第16話 偽りの花嫁
今日が月に一度スルタンが集会に顔を出す日だとフィネに教えられて、ダリオがめずらしく朝から部屋に尋ねてきた理由を察したのだが――
周りから集まる視線にティアナは居心地悪く体を縮める。
「あの、マティルデさん……本当に私はここでいいのかしら?」
ティアナは横に控えるマティルデに戸惑いがちに尋ねる。
「はい、アデライーデ様はこの場所でよろしいのです」
この場所というのは大広間の前方。前回参加した時には誰もいなかったイクバルやカドウン・エファンデの場所で、ウクスよりも前――つまりティアナは一人一番前方に立たされていた。
前回はアジェミということで一番後ろのさらに端で話を聞き、自己紹介の時少し前に出ただけだった。
まるで自分は特別――というように孤立して立っているティアナは、針の筵にいるように大広間中から女性の鋭い視線が突き刺さる。
スルタンを呼びに行くと言って大広間を出て行ったマティルデを見送り、本当に一人ぼっちになってしまったティアナは、ますます心細くなる。
始まってもいないのに早く集会が終わってほしいと考えていた時、鈴を転がしたような声音が響く。
「ごきげんよう」
自分に話しかけられたと気づいて振り向くと、そこには深紅のドレスを着た小柄な可愛らしい栗毛の少女が立っていて、ティアナは会釈で返す。
確か彼女はウクスの一人の――
ハレムの女性の中でウクス数人の名前はマティルデから教わっていたが、顔と名前はいまいち一致していなかった。
「わたくしはパルラ・フィンク。古くから王宮にお仕えするフィンク家の二の姫ですわ」
ドレスの裾をつまみ上げ優雅に名乗る少女に、ティアナはしばし見とれてしまう。
愛らしい顔にひかれた深紅の紅が印象的で勝気な雰囲気を醸し出し、美しいけれども棘を持つ薔薇のような少女だった。
「パルラ・ウクス様、お初にお目にかかります。アデライーデと申します」
ハレムでは階級が上の女性に自分から声をかけてはいけない決まりになっていて、声をかけられて初めて言葉を交わすことを許されたことになる。この場合も、パルラから話しかけティアナに話す事を許したことになる。
「アデライーデ様はどちらの出身ですの?」
パルラの見下すような声音に、周りで二人の話を伺っていた女達のくすくすと忍び笑う声が聞こえる。
公にはしていないが、ティアナが海賊からスルタンに献上されたという噂はハレム内には広まっているようで、パルラの質問にティアナが答えられないと思って蔑む笑いが広間に充満する。
「ランゴバルト公国ですわ」
しかし、ティアナは迷いのない声で即答する。
「ランゴバルト――というと南の連合国の一つのですか?」
「ええ」
ティアナがふわりと笑みを浮かべると、ひそひそと囁き合う声が広がる。
もちろんランゴバルト出身だというのは嘘。ハレムで誰かに尋ねられたらそう答えるように、あらかじめダリオから言われていた設定。海賊から献上されたということ自体も嘘で、なぜ見下すような視線で見られるのかは理解できなかったが、敵意のような視線の正体には気づいていた。
ハレム嫌いで一夜を共にした女性の元には二度と訪れないスルタンが、連日ハレム通い、しかも同じ女性の元に――ついにスルタンの寵愛を勝ち取った女性がいる、と王宮でも城下町でももっぱらの噂だとフィネから聞いていた。
もちろん、ティアナ自身はそんな噂など嘘で、ダリオの寵愛など受けていないし、毎夜通ってきてはいるがただ話をしているだけで他の者が想像している様な事は何もない。
それでも、ハレムの女性がすがれるのはスルタンの愛だけ――
新参者のティアナにスルタンの愛が一心に注がれていると思えば、憎く思うのだろう。
だからティアナは、自分を落としウクスであるパルラを褒めることにした。
「スルタンは私が故国から遠く離れた慣れぬ場所で心細いと言ったのを聞き咎め、毎日慰めに来て下さいます。スルタンは本当にお優しい方ですわ」
暗にダリオが自分の元に来ているのは同情だと含ませる――
「そんなの長く続くわけないわ……」
「ちょっと髪色がめずらしいからって少し構って下さってるだけよ……」
パルラの側にいた女性がそう蔑み、ティアナは二人に視線を向けてふわりと薫るような上品な笑みを浮かべる。
「そうですわ、今日の集会できっとスルタンもそう思われるでしょう。私なんかよりもすばらしい女性がこんなにいらっしゃるんですもの」
次はあなたの番かも――
ティアナの思わぬ反応に、なじった二人はうっと言葉を詰まらせる。
「そうね、今日はっきりとスルタンのお気持ちを聞かせていただくわ」
ぷいっと顔をそむけて行ってしまったパルラを見てティアナは胸をなでおろし、ぽんっと背中を叩かれて驚いて振り向く。
「気にすることないわ。スルタンが集会においでになる日の夜は必ず誰かの部屋に行く決まりだから、彼女ピリピリしているのよ」
そう言ったのは、ティアナよりも少し背の高いスタイル抜群の黒髪の女性。
「えっと、あなたは……」
「ニコラ・ロベルティーニ・シュターデン。ウクスの一人よ」
「あっ、申し訳ありません……」
ウクスと聞いて慌てて頭を下げたティアナにくすりと皮肉気な笑みを浮かべる。
「いいのよ、私はパルラ様と違って没落貴族だし寵愛とか興味ないからね。まあ、彼女は家の期待もあるし気負っているのよ」
「大変ですね……」
思わず漏れてしまった声に慌てて口元に手を当てたティアナを見て、ニコラは笑みを浮かべる。
「あなたもそう思う? なんだかあなたとは仲良くやれそうな気がするわ。これからよろしくね」
手を差し出されて、ティアナは戸惑いながらその手を握り、口元が自然とほころんでしまう。
「あ……じゃあ、いつでも声かけてね」
前方右側の扉が開きスルタンとマティルデが入ってきたのを見て、ニコラは素早く手を引っ込め、小声で言って立ち去っていった。
※
「静粛に。この一月での報告を申し上げます」
大広間の前方に置かれた豪奢な椅子に腰かけたダリオの横に侍従のエマが立ち、そこから少し離れたところに立った女官長のマティルデが一ヵ月間のハレムの事柄を簡潔にダリオに説明し、最後に女性達に注意事項を述べる。
「――、共同浴場でのマナーが悪くなっているようです、各自時間とルールを守って使用して下さい。何か伝えておきたいことがある方はいらっしゃいますか?」
女性達はスルタンがいる緊張感に包まれ、姿勢正しく立ち並び、口を開く者はいなかった。
マティルデは小さなため息をつき、女性達からダリオに視線を向け、また女性達に視線を戻す。
「それから、最後にスルタンよりお話があります」
ダリオは汲んでいた足をくみ替え、冴え凍る瞳を細めて女性達に視線を向ける。
「こたび、ハレムにおける人員移動を行う」
一瞬のざわつき後、大広間はしーんと静まりかえる。
ティアナはダリオの言葉の意味が分からず首を傾げ、他の女性達はダリオの次の言葉を待ち望んで、ごくりと唾を飲みこむ。
「アジェミ・アデライーデをハセキにする――」
一瞬前のざわめきが大きくなり、ティアナに女性達の悲鳴と鋭い視線が突き刺さって、一人状況を理解できないティアナは困惑顔でダリオに視線を向ける。
えっ、えっ? 私がなに? ハセキってなに――?
ティアナの視線を受けたダリオは氷の瞳に不敵な笑みを浮かべ、立ち上がる。
「話は以上だ」
そのままエマを連れて大広間を出て行こうとしたダリオに、悲痛な叫びが呼び止める。
「お待ちください、スルタン――」
叫びながら前に出たのは、鈴の音のパルラだった。
「アジェミをいきなりハセキにするなど、前例がありません――っ」
瞳を潤ませて訴えるパルラを、ダリオは氷の眼差しで一睨みする。パルラはその威圧感に肩を大きく震わせる。
「私に意見するとはな――」
そこで言葉を切り、冴え凍る瞳を広間中に向け、威圧的に言い放つ。
「ここは私のハレムだ、前例がないのならこれを前例とする」
パルラは顔を青ざめ床にひれ伏し、他の女性達もひれ伏して退室するダリオを見送った。