第11話 月宮殿の主
「ここが共同トイレ、こちらが共同浴場でこちらが共同食堂――」
一つ一つの場所を丁寧に案内してくれるエマの後ろを歩くティアナの顔色はだんだんと蒼白になっていく……
「と言っても、これから案内するあなた様の部屋にはすべて揃っていますがね」
呆れというよりも諦めに近いため息をついたエマは通路を奥へと進んで行く。
「あの……」
ティアナはエマの様子を伺いながら声をかける。
「ここってまさか……ハレ……ム……」
自分の予想が当てっていてほしくなくて、ティアナの言葉は尻すぼみに消えていく。
エマはちらっと半歩後ろをついてくるティアナを振り返り、ため息をつく。
「そうです、ここはハレム――リヒャルト・ダリオ・ロルツィング・スルタンがお納めするロ国首都ワール・パラストにある月宮殿のハレムです」
ティアナの顔からは完全に血の気が引き、ごくりと唾を飲みこむ。
身なりの良い格好をしていたが、まさかダリオが一国の王――スルタンだとは思ってもいなかった。
シュチェンの港街から数時間馬で走り、連れて来られた場所は運河と砂漠に挟まれた壮麗な都。その中央に神々しくそびえ立つ黄金色の宮殿に向かって真っすぐ馬が走っている事に気づいた時は、ティアナの頭は真っ白になった。
えっ、えっ……この人って身分の高い貴族とかじゃなくて……もしかして……
頭の中に浮かび上がる考えを必死で否定してきたのに、馬は迷いなく王宮に入っていってしまった。
裏門のような場所から中に入り、厩で馬から降りたティアナ達は側の小部屋へ行く。そこでダリオと少し話した後、「エマが部屋に案内する」と言われてついてきたら――このハレムだった。
ティアナは愕然として、唇をわなわなとふるわせる。
ハレムがどういう場所かは知っているが、まさか自分がハレムに連れて行かれるとは思ってもいなくて完全に思考が停止してしまっていた。
通路の真ん中に立ち止まり、顔面蒼白で黙り込んだティアナを見てエマは小さなため息をつき、辺りに人がいないことを確認してティアナの前まで引き返す。
「あなた様は海賊からスルタンに献上された娘――ということになっています」
「海賊……ですか?」
唐突に話しかけられて、ティアナはオウム返しにする。
「そうです、海賊です。海に面したロ国は海賊と協定を結んでいます。港や輸送船を襲撃しない代わりに、こちらも海賊船を追わないことを約束しています。治安維持のためにこの協定は絶対で海賊は協定の証にハレムに娘を献上するのです。他にも地方領主から献上された娘達も大勢いますが……」
海賊など名前を聞いたことはあるが、本当に存在しているとは思わなくてティアナは瞳を瞬く。
海賊と聞いてあまり実感がわかないようでティアナが不安そうな顔をしているから、エマは補足説明をする。
「ロ国には山賊はいませんが、海賊の他に砂賊もいます。もし砂漠に行かれる時はお気を付け下さいよ、現砂賊の頭首は海賊と違って協定を結んではいませんからね。まあ、ここを出ることは滅多にないでしょうが――」
そう言ってエマは話を本筋に戻す。
「つまり、あなたは海賊から献上された娘――スルタンと港では会っていません」
港でダリオと会ったことは忘れろ――暗にそう言われていることに気づいて、ティアナはこくこくと無言のまま首を縦に動かす。エマの迫力に押されて――っといってもダリオに比べたらぜんぜん怖くはないけれど、ここで頷かなければ助けてもらったダリオに迷惑がかかるように感じて、素直に頷いた。
エマが歩きだし、ティアナはその後をついて行く。廊下の突き当たりにある大きな扉を開き、先にティアナを室内へと促す。
「ここがあなた様に与えられる部屋です。部屋から出ることは自由ですが……初めのうちは一人で出歩かない方が身のためだと思います」
ティアナが部屋の中に足を踏み入れると、石造りの壁の広い室内は隅々まで掃除が行き届き、生活するのに必要な調度品もすべて揃っている。華美ではないが、ティアナはこの部屋の趣味を好ましく思った。
室内では二人の女官がティアナとエマを出迎え、頭を下げる。
「今日からあなた様のお世話をする者です。何かあればこの者達に言って下さい」
女官達にティアナを託したエマは、深々と頭を下げて告げた。
「それではアデライーデ様――このハレムにお迎え致しましたことに慶賀申し上げます」
そう言ってエマは、部屋を出て行った。
「アデライーデ様」
慣れない名前で呼ばれて、ティアナはぎこちなく返事をする。
「……っ、はいっ」
「わたくしは女官長を務めるマティルデと申します。こちらは女官のフィネ」
「フィネと申します。今日よりアデライーデ様付きの侍女として精一杯勤めさせて頂きます」
二人は挨拶を述べ、最高礼の姿勢を取る。
マティルデと名乗った女性は三十代半ば頃、女性にしては背が高く細身で、後頭部で綺麗にお団子に整えられて髪は亜麻色。眼鏡をかけて、いかにも規律に厳しい女官長といった貫禄を醸し出している。
対するフィネは年と身長はティアナと同じくらい、緩やかなカーブを描く赤毛は肩までの長さで、野に咲く花のようにふわりとした優しい雰囲気の少女。
「わたくしは普段はハレムを取り仕切る女官長として特定の女性にお仕えすることはありませんが、スルタン自らのご指名――立派に務めあげさせて頂きます。ここハレムはしきたりや制約が多くございます。初めは慣れず戸惑うことも多いでしょうが、アデライーデ様が立派なハレムの一員となられるようお仕えさせて頂きます。昼間はお側にいることは出来ませんが、なにかあればわたくしかフィネにお申し付け下さいませ」
「よろしくお願いします……っ」
エマにも一人では出歩かない方がいいとか言われ――マティルデにもなんだか脅されるようなことを言われて、ティアナは動揺する心を押さえて頭を下げた。
※
厩の側の小部屋でダリオと話した時――
「ここが私の住居で、これからはお前の住居でもある。どうだ、気に入ったか?」
氷の瞳をわずかに細めたダリオに尋ねられ、ティアナはゴクリと唾を飲みこんで頷く。
「はい……」
この場合、頷く以外の返答のしようがなかった。
「私はこの後、執務に戻らなければならない。お前を部屋まで送ることは出来ない、すまない」
ティアナは顔をわずかに顰めたのだが、決して不安だったからではない。ダリオがあまりに鋭い氷の瞳のままで「すまない」と言っているとはとてもじゃないけど思えない雰囲気を纏っていて気圧されたのだ。
もちろんダリオはそうとは知らず、ははっと笑って言う。
「心配するな、部屋まではエマに案内させよう。こいつは私の有能な右腕だ。お前の……」
そこまで言って言葉を切り、しばしの間を挟んで口を開いたダリオは眉間に皺を刻む。
「名前がないというのは意外と不便だな……」
「申し訳ありません……」
ダリオは同意を求めていた訳ではないが、威圧感にティアナは思わず謝ってしまう。
「名前がなくては他の者も呼ぶ時に困るだろう――よし、私が仮の名前をつけるとしよう」
「えっ――」
ティアナとエマの驚きの声が重なって二人は顔を見合わせ、ダリオに視線を向ける。ダリオは氷の瞳でしばしティアナを見つめ、愛おしげに瞳を細める。
「――アデライーデ。お前はここではアデライーデの名を名乗るがよい」
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