第13話 星の欠片
ティアナがハレムに住むようになってから七日が経った。
ハレムに来た翌日、大広間での集会で他のハレムに住む女性達に挨拶を済ませた。その時と朝の礼拝以外は部屋からは出ず、言われた通り与えられた部屋で大人しく過ごしていた。自分の忘れてしまった記憶について考えずにはいられなくて、外に出られないことへの不自由さは感じなかった。
もっともティアナの部屋にはトイレも浴場もついていて充分な広さを備え、誰か知り合いがいるわけでもなく部屋からでる必要がなかったのだが……
若い女官のフィネが言うには――普通ハレムに入ったばかりの女性はアジェミ――新参者と言って、まず数年の間はスルタンを間近で見る事も叶わない。ハレムの中ではすべては階級次第、階級ではっきりと分けられているという。
週に一度ある大広間での集会の並び方すら階級順。前からカドウン・エファンデ――スルタンの子を身籠った女性、イクバル――スルタンが頻繁に部屋を訪れる女性、ウクス――お手つきの女性、ジャーリエ、アジェミの順番。そして、その集会には月に一度スルタンが顔を出すという。
イクバルやカドウン・エファンデになれば個室と専用の女官が与えられるが、それ以外の女性達は大部屋、共同トイレや共同浴場を使用しなくてはならない。
その点、ティアナは――
「アデライーデ様の階級はアジェミではありますが個室と女官を与えられ、おまけにスルタンが毎夜お通いになられているのですから……」
椅子に座ってティータイムをしていたティアナに女性の階級について尋ねられたフィネは頬を染めてそこで言葉を止める。
「スルタンはアデライーデ様のことを格別にお目にかけて下さっているというのは周知の事実です」
にこりと可憐な笑みを浮かべたて言ったフィネが、ティーセットのワゴンを女官部屋に下げに行ったのを見てティアナは小さなため息をついた。
そうなのだ……ダリオはティアナがハレムに来てから一日と日を空けず部屋に訪れていた。
ティアナがハレムで退屈しないようにと本や珍しいお菓子を持ってきたり、何か困ったことはないかと聞かれたり。一時間ほど一緒に時を過ごして、ダリオは自分の王宮内にある寝室へと帰っていく。それが毎夜のことだった。
はじめは慣れないハレムに連れて来られた自分のことを心配して見に来てくれるのかと思っていたが、同情だけじゃないダリオの優しさ気づいていた。
私はこれからどうなるのかしら――
いつか記憶を取り戻すことができるのだろうか――
ハレムに来てから自分の記憶について考えないことは一度もなかった。
自分のことを思い出そうとするたびに見舞われる頭痛。それでもどうにか思い出そうと記憶の欠片を探すが見つからず……疲労ばかりが溜まっていく。
慣れない風習、慣れない食事、慣れないハレムの生活――ただ分かったことは、自分がロ国の人間ではないということだけ。
ティアナが記憶喪失ということについて知っているのは、ダリオと侍従のエマのごく一部の人間のみ。
記憶を思い出せずに日に日に衰弱していくティアナを、マティルデとフィネは慣れない生活に戸惑っているのだと勘違いし、心配して声をかけてくれる。
「ハレムには他国出身の方はたくさんいらっしゃいます。その方達も初めは慣れぬ生活に戸惑っていましたが、徐々に慣れていけばよろしいのですよ」
「アデライーデ様はどこのご出身でいらっしゃいますか? 故国のお食事など教えていただければ、料理長に作って頂けるようお願いしてきますよ」
マティルデは気を強く持って頑張るように言い、フィネは故郷の味を再現しようと頑張ってくれた。
しかし、ティアナにはその故郷の記憶すら思い出せず、フィネには曖昧にごまかして答えることしか出来なくて、心配してくれるフィネに申し訳なかった。
ずっと考えていた。このまま記憶が戻らなかったらどうしようか――と。
自分のことが思い出せない不安よりも、もっと何か大事な事を忘れている気がして、切なくて胸が苦しかった。
そう、私は何かやらなければならないことがあって、それで――……
そこまでは思い出せるのに、それがなんなのかは思い出せなかった。
このまま記憶を取り戻せず、私はアデライーデとしてハレムで暮らして――いつかはここにいるのが当たり前になる――?
毎夜訪れるダリオ。初めて見た時から印象的だった冴え凍る瞳。鼻筋が高く、美しく整った顔には笑みを浮かべることはない。長いさらさらの蜂蜜色の髪を無造作に背中に流し、ゆったりとした上質な衣服を身につけている。特別華美ではないのに放つオーラに忠誠を誓いたくなるような絶対の王者の気品、冷酷非情のスルタン。
言葉は威圧的で、だけどティアナはダリオを冷たい人だとは思わなかった。彼の言葉はまっすぐで、まっすぐすぎるから冷酷な印象を受けるだけ。遭難したティアナを心配し、体についた傷を気遣ってくれた。素性を知らぬまま、受け入れてくれた。
シュチェンの港で会った時からすでに、ダリオはティアナの恩人で特別な存在だった。
毎夜尋ねてくるダリオ。優しくしてくれる彼に惹かれ始めていて、ティアナは少し戸惑っていた。
これが好きという気持ち――?
こんな気持ちを以前にも感じたような気がして、脳裏にゆらっと人影が思い浮かぶ。
その顔を鮮明に思い出そうとして、ズキンと頭に酷い痛みが走って額に手を当てる。
愛しい面影――自分の記憶を思い出そうとする時、必ずその面影を思い出す。だけど靄がかかっていてそれがどんな顔なのか、誰なのかは分からなかった。
額に当てた手の反対の手で、無意識に何かを握っていたことに気がついたティアナはふっと視線を胸元に落とす。
今日来ている服はローズピンクのさらっとしたドレス。ティアナの着ていた服は腰から膨らんだ作りの服だったが、ロ国の女性が着ているのは膨らみのないスカートで体のラインの出るような細身の服だった。
その服の下につけているペンダントを無意識に握りしめていた。
首にかかる金属の紐をたぐりよせて、襟からペンダントを取り出す。スカイブルーの大粒のラピスラズリのネックレス。
ちらっと右腕に視線を向ければ、そこにも同じ輝きのブレスレットがついている。
海を遭難したティアナが衣服以外に身につけていた物――
着ていた衣服は簡素で、ティアナの知っている侍女が着ている様な白いエプロンのついたもので、そこからは自分が侍女だったのかを想像してみるが、あまりぴんとこなかったが。
揃いのラピスラズリのブレスレットとネックレスは見るだけできゅうっと切なく胸が締め付けられる。
自分にとって大切なものだということだけは分かった。
ラピスラズリは――北の大国ドルデスハンテ国で特に取れる鉱石の一つ。ロ国とは陸地で面していないが海を隔ててほぼ隣に位置する。
自分の記憶の手がかりになりそうなネックレスを愛おしげに握りしめ、ティアナは睫毛を伏せて小さなため息をついた。