ひきこもり×一年
「ん、そういえば、そろそろ一年経つ」
なんの脈絡もなく相原みずきは唐突に言った。
春の陽気を拒む薄暗い部屋に溶け込むような雰囲気を纏う女性である。
黒い長髪は、立つと股下まで伸び量も多い。何かと不便なことはあるが彼女は切ることはしない。いや、できないと言った方が正しいか。手入れは入念というわけではないが、艶はあって綺麗な黒髪といえるだろう。
煩わしい髪に縁取られた顔に浮かべるのは感情乏しい表情が多く、瞳は常時眠たげにしている。色素の薄い唇から放たれる声も淡々とし、蚊の羽音のように小さい。
格好はゆったりとした地味な色のワンピースを着ている。袖、裾から伸びる手足は病的なほど白く細い。
「何がだ?」
みずきと同じように陽の光を浴びてない不健康な肌の色をした青年、水沢かなたは怪訝そうに目を細めて聞いた。
彼もみずきに負けず劣らずな雰囲気を醸しだしており、髪は肩下まであり、前髪は下ろすと顔全体を覆う長さまで伸びている。
殆ど外出のないみずきとは違い、かなたはある程度は出れるが、一時間弱も人と関わることになる床屋に行くのは極度の精神的苦痛を伴う。そのため、以前に切ってから約一年伸ばしっぱなしだ。鬱陶しくはあるが天秤に掛けると行きづらさが勝る。
「明確には書かれてないけど、その後の話から推測したらこの辺りの時期だと思う」
さらにかなたの眉間の皺は深く刻まれる。考えてみても、みずきの言葉に関することは一切引っかかることはない。
「なんの話だ?」
暇な時間を幾ら費やそうとも、答えは浮かびそうにないため、かなたはみずきに訊ねた。が、みずきは首を小さく横に振る。
「ん、こっちの話」
そう言って話を流したみずきに、かなたは疑問符を頭上に浮かべるように首を傾げた。
「ところで、この一年、かなたは何か変わったことはあった?」
急な話題転換と、答えの出きっている質問にかなたは苦笑する。
「あるわけないだろ」
新年度となり、新たな生活をスタートする者も多い中、かなたが断言できるのは彼の状態にある。
「ひきこもり歴がプラス一年」
淡々とみずきが言った。
そう、かなたもみずきもひきこもりという状態を長年続けている。月日が経とうが何も変わらない――いや、経験の代わりに絶望が積み重なっていく。
「今更一年くらい、変化とも言えないだろ?」
かなたは同意を求めるように言った。
「ん。そうかもしれない」
「五年はともかく、十年もなるとな。これもマンネリってやつかもしれないな」
かなたはつまらない冗談を言ったように自嘲気味に笑う。
「新鮮味のない毎日の繰り返しだしね」
みずきはつまらない冗談を聞いたように笑うことなく返した。
二人の日常は巻き戻してリピートをしているかのごとく、大きく変化することは数少ない。変わるのは読んでいる本のページの内容、アニメの内容、オンラインゲームのレベル。幾ら探し出して羅列しても、生産的なことは何もない、無為の繰り返しだ。
「普通ならいつかこのままじゃ駄目だと思って、行動できるんだろうがな」
そう言ってかなたはため息を吐く。自分と同じ状態の人をネットで探し、何人も行動に移せた人を見てきた。その度に何もできてない自分を恥じ、責めた。
「ん、そういう人もいると思う。けど、あながちそうとも言えないみたい」
「その“あながち”の使い方は正しいのか?」
「多分、合ってると思うけど。自信はない」
「まあ、俺もだが」
「話戻していい?」
かなたは頷き、
「そうとも言えないってどういうことだ?」
一つ前の会話に対して返した。
「ひきこもりの期間――つまりヒキ歴の平均年数は九年みたい」
カンペでも読むような淡々とした口調でみずきは言った。
「ソースは?」
「台所」
感情乏しくトボケるみずきにかなたは呆れたように嘆息した。この場合のソースとは情報の出処はどこか? というネット掲示板等で使われる方の意味だ。
「某掲示板の過去ログと、スレをまとめたブログ」
「何故濁す必要があるんだ?」
訝るかなたにみずきは「念のため」と答えた。
「そんなにひきこもる人がいるとはな……顔を見てみたいな」
驚いた様子でかなたは言うと、みずきは、
「鏡、いる?」
「いや、必要ない。目の前にいた」
「ん、私も」
と、互いに無言で視線を交わすが、クスリとも笑わない。自虐的なことを言い合って、見つめ合う光景はシュールであった。
「それにしても平均が九年か……」
沈黙が続いた後、椅子の背もたれに体を預けてかなたが言う。
「信憑性は薄いけど。三百人くらいだったと思うから。調査方法も分からないし」
「それでも凄いとは思うが。ひきこもりの数が70万人という数字を信じるとして、それが当てはまるとしたら、あり得ないだろ」
「私たちが言えることじゃないと思うけど。平均より長いし」
「しかし、確かに信憑性はないな。掲示板の書き込みを見ても、ひきこもり年数は大抵は平均を下回ってるようなのが多いし」
「書き込めないんでしょ。ネット上でもひきこもり」
みずきは皮肉るように言うと、かなたは、
「的は射ているかもな。コミュニケーション能力の衰えは、ネットにも影響がでるといったところか」
「年数が経ってないからこそ隠さずに書けるのもあるかも。九年とか言いにくいだろうし。掲示板の雰囲気によるけど」
「ああ、分かる気はする。素直に書いて驚かれたりしたら凹むしな。短期間と長期の思考は結構違いがあると思った」
そう言ってかなたは苦い表情を浮かべる。妙に実感のこもった声だった。
「経験談?」
率直に訊ねるみずきに、かなたは真顔で答える。
「友達の話だ」
「そう。どんな風な反応だったの?」
みずきは哀れむような瞳になり、質問を重ねる。友達のいないかなただと、それは間違いなくウソになり、すなわち自分の話か、或いは脳内に住む友人の話という二択に絞られる。無論、かなたも分かっていて冗談で言っている。
かなたは思い出しているのか、徐々に苦々しい顔になっていく。
「『マジかw』とか『ネタだろ?』だの、信じてないような書き込みから、説教めいたものまであったらしいな」
かなたは一度嘆息を挟み、遠い目をして、
「今にして思えば、俺の1レスであんなに反応してくれて喜ぶべきかもしれないが、あれ以来、書き込むことはしなくなったな。アイツら絶対ヒキじゃねえ……」
憎々しくかなたは言う。もはや誤魔化すことはせず完全に自分の話になっている。
「ん、実際にひきこもりじゃないかもしれないけど、数年と長期だと考え方は違うのかも」
みずきがフォローするように言う。
「どういう風にだ?」
「短いと、まだ長くひきこもることが想像できなかったりとか」
あー、とかなたは得心したように頷く。
「それはあるな。俺も昔はまだ大丈夫だと思うときもあったし」
「それは不登校の時? それとも終わってから?」
「前者は難しいとは思ったな、だがそれが過ぎれば何とかなるかなんて安易な考えがあったりはした。馬鹿だったな」
かなたは自嘲するように苦笑する。
「そういうものかもね。私はなかったけど」
みずきは淡々と言いながらもやや俯きがちになる。ひきこもりとなった時期はかなたが早くはあったが、状態としての重さならばみずきに軍配が上がる。
かなたは授業時間外でクラスメイトに出会わないであろう時間(夜か早朝)にならば昔から出れはしたが、みずきは全く出れない時期があった。これでも今はだいぶ改善されたといえる。
みずきは続ける。
「数年はまだ希望はあって、それが過ぎたら一気に下がるんだと思う。私論だけど」
「呼吸停止の生存率みたいだな」
「長くなると障害が残りやすくなるのも似てるかもね。コミュニケーション障害」
みずきはつまんなさそうに言った。かなたも苦笑気味に口端を僅かに上げるしかできない。笑えない冗談の類だったと気づき少し後悔した。
「まあ、納得はできるな。数年経ったら一年の感覚と間隔が薄くなってくるし」
「ん、サ○エさんみたいに時間が経ってないような、ね」
「アレみたいに経たなかったらいいんだけどな……」
かなたは溜息を吐いて言った。
みずきは同意し、少ししてから自分の部屋に帰っていった。
狭すぎる二人の世界。繰り返される代わり映えのしない日常はまた一つ消費されていった。