ひきこもり×小説(1)
「…………これ」
薄暗い部屋に幽霊のように現れた人影は、水澤かなたの近くへと歩み寄り、机に静かに一冊の本を置いて、黒い影のようにスーと相原みずきは引いた。
「ああ」
返却された本を見て、かなたは生返事をする。みずきが定位置であるベッド端に腰かけたのを見て、
「どうだった?」
と、返された本の感想を問う。
「ん、内容としては普通……だけど、」
みずきは語彙のないありきたりな感想を返し、やや間を作って、
「あんまり、ひきこもりじゃなかった」
「だな」
かなたはみずきの言葉に共感するように小さく頷き、苦笑いめいた表情を作った。
「ヒキ年数はともかく、わりと外に出ているしな。ま、物語的にそうじゃないと面白くもないし、一般受けもしないか」
「一人暮らしだから仕方ないとは思うけど……その時点でちょっと違うかなって思ったかな。一人暮らししてる人の話は掲示板で観たことあるけど」
「ま、簡単な内容はアニメ化とかしてた頃に知ってはいたがな。観てはいなかったが。どうにも共感できる部分は少なかった。ありがちなネタはあったが」
「でも、私達みたいなひきこもりだったら、話作れないと思う」
「……確かに。何も話が進まなそうだ。呼び鈴も電話もでないし」
「台詞も独り言だけとか」
「脳内友人との会話とかはありそうだが」
「それ、虚しいだろうし、ツマんないと思う。脳内でも現実でも、一つの場面で主な登場人物二人で延々と会話するだけの話なんて誰が面白いと思うの?」
「やけに具体的で手厳しい言葉だな……」
かなたは感想を話していた本を手に取り、何気なくパラパラとめくっていく。
本の内容はというと、簡潔に言うとひきこもりを主人公とした小説で、その設定を活かした物語になってはいるのだが、会話の通り、二人の評価は芳しくない。
それは、主人公が自分たちよりまともだという一種の妬みともいえる。あと、二人で会話し続ける話でも書く人の力量で面白い話は創れるだろう。
かなたがこの本を買ったのは数日前の事だ。好きなライトノベル作家の新作が発売されるという情報を、予めネットで知ったかなたは、悩んだ挙げ句財布の紐をゆるめて買うことに決め書店へと向かった。
目当ての作品を探してるうち、見つけたのがコレであった。過去にアニメ化などで注目され、ひきこもりが主人公だということもあり、かなたはタイトルだけは知っていた。気になってもいた。
しかし、中古本ならともかくその書店は定価でしか扱っておらず、ましてや数年前の作品。もし、かなたにブッ○オフまで行ける行動範囲があればそっちに行き安くなっている方を買うが、無理な話だ。
一度手に取り、値段を見て逡巡する。
数十秒が経ち、店内に部活帰りらしき少年少女の団体がやかましく入ってきた音を聞き、素早い決断を迫られた。
その本を取り、目当てのライトノベルと、みずきについでにと頼まれた雑誌を見つけると会計を済ませそそくさと店内を後にした。
これがひきこもりが主役の小説を手にした経緯である。
「コレみたいに、美少女が脱ヒキさせてくれたらいいのにね……」
儚げな表情でみずきは言った。
「コレはそんな都合の良い物語というわけでもないけどな。つか……美少年じゃなくていいのか?」
「ん、どちらかというと美少女がいいと思ってるけど」
「そか。……ま、絶対にないだろうが」
「だね。部屋まで来てくれない限りは出会えないだろうし」
「不法侵入か」
「……所詮、空想の話だし。ありえないよね」
「だな」
―――――――
かなたは瞼越しにもしっかりと感じる眩しさに対抗するように、ギュッと目を瞑って半ば無意識的にかけ布団を頭から被った。
――クスッ。
と、布団の外側から聞こえる上品な笑い声に、半覚醒のかなたの脳内に疑問符が浮かんだ。
誰かいる。携帯の着ボイスではない。感覚的な物ではあるが、人の気配が確かにある。
かなたの部屋を、朝っぱらな時間から訪れる人物はかなり限られる。両親、或いは幼なじみしかない。両親は滅多なことじゃ朝から部屋には来ないし、幼なじみも僅かに確率が上がるくらいで似たようなものである。
そもそも、短い笑い声の中にもはっきりとある清涼感はみずきには出せないだろうと候補から消すが、そうすると思い当たる人物は全くいなくなり、布団の外側にいるのは記憶にない第三者ということになる。だとすると、やはりみずきなのかもしれない……と、頭を出し確認しようとした時、
「起きてください。いいお天気ですよ」
その透き通った声により、みずきの線は完全に消えた。そして第三者だと確定的となった。
ニュッと布団から髪だけを出した状態でかなたの動きは止まっている。
自分の部屋に見知らぬ人がいる。
それはかなたにとって、自分の住処に天敵が居座っているような、どうしようもない怖さがあった。
一分ほど、かなたは微動だにせずにいたが、見知らぬ人も声も物音も発しなかった。少し冷静な思考を取り戻しだしたかなたは考える。
まずは幻聴じゃないかと疑ってみる。第一、見知らぬ人物が二次元の世界にしかいない幼なじみめいた台詞で起こしにくるはずがない。
しかし、声が幻聴だとしても、瞼越しに感じた眩しさはどういう訳だろうと考える。無論自らカーテンを開け放って寝るわけがないし、誰かが開けた可能性も少ない。「…………」
こうして布団を被り熟考したのち、かなたは頭を出してみることにした。九割九分誰もいないだろうと思いながら。誰もいなければ幻聴で、夜風に当たった時うっかりカーテンを閉め忘れたという結論で済ますことにしようと考えつつ。
警戒するリスのように、かなたはゆっくりと布団から頭を出し、目の部分だけ出すと、残り一分の可能性が待っていた。
「おはようございます」
そこには太陽のように柔らかな笑みを浮かべる見知らぬ少女がいた。
――ああ。これは夢だな。
かなたは即座にそう答えを出した。
(起きたら目の前に美少女がいたとか現実じゃありえないことだ。マンガやラノベじゃあるまいし。
そもそもこれが現実という設定だとしたら、長編が始まりそうだし、だったらここまでの話はなんだったんだと。ここは結局は夢オチということにして話を終わらす展開だな)
後半に意味不明な理由を展開しながら、かなたはそう夢だと結論づけた。
だが、夢だと思いつつも、見知らぬ人物にかなたは少女の顔に視線を合わせたまま固まった。
少女は布団から顔を半分覗かせて寝ぼけ眼を向けるかなたに、
「あなたは脱ヒキプロジェクトに選ばれました」
そう告げられ、かなたは視線を天井に向け『大丈夫なのか?』と言いたげに虚空を見つめた。多分、大丈夫。
「……は?」
とりあえず起き上がって、かなたはベッドの上に行儀よく正座し、怪訝な顔になる。
肩口まである栗色の短い髪を持つ少女は、みずきと比べると健康的な色合いである手を胸にそっと当てて、口元を緩ませ柔らかい笑みを浮かべ言った。
「私は外原海。ひきこもりの水澤かなた。つまりはキミを助けに来ました」
かなたは寝癖で乱れた髪を掻き、鳥の巣のようにし、窓の方を見るとカーテンは開け放たれ、麗らかな光が床に窓枠の影を作っていた。
「え、あ……」
かなたはパクパクと魚のように口を開くが、言葉が出てこなかった。
ただでさえ、他人との会話に対して戸惑うというのに、自分の部屋に唐突に現れて寝起きに声を掛けられては、優しくフレンドリーに話しかけられようと、上手く言葉を紡ぐことができない。
それを見て外原海は口元を手で抑えてクスクスと上品に笑い、
「そうですよね。突然過ぎましたよね。私、部屋の外に出てますから、話を聞く準備ができたら言ってください。ずっと待ってますから」
言って、外原海は部屋の外に出て、ドアが控えめな音を立てて閉じられた。
「…………」
ドアを見ながら、かなたは心労を出すかのようにため息を吐いた。
不法侵入者がいる。と、携帯で110番とも一瞬考えたが、警官が部屋に来られても困るし、そもそも電話をしたとして事情を話せるわけがないとすぐに払拭する。
それに不安も大きいが、期待感もあった。
見知らぬ少女が部屋に来て、手助けをしてくれると言う。
怪しいを通り越して訳が分からない話だが、かなたにとっては一流企業から内定を貰えるような願ってもない話でもあり、僅かながらも期待してしまう。
壷でも売りつけられそうになったら、お引き取り願うかと、一度深呼吸してから外原海を呼んだ。
部屋には静寂が降りていた。
いつもの指定席である椅子に座るかなたと、ベッド脇に座る外原海は、互いに言葉を発さない。
かなたは視線の居所を探すように部屋を意味なく見渡し、外原はかなたをジッと見ていた。
『まず、質問はありますか?』と外原はベッドに腰掛けながら言って、考えるかなたを待っている――という図である。
ようやく、投げかける言葉を見つけ、言うことを決意したかなたが、
「……勝手に部屋に入るのは非常識じゃないか?」
玄関には鍵が掛かっておらず、階段も玄関脇にあるため入ろうと思えばいつでも侵入可能ではあるのだが、それは常識から外れた行動であり、法にも触れるだろう。
「いまさら疑問に思うことでもないと思いますし、それより本題に入れる質問を期待していたんですが。がっかりです。アホ、ボケ、カス。です」
外原は、柔和に微笑んで、澄んだ声のまま罵倒を浴びせてきた。最後の、『です』が、デスと即死魔法のようにかなたには聞こえ、
「……悪い。脱ヒキプロジェクトとはなんでしょうか」
棒読みめいた口調でかなたは本題への道筋を作るように聞いた。
外原海はエホンとわざとらしく咳払いし、
「えとですね。幾つかの脱ヒキに向けてのカリキュラムをこなしていって、それらを見事乗り切った時、晴れて……ハレて! ユカイに脱ヒキできるというプロジェクトなのです」
両腕を広げながら、力強く外原海は言い切った。
「…………」
そのままじゃん。というツッコミをかなたは飲み込んで冷めた目を向ける。何故、晴れてを強調するのか。
「分かりましたか? バカでも分かる説明だとは思いますが」
どうしたものかとかなたは考えるフリをするように髪を掻き乱してから、挙手をした。
「はい、かなたくん」
外原は優しい先生のように微笑み、手のひらでかなたを指し示し、質問を受け付けた。
「……カリキュラムっていったい何をするんだ?」
「言えません……と、拒否権を発動したいところですが、いいでしょう。最初のだけは特別に教えてあげます」
かなたは机に頬杖を突き、聞く姿勢を見せて続きを待つ。
「まず、脱ヒキへの第一歩としては人に馴れなければいけません」
ピッと人差し指を立てて、外原はニコリと笑う。かなたはウンウンとやる気なさげに首を小さく上下させる。
「なので、第一カリキュラムは、狭い部屋でひしめく百人の一般人の中に放り込んで、三日過ごしてもらいます」
指を三本立てて外原は言った。
かなたはおしくらまんじゅうな人混みの中に有無を言わさず放り込まれる自分を想像してから、
「死ねるな」
と、自虐的に笑ってみせた。
「貴方みたいな人を日の下に引きずり出すには、このくらいの厳しい治療が必要ですから」
「かもな」
フフ……とかなたは笑う。
「そうです」
クスッと外原は笑う。
フフフ。
クスクス。
十秒ほど笑い合っただろうか、絶妙な間を空けてかなたは、
「断っていいか?」
外原もこれ以上ない絶妙な間で、
「駄目です」
ニッコリ微笑んでみせた。