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正夫

  ドライブ日和である。サチ子は冬晴れの早朝、愛車のハンドルを握っていた。東名に乗って三時間、インターチェンジを降りて真っすぐ南に下り、その途中、峠の頂から小さな町と漁港を見る。

 この町の西はずれにある港の沖合に、地元では『げんこつ岩』と呼ばれている岩場がある。釣りには格好のポイントであるこの岩場には、休日ともなるとクロダイ等の大物を狙って、釣りマニア達の舟がひしめき合って、集まってくる。

 げんこつ岩を右に見ながら湾岸道路の信号を左折して、五百メートルほど港の入口側に入る。釣り舟専用の『船着き場』から少し走ったところに玄さんの店があり、玄さんは貸し舟の経営のほか、釣りの道具とか餌なども売っている。

 店の前に玄さんが立っていた。

「玄さん、こんにちは。元気――」

「やあ、サチ子か。久しぶりだな、いつ来ただ?」

 玄さんは人懐っこく笑った。還暦を過ぎて、がっしりとした骨格であるが、肉が落ち、少し痩せたように見える。ここは静男の生まれ故郷でもあるが、八年前の海難事故で、玄さんの店が災害対策本部となった場所である。サチ子は取材で玄さんと知り合って、その時の縁で毎年一度はここに休暇にくる。

「さっき着いたばかりよ、明日までいるわ」

「漁火か? 民宿の」

「そうよ、もう予約してあるの。おばさんも逢いたいって」

「ちょうど良かった、今晩俺の家でパーティがある。よかったらサチ子も来いよ」

「ありがとう、お邪魔するわ」

 少し走って、サチ子は今日の宿である民宿漁火に着いた。民宿のおばさんはご立派な体格で、昨年より一回り太ったように見える。この民宿は、食べ物が美味しいこともさることながら、岩場にこしらえた露天風呂がサチ子のお気に入りである。

「おばさん、こんにちは。よろしく」

「いらっしゃい、サッチャン。ま~ 一段と美人になって、さーさ、どうぞ・どうぞ」

 おばさんは荷物を受け取ると二階の東側の部屋へ案内してくれた。海の女は力持ちだ。窓からの景色は素晴らしい。青い海、白い砂浜や、溶け入るような入り江の山々、遠くには富士山がくっきりとその姿を映していた。


 玄さんは四、五年前に奥様を亡くし一人暮らしである。娘さんも遠くに嫁いでおり、帰ってくるのは年に一度か二度。寂しいですねと、言ったら「いやー、そんなことは無い。地元の若い衆と毎日宴会さ」と笑っていた。サチ子はもう若くはないが、『独身の女が来る』と聞くと、男衆は妙に力が入るらしく、いつも女王様に祭り上げられる。今夜もそのような雰囲気の中、玄さんの家の二階は、飲めや、歌えやのドンチャン騒ぎとなった。

 サチ子は玄さんの隣で鍋をつつく。取れ立て新鮮な白身の魚が味噌仕立てのスープの中で美味しそうに煮えている。五百ミリリットルの缶ビールを開け、男顔負けに飲んだ。話しが盛り上がると大声になり、たばこにも火をつけた。若衆はカラオケで歌ったり、エロ話で盛り上がったりしている。その一角で、意外と真面目にこの町の将来を熱く語り合っている若衆達がいて、玄さんも身体を傾けて、その若衆達の話を聞いていた。

 その屈強な若者たちの中に、一人だけ体も華奢で声も小さく、見るからに気弱でおとなしそうな男がいた。玄さんは彼を『正夫』と呼んでいた。

 若衆が正夫に話しかける。

「正夫、この町はもちろん漁業で食っていかねばならんが、観光も大事だ。民宿も増えているしな」

「観光で一番大事なことは何だろう」と、正夫もこたえる。

「安全だな。事故を起こしたら終わりだ。そんな話を聞いただけで、誰も寄りつかなくなる」

「そうだ。しかし、俺達の力だけでは無理だ。町も予算を付けてくれ」と、別の若衆も相槌を打った。

 正夫は、「皆の気持ちは上に伝える。俺も頑張る」と、言った。

 どうも正夫は町役場に勤めているようだ。

「厄介なのは『げんこつ岩』だな」

「あそこは良い漁場だが、引きが強い」

「俺もやられた、きついぞ。南に一直線に引かれる。下手をするとそのまま湾の外にまで出てしまう」

 その時、玄さんが体を振りながら話し始めた。

みんなも知っている神引きの話だが、ほんとの神引きは違う。

 八年前の友吉さんのことさ。海の魔物『ドビー』の仕業だ」

 玄さんはグビッとビールを飲んだ。

 友吉さんが助かったのは奇跡だった。友吉さんの証言、あれでドビーの手口がわかったと、玄さんは目力を込めて語った。どうも、げんこつ岩の辺りにはドビーという魔物が潜んでいるらしい。皆はドビーが悪さをするのではないかと、心配しているのだ。

「このことは、公開すべきだ」

 若衆の一人が言った。

「ばかな、そんなことが知れたら釣り客が来なくなる」

 リーダ格の若衆が、苦々しく酒を飲んだ。

「人命が第一ではないのか?」

「俺たちの暮らしはどうなる? 頭を冷やせ」

「そうだ、身が第一さ。都合の悪いことは、役所の責任にすればいい」

 正夫はどうだ、と聞かれ正夫は口ごもった。

「俺には毎日浜に出て皆の無事を祈ることしかできない」と、玄さんがかばうように言った。そして……

「皆も注意して海を見ていてくれ」と、その場を見渡し……

「異変が起きたらすぐ知らせてくれ。おれの家には防災局と直結したホットラインがある。正夫が、課長さんと一緒に県にかけ合ってくれて、ようやく整備された。これがあれば鬼に金棒だ。何でもそうだが、早ければ早いほど助かる可能性が高くなるでよ」と、その場をつくろった。答えの出ない結論は先送りである。


 海難事故調査委員会の公式発表では、『夜釣りに出た友吉さんは、神引きに襲われ南に流された。外洋に出てから黒潮に乗って東に流され、外洋航路の外国船に救助された』と、いうものであった。

 サチ子の取材では、『突然海が時化、友吉さんは高波にのみ込まれて気を失った。気が付いた時には外洋に漂っていて、幸運にも外国船に救助された。ドビーは、遭難者が発見されないように救助隊には南に流されたと見せかけて、実は東に流した。外国船に救助されたのは全くの偶然であった』と、いうものだった。

 事実誤認がある、ということで、サチ子のレポートはボツになった。しかし玄さんは、サチ子のレポートを見て「これが正しい」と、言った。

 

 のん兵衛達の宴会は腰が長い、このまま延々と続く気配である。サチ子は適当に切り上げて民宿に戻った。

 時計を見ると既に十二時を回っている。真下にある露天風呂を二階から覗いてみるが、辺りは真っ暗で人の気配は無い。そろそろ行くには、よいタイミングである。岩場の陰で服を脱ぎ、お風呂に入る。ほどよい湯加減に、つい「フイー」と声が出て、サチ子は気持ちよく肩にお湯をかける。ドドーン・ザザー、ドドーン・ザザーと、打ちては引いて、引いては打つる波の音に、暫し心を沖にあずけるのであった。

―――― 〈満天の星屑。さてさて、人は亡くなると星になるって聞くけど、海の男達は母なる海に帰るんだって。場所はマルセイユ、ノートルダム・ド・ラ・ガルド(守護聖人)教会。山頂の教会の屋根には金色に輝く聖母マリア像が建っていて、聖母マリアは海難事故などの魔物から海の男達を守っているそうな。無事帰還した漁師も、そして未帰還者も、人は皆、救いを求めて敬虔な祈りを捧げているという。この海はその地中海にまで続いている。美しい、亡くなった人々の魂が輝いているみたいだ〉――――

 サチ子は、ハッとして我に帰った。

 人の気配は無い。しかし、確かに黒い影が動いた。サチ子は暗闇に目を凝らす。すると、男がいた。サチ子の左前方にある岩場の陰で、男は静かに背を向け、遠く沖を眺めている。

 本能的に危険を感じ、この場から立ち去ることを決意したサチ子は、男に気付かれぬように、岩伝いにソロソロと湯をかき分け、出口付近までやって来た。ここまでくれば走って逃げることもできるし、助けを求めることもできる。サチ子は少し安心して、湯ぶねから立ち上がり様、振り返りチラッと、その男を見た。

 その瞬間、恐怖のあまりサチ子の体は凍りつき、声も出せずに動けなくなった。背を向けていたはずの男は、こちらを向いてサチ子を凝視していたのである。真っ黒な顔の輪郭は周囲の闇に溶け込んで、その表情はうかがい知れない。ヘビのように血走った冷血な目が、動けなくなったサチ子の体を、いたぶるようにめずり廻している。サチ子は気を失いそうになりながら、小さく「マリア様」と、口にした。

 その瞬間、男はたじろぎ、サチ子に背を向けて海に目を移した。一瞬のスキを衝いて、サチ子は地を蹴って転がるようにその場を逃れ、宿に戻った。

 二階の窓からそっと露天風呂を覗いてみたが、人の気配は無かった。湯疲れしたサチ子はそのまま布団をかぶったが、眠れぬ一夜であった。


 浜の朝は早い、ポンポンポンという焼玉エンジンの音を響かせて、一番船・二番船と出漁していく。慌ただしくも、活気にあふれた朝の風景、浜の一日が始まった。

 玄さんが、今朝も早くから海を見ている。

「おはよう、玄さん。昨日はご馳走様。いつも海を見ているのね、何を考えているの?」

「その時によって違うが、今は東の海水浴場のことさ。ずっと昔、子供のころの東の海水浴場……。

 魔法のように、夏の間にだけ開く不思議な駅だったな――。」

 玄さんはボソボソと話し始めた。

 そこは竜宮城のようなところだった。

 ところが、いつの頃からか、この海辺に魔物『ドビー』が棲みついて、知らぬ間に長く続く白い砂浜はなくなった。遠浅だった海は、恐ろしいほど急深になって、浜はゴミだらけとなり、海には重油の塊が浮かぶようになった。工場の廃水が流れ込んであんなに綺麗だった水は濁ってしまったと、……。

「すべてドビーの仕業。皆が気付いた時は既に遅かった。東の海は海水浴場としては使い物にならなくなっていたのさ。

 漁師になって、二十歳はたち過ぎたころ、南の海に泳ぎに行ったことがあるんだ。

海の色を見てハッとしたね。失われた東の海岸の透明な海がそこにあったんだ。子供のころの記憶がいっぺんに噴出してきてね。

 あれは懐かしい故郷に帰って来たようだったね。

 それから南の海には何度も遊びに行ったよ、夏が来るとね。

 俺の青春だったからさ、南の海は。

 もう長いこと行ってもみないが、あの碧い海は、いまでもきれいだろうな。……」


 玄さんは海を見ながらひとりで思い出に浸ってしまった。

 サチ子は仕方がないので、玄さんと別れ、朝食で同席した老夫婦とお風呂に。

「おばさん、水着貸して」

「はいよ、サッチャンのマイ水着」

〈エヘヘ、マイ水着なんてあり? 朝の露天風呂はたまらない。小原庄助さん・女版〉

「おばあさん達はどちらからお見えですか?」

「鎌倉からですよ、サチ子さんもジモチ?」

「エ、……」

「ここの湯は痔に良く効くそうですよ」

「いや、わたしは、まだ、そちらは大丈夫です、エーホント」

「そうね、でも痔に効く位ですからお肌にもよろしいでしょうね――」

〈ウーム、黄門様と美顔エステのコラボレーションか、チョッとね〉

 お風呂から出たサチ子は、お肌のケアも終わり、浜に出てみる。と、玄さんがまたもや沖を眺めていた。

 昨夜の事件を話そうか迷ったが、結局言わず仕舞いとなった。サチ子は玄さんの横に並び、玄さんと同じように両手を腰に当てて沖を眺めた。

「サチ、正面におむすびを小さくしたような岩があるだろ、げんこつ岩だ。そこから指三本右方向に舟が浮かんでいる。黒ゴマのように見えるけど、あれはうちの舟だ。銀シャリに黒ゴマが一粒って感じだな」

「エー、どこどこ、ア、あそこ? ほんと、でも玄さんの舟だってどうしてわかるの?」

「舟は皆同じような作りだが、毎日見ていると微妙に違いが解るんだ。理屈じゃあないね、自分の目を信じるってことかな。見てごらん、三時の方向、ずーと手前の舟、船尾で船外機の舵を取っているのが正夫だ」

「あの舟ね、人が三人乗っているわ。正夫さん、お仕事なの?」

「いや、奴は公務員だ。趣味で乗っている。正夫の親父さんはカツオの一本釣り漁船に乗っていたが、三十年ほど前三陸沖で遭難した。いまだに帰ってこない」

「そーなんだ、正夫さんお気の毒ね」

「正夫の母さんは女手一つで正夫を育てた。正夫が親父と同じ船乗りになると言った時、泣いて反対したよ」

「わかるわー、お母さんの気持ち。わたしの母も、何だ・かんだと言うけれど、わたしの事想ってくれているもの」

「結局、俺が町長に頼みこんで町役場で使って貰う事になって、それから、あいつも真面目に働いている。どうだい、サッチャン」

「え? どうって何が」

「正夫のことさ、聞いて無かったのか? お嫁さん、捜しているんだ」

「えー、いや、なに、ウン、そうだよね、エー・待って、わたし、だめよ」

「何でさ、いい人、いるんかい?」

「いや、ウン、いやいやそんなこと無いけど。でも、わたし、擦れっ枯らしだから」

「そんなことはない、サチはいい娘だ。ま、いいさ。今すぐで無くても」


 サチ子は両手にサンダルをブラブラさせて、裸足になって宿に帰った。砂に足が埋まる。歩くたびに足裏の砂がジャリジャリと鳴って、もぞがゆい愉快な気分になった。そして、昼まで二階から飽きること無く海を眺めていた。げんこつ岩の辺りにも、小さな舟が思い思いに釣り糸を垂れている。

「サッチャン、お昼よ。下りといで」

 おばさんの甲高い声でサチ子は階下に下りた。今日のお昼はお刺身ステーキ、それと天ぷらがメインの磯料理。こんなには食べられないと思ったが、案外ペロリと平らげてしまった。

 午後、お昼寝をしてソロソロと帰り支度を始めたが――

〈そうだ、玄さんにあいさつしてから帰ろう〉

 サチ子は、みやげ物を買いながら玄さんの店を再び訪れた。

 店には正夫もいた。玄さんは店の中から手招きして、「正夫、サチ子が来たぞ、コーヒでも入れろや。俺、ちょっくら用があるで」と、言って出て行った。サチ子は、こんにちはと笑顔であいさつし、海が見える窓辺に腰かけ、正夫のコーヒをごちそうになった。モカ系の甘口、強いて言えばサチ子の好みではないが、でもおいしく頂いた。

 共通の話題も無く若干気まずい雰囲気。

 正夫は下を向いてモジモジしている。サチ子はこのような状況下での演技が下手で自己嫌悪に陥る事がある。

〈コホン〉

「正夫さんの趣味は海釣りですか?」

「ええ、マー。でも本当はギター、フォークですよ。海を見ていると自然に詩が湧いてきて、シンガーソングライターってとこかな」

「正夫さんの曲、聞いてみたいな」

「ほんと、CD焼いたの持っているから一枚プレゼントするよ」

 正夫はカバンの中から一枚のCDを取りだして、紙袋に大切そうに入れて、サチ子に渡した。

「サチ子さんの趣味は?」

〈やはり。そう来たか、ヤブヘビだった。わたしは無芸大食、早メシ、早グソ、おっとっと、いけない。母のメッセージ『サチ子さん、上品に、エレガントに、おたのもうします。』は~い、それでは行ってみよう、ヨーイスタート・カチンコ〉

「わたしはジャーナリストよ、特大スクープを世界に発信するのが夢なの」

「僕の曲、世界中に流れるといいな、夢なんです」

「そーね、お互い頑張ろ。あー、もう帰らなくっちゃ」

 サチ子はおいしかったコーヒのお礼を言って外に出た。

 入口付近でガタンと音がして玄さんが砂浜を走って行く。

〈あいつ、わたし達の話、盗み聞きしていたな〉

 玄さんは波打ち際で振り返ると笑顔で手を振った。

 サチ子も大きく手を振って、「又来ます。さよなら」と、言った。



第一章 正夫という男 了


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