生還4
「サチ子さん、げんこつ岩での救助活動が始まります。五名のレスキュー隊員が決死隊を編成して、それをバックアップするサポータ二十名とげんこつ岩に向かうそうです」
現場では、隊員が乗り込む救助船が手配され、ボンベを背負ったレスキュー隊員が、水中眼鏡を頭にかぶって救助の打ち合わせを始めている。
「私たちは取材用ヘリでげんこつ岩上空を飛びます。私がカメラを回しますのでサチ子さんはマイクを取ってください、デスクから実況中継せよとの命令です。取材ヘリは既に地方新聞社の屋上ヘリポートに待機しています。ここから十五分かかります、急いでください」
加瀬君の声に我に返ったサチ子は車に向かって走り出そうとした。
「サチ子」と呼ぶ玄さんの声に振り返ると、よろよろと立ちあがった玄さんは、サチ子の手を握ると「東だ、正夫は東の海上を漂っている。これで見つけてくれ」と、言って首から下げていたドイツ製の旧い双眼鏡を外し、その場にへたり込んでしまった。
サチ子は口を開けたが声が出ない。〈分かったわ、やってみる〉と、玄さんの目を見つめるのが精一杯であった。
「サチ子さん、急いでください。何やってんですか」
加瀬君の苛立つ声に急かされてサチ子は車に飛び乗った。タイヤを軋ませて車は急発進し、ヘリポートに向かった。
程なくして新聞社に到着し、屋上に上がるとヘリはプロペラを回転させ何時でも飛び立てる状態で待機していた。
「ごめん、遅くなりました」加瀬君が頭を下げてお愛想したが、ヘリパイロットは『チッ』と舌打ちして「遅い」とだけ無表情に呟いた。サチ子達が乗り込むと、しびれを切らしたかのようにヘリは荒っぽく大空に舞い上がった。
「東へ飛んで、正夫を探しに行くの」
「サチ子さん、それはマズイ」
加瀬君の顔が蒼くなった。
パイロットは正面を見据えたまま、「東へ飛ぶ事はフライトプランに入っていない、ルート変更の許可が必要だ」と、忙しなく計器類をみている。
サチ子は「言う事を聞きなさい」と、叫んで後ろからパイロットの首を羽交い絞めにした。機は左右に大きくローリングして失速しそうになった。
加瀬君が慌ててサチ子を引き剥がし「お願いです、言う通りにしてください。墜落してしまう」とパイロットを拝んだ。
「全ての責任をサチ子さんが取ると言うのであれば止むを得ません。但し、フリーフライトは燃料の関係で十五分しか飛べません、それでよろしいか」
サチ子は「OK」と大声を張り上げた。
パイロットは渋々進路を東へと変更した。
朝日が輝く東の海原は、宝石を散りばめたように水平線の彼方へと続く。
サチ子は双眼鏡で海面をくまなく探すが光が反射して捜索は困難を極めた。
少し霧が出てきた。
まれにではあるが、早朝では、時として太陽が射るオレンジ色の光矢は、海面から立ち昇る水蒸気で出来た葦の壁に絡め取られ、四辺一面は段々と乳白色の霧に包まれることがある。
濃霧である。早く見つけねばと尚も深く眺めいると、光の糸が小さな雲に遮られ、海面がすこし浮き出たかに見える。
〈みつけた〉
東のはるか海上に黒い点が見える。
「銀シャリに黒ゴマが一粒、見つけたわ」と、サチ子は叫んだ。
その瞬間、機は大きく左に旋回しヘリポートに向かって帰り始めた。
「何故引き返すの? もっと近付いてちょうだい」
「時間です。帰還しないと燃料が持たない」
「予備タンクがあるでしょう、ドレンコックを開いたらどうですか」
横から加瀬君が計器盤を指差した。
「予備タンクの使用は法律で決まっており、緊急時以外は使用することは出来ない」
「それなら無線を打って。正夫達を発見したと。対策本部に連絡して本格的な探索機を出動してもらって。位置はGPSで割り出せるわ」
「もし発見が誤報でしたら正夫君の捜索は致命的なダメージを受けます。それでもよろしいか」
サチ子はたじろいた。
「もし誤報だったら」
その先の言葉が出てこない。
「この高度からでは、船が黒点のように見える事はありますが、海に浮かぶ人の頭までは無理です。何かの見間違いでしょう」
理論的であった。反論できずにいるサチ子に、パイロットは説得するかのように自信ありげに話を続ける。
サチ子は決断しなければならなかった。
理路整然とした理性か、それとも五感を研ぎ澄ます感性か。何を根拠に決断すれば良いのだ、正夫の生命が掛かっていると思うと決断できない。
サチ子は目を瞑った。
そして目を開いて決断した。
後悔はしない、仮に結果が凶と出ても重い十字架を背負って生きていく。
パイロットは対策本部に無線を入れた。
決断は競い合った善である
結果は人智を超えた神仏の膝元にあり
それを受け入れる勇気と覚悟が出来た時
人は決断し道は開ける
つまり、迷い
それは美しく競い合う善である