第15話 朝露の秘め事
その日はハレムの集会のある日で、少し早めに起きて寝室で支度をしていた。
コンコンっと短い扉を叩く音に、ティアナの今日着る衣装を出していたマティルデが素早く寝室を出て、扉を開けにサロンへ行く。
こんな朝早くに誰が尋ねてきたのだろうと、ティアナとフィネは鏡越しに顔を見合わせる。ティアナはこの部屋に尋ねてくるただ一人の顔を思い浮かべ――違うと頭を振る。ダリオが来るのは必ず夜で、ダリオではないだろうと来客から興味がそがれ、フィネと一緒に身支度を再開する。
卓に置かれたお湯で顔を洗い、夜着を脱いで着替えようとした時、サロンから続く扉を開けて入ってきた人物に悲鳴を上げる。
「きゃっ――」
脱ぎかけの服を慌てて掻き合わせ、その場にしゃがみこんだティアナを見てダリオは僅かに眉を顰め、こほんとわざとらしい咳払いをする。
「すまない、着替え中だったか。マティルデ、さっき言ったようにアデライーデの支度を頼む」
そう言ってサロンへと出て行った。
ぱたんっと扉の閉まる音で、膝の間に埋めていた顔を上げてサロンへ続く扉を見つめるティアナの顔は真っ赤に染まっている。
「スルタンがこんな朝早くにおいでになるなんて驚きましたね」
フィネに小声で言われ、ティアナは苦笑して頷く。
「ええ……」
「アデライーデ様、さあ、お召し替えの続きをなさいましょう」
マティルデはダリオが寝室に入ってきた事を特に気にした様子もなく言い、衣装棚からドレスを引きだしてティアナの元に戻って来る。
「本日のお召物です」
そう言って持ってきたのは真新しいドレス。この部屋の衣装棚には初めからたくさんの衣装があり、前の部屋の主の持ち物のようだった。普段はそのお古を着ているのだが、その中に何着か新しいドレスが混ざっていた。
今ティアナが着せられているのもその一つで、白地に淡いブルーの布が合わせられた普段着ているのよりも少し華やかなドレスだった。
「あの……」
ティアナが何か問いかけようとしたのを、マティルデは有無を言わせぬ迫力で鏡の前に座らせ、髪を結いはじめる。
自分の身支度をして貰っているティアナは話しかけていいものか躊躇い、結局質問を飲みこんでしまった。
いつもより華美なドレスを着せられ、髪にも生花や宝飾を飾られ、手足と首に環の装身具を無駄に多くつけられて、動くたびにしゃらしゃらと金属の音が響く。
「さあさ、ダリオ様がお待ちです。アデライーデ様こちらに」
マティルデに促されてサロンではなく、普段は使っていない他の一部屋に案内される。そこには大きな楕円の机が置かれ、部屋の奥側の席にダリオが座っていた。
ティアナの与えられた部屋にはサロンと寝室以外に二部屋付いているが、ティアナはその部屋をほとんど使うことはなく、食事も普段は庭に続く日当たりのいいサロンで食べていた。
ティアナはダリオの向かいの席に座り、フィネが運んできたお茶を貰って、カップに口をつける。お茶を飲みながら視線だけでダリオを盗み見ようとして、視線があってしまいドキンッと大きく胸が跳ねる。
「ダリオ様、おはようございます。この時間にお会いするのは初めてですね……」
何か話さなければ居心地が悪くて、ティアナはぎこちない笑みを浮かべて言ったのだが、ダリオは気に入ったように不敵な笑みを浮かべる。
「ああ、今朝は執務がないからアデライーデと朝食を食べようと思ってな」
氷の瞳に甘い輝きを宿し妖艶な笑みを浮かべて言ったダリオに、ティアナは鼓動がどんどん早くなって戸惑う。
やっ、やだな……ダリオ様ったら普段はあまり笑われないのに時々こうやって笑みを向けられると、どうしていいか分からなくなってしまう――
「お待たせいたしました。朝食でございます」
居心地悪く身じろいだティアナは、タイミング良く朝食を運んできたマティルデに心から感謝した。
ワゴンに乗せられたパンとスープ、色とりどりのフルーツの盛られたお椀をテーブルに置き終わるのを見て、ダリオは静かな声で告げる。
「朝食はアデライーデと二人でとる。お前達は下がれ」
言われてマティルデは綺麗なお辞儀をし、フィネはダリオの威圧的な雰囲気にびくっと肩を震わせてぎこちないお辞儀をしてから慌ててマティルデに続いて退室していった。
ふぅーっと大きく肩でため息をついたダリオは、パンの皿を引き寄せてかじりつく。
「女官にはすっかり怯えられているな」
いつもの冷静な声だったが、その言葉からティアナはダリオの気持ちを正確に計りとり苦笑する。
「フィネですか? ダリオ様のお側でお仕えするのは初めてで少し緊張しているだけです、すぐに慣れますわ」
冷酷非情のスルタンとして恐れられるダリオ、名前の通り冴え凍る瞳と威圧的な物言いで人々を震え上がらせるが、怖がられることに慣れているわけではないし、それに対して傷ついていないわけではない。何も感じない心の冷たい人間ではないことを、数日共に過ごしてティアナは気づいている。
「どうだ、アデライーデ。ハレムの生活には少しは慣れたか?」
「はい、皆様にはよくしていただいて……」
この質問に毎回同じようにしか答えないティアナに、ダリオは顔をしかめ言葉を遮って質問を続ける。
「何か記憶は思い出したか?」
「いえ、何も……」
翠の瞳を悲しげに陰らせティアナは視線を伏せた。
※
あの日、ハレムに連れて来られた日の夜も、部屋に尋ねてきたダリオは人払いしてティアナと二人きりで話をした――
「アデライーデ、ここハレムは氏素性を問わない。身元を証明できない女は山のようにいる。だから尋ねるのは今一度きり、答えるも答えないもお前の自由だ」
氷の瞳がキラッと反射してティアナをまっすぐに見据える。
「お前の名はなんという。出身地はどこだ。私に何か言うことはあるか――?」
初めの二つは港でも聞かれていたことで、ティアナはダリオが自分が記憶喪失だと薄々気づいていて、最後の質問をしたのだと感じた。
ぎゅっと瞳を瞑り、大きく深呼吸してからティアナはダリオをまっすぐに見つめる。
「――名は分かりません、どこの生まれかも。自分の記憶に関することはすべて分からないのです。おそらく海で遭難した衝撃で記憶を失ったのだと思います、それを証明することは出来ませんが……」
そこで言葉を切り、ティアナは躊躇いながら言葉を続ける。
「私は記憶を取り戻さなければならない、そんな気がするのです。私には私の記憶が必要なんです……」
だんだん自分でも何を言いたいのか分からなくなってきてティアナは苦笑する。
だが、ダリオは氷の瞳をふっと和らげてティアナを見つめた。
「お前の事情は分かった。こちらでも何かお前の記憶の手がかりを見つけられるよう協力しよう。それまでここで自由に過ごすがよい。アデライーデ、お前はハレムの女ではない、私の客人としてここハレムに向かえよう」
「ありがとうございます、スルタンっ」
ぱっと顔を輝かせたティアナに、ダリオは僅かに眉根を寄せる。
「それから、私のことはダリオと呼べ」
「えっ――」
スルタンを名前で呼ぶのはごく親しい人間だけだとマティルデから教えられたばかりのティアナは戸惑ったが、一瞬、ダリオの瞳が寂しげに揺れたのに気がついて、ティアナはソファーから立ち上がりダリオの側まで近づくと、床に膝をつきダリオに視線を向けたまま最高礼の姿勢を取る。
「ダリオ様――私を受け入れて下さったこと、感謝申し上げます」
※
カタリっと響いた食器の音に、フルーツを食べていたティアナは顔を上げる。
すでに食事を食べ終えたダリオが立ち上がりティアナの方へと近づいてくるから、ティアナの鼓動が大きく跳ねる。
「今日の衣装もよく似合っている――」
言いながら背中に流れたティアナの銀色の髪を一房掴み、梳きながら髪に口づけを落とすから、ティアナはびくっと肩を震わせる。
ダリオがティアナに触れるのはめずらしい事で、こんなに側で甘い言葉を囁かれてドギマギせずにはいられなかった。
「この髪飾りも装飾品もお前の美しさには劣るがよく似合っている、綺麗だ――」
髪から髪にさした生花、首筋、首の装飾品に手を滑らせていき、ダリオは片眉を上げる。首の装飾品の下にかけられた金属の鎖に気づき、人差し指ですくい上げる。その仕草にびっくりして、ティアナは手に持っていたフルーツを落としてしまう。
「きゃっ――あっ……」
朝マティルデがつけた装飾品と衣装の下から出てきたのはスカイブルーの鉱石のついたネックレス。
「このネックレスはどうした――?」
衣装のブルーと合っているが、他の装飾品とは不釣り合いで衣装の下に隠すようにつけられていたことにダリオは訝しむ。
出された拍子に首から外れたラピスラズリのネックレスに、ティアナは瞳を切なく揺らして苦笑する。
「私が唯一身につけていた持ち物です。なにかそれで記憶を思い出しそうという訳ではないのですが、どうしても肌身離せず……」
ティアナの憂いを帯びた表情を見て、ダリオは苦虫を噛み潰したように顔を歪める。
「そうか……」
それだけ言ってダリオはティアナの手のひらにネックレスを戻し、ティアナは服の下に隠れるようにつけ直した。
その様子を横目で見ていたダリオは何か言おうと口を開いたが、コンコンっと扉の叩かれる音に奥歯をぎゅっと噛みしめる。
「失礼致します。アデライーデ様、そろそろ集会のお時間でございます」
マティルデに呼ばれサロンに出るとエマが立っていて挨拶をする。集会の開かれる大広間へとダリオよりも先に向かわなければならないティアナはフィネとマティルデに促されて部屋を後にした。
冷酷非情のダリオはティアナにメロメロです!
ワタシ的あまあま展開、こんなカンジでいかがでしょうか?
ご期待に添えてるといいですが(^^;