精一杯平静を装う。
「いいえ、なんでもないです。あまり……お腹が空いていなくて、少し庭を散歩してから昼食にします」
言いながら手に持っていた銀器を素早く布で包んで隠し、サロンから続く中庭の扉へと歩き始める。
「散策でしたらフィネをお連れ下さい。あっ、アデライーデ様!」
「一人で大丈夫ですよ……」
ティアナはマティルデの制止を聞かず、中庭へと足早に消えて行った。