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婚約破棄された令嬢、隣国の王だけがその言葉を聞いていた——無視した代償は大きかったようです

作者: 絹ごし春雨
掲載日:2026/04/25

彼女は——聞こえすぎる。


そして。


そのすべては、彼女のものにならない。


隣国の言葉。

その奥に沈む、わずかな棘。

飲み込まれた本音。


鼓膜の奥に、触れるみたいに届く。


誰も拾わない“温度”まで、触れてしまう。


だから。


(それは、頷きじゃない)

(試されている)

(進めば、崩れる)


理解した瞬間、指先がわずかに冷える。


分かっているのに。


「発言は控えろ」


隣で、低く落ちる声。

首筋に、冷たい刃を当てられたみたいに、思考が切られる。


「確証のないことを口にするな」


……正しい。

正しすぎる。


胸の奥で、何かが静かに沈む。


だから、言えない。


言いかけて。

喉の奥で、言葉が引っかかる。


繰り返すうちに——


彼女の言葉は、最初から無かったものになる。


「——リシェル・アルディナ」


名を呼ばれる。


びくり、とわずかに肩が揺れる。


顔を上げると、王太子がいた。


まっすぐに。

冷たく。


「婚約を破棄する」


ざわめきが、広がる。


空気が、肌に触れる温度を変える。


「理由は単純だ。お前は何もしていない」


静かな断定。


「曖昧で、成果もない。王太子妃には不要だ」


……何も、浮かばない。


否定も。

言い訳も。


だって——


残っていない。


彼女の言葉は、消えていた。

結果だけが残り、それはすべて、彼のものだった。


胸は、驚くほど静かで。


その代わりに——


指先だけが、じんと冷えていく。


「……承知いたしました」


頭を下げる。


視界がわずかに暗くなる。


そのとき。


「——では、その“何もしていない者”に聞こう」


低く。

空気を裂く声。


一瞬で、空気の重さが変わる。


隣国の王。


ゆっくり歩いて。

彼女の前で止まる。


距離が、近い。


呼吸の気配が、かすかに触れる。


「今の交渉、どう聞いた」


初めて。


最後まで、言うことを許される問い。


喉が、震える。


でも。


逃げ場がないのに、

なぜか——息がしやすい。


「……承諾ではありません」


零れる。


「様子見です。三日以内に、条件を覆されます」


言葉にした瞬間、心臓が一つ、大きく跳ねる。


場が揺れる。


王太子が、すぐに口を開く。


「根拠は?」


「言葉の選び方と、間です」


「曖昧だ」


切り捨てる。


——いつも通り。


胸の奥が、きゅっと縮む。


……なのに。


「十分だ」


王が、重ねる。


その一言が、すとんと胸に落ちる。


迷いなく。


そのまま使節へ向き直る。


「では条件を改めよう」


流れるように、提示される新条件。


一つ。

また一つ。


彼女が感じ取った“違和感”が、

そのまま形になるみたいに。


使節の顔が変わる。


逃げ道が消える。


「……承知、した」


低く。

重く。


今度こそ、本当の了承。


その瞬間——


空気が、反転する。


肌に触れていた緊張が、一気にほどける。


「なぜだ……」


王太子の声が、揺れる。


「同じ条件のはずだ」


「違う」


王が、静かに言う。


「聞いたかどうかだ」


……落ちる。


言葉が、そのまま重さを持って、胸に沈む。


「この娘は、ずっと言っていた」


静かに、突きつける。


「お前が、聞かなかっただけだ」


——崩れる。


理解が。


これまでの交渉。

うまくいっていた理由。


思い当たる。


小さな違和感。

言いかけて止まる声。

わずかな視線。


……全部。


拾っていたのは、彼女だ。


自分は、それを——

自分の判断だと思っていただけ。


「……そんな、」


続かない。


崩れたのは、評価じゃない。


前提だ。


「貴国は、面白い」


王が、淡く笑う。


「支えていた柱を、自ら抜くとは」


……確定する。


もう戻らない。


決定的に、失った。


王は、彼女へ手を差し出す。


「来い」


短く。


揺るがない。


「君の価値が分からない場所に、置く理由はない」


迷いは、ない。


その手に触れる。


冷えた指先が——包まれる。


じん、と、熱が移る。


「……冷たいな」


「はい」


「なら、こちらで温める」


当然みたいに言う。


距離が、近づく。


背中に、気配が寄る。


……でも。


さっきまでの冷えが、ほどけていく。


怖くない。


「君の言葉は、すべて聞く」


低く。

すぐ近くで。


耳の奥に、直接触れるみたいに響く。


「途中で切らせない。誰にも」


一瞬、思考が止まる。


胸の奥が、じわりと熱を持つ。


守る言葉。


それと同時に——


囲う言葉。


“ここにいろ”。


「……はい」


小さく、頷く。


喉の奥の震えが、今度は消えない。


それで——決まる。





数日後。


再び対面した場で。


「戻れ」


王太子が言う。


初めて。

余裕のない声。


その響きが、わずかに揺れているのが分かる。


「お前が必要だ」


ようやく。


認めた。


……遅い、と思うより先に。


胸の奥が、静かだと気づく。


何も、波立たない。


「お断りします」


声は、驚くほど軽い。


喉に引っかかるものが、何もない。


「なぜだ」


「もう、使われる場所は決めましたので」


言葉が、そのまま外へ出ていく。


途中で、切られない。


止められない。


それだけで——


少しだけ、呼吸が深くなる。


「それに」


少しだけ、微笑む。


「こちらでは、言葉が消えないんです」


空気が、静まる。


その一言が、刃みたいに残る。


王太子の表情が、わずかに歪む。


理解が、追いついた顔。


「……待て」


一歩、踏み出しかける気配。


けれど。


その前に。


「——無礼だな」


低く。


空気を押さえつける声。


視線だけで、動きを止められる。


「既に断られている」


静かに。


逃げ場を残さず。


「それとも、まだ奪うつもりか」


言葉が落ちる。


重く。


返せない形で。


「……違う」


かすれる声。


でも——


誰も、もう拾わない。


「貴国は、判断を誤った」


王が、淡々と言う。


感情はない。


ただの事実みたいに。


「価値を測れない者に、交渉は任せられない」


ざわめきが走る。


その意味を、全員が理解する。


「以後の交渉は、別の者と行う」


——外される。


公の場で。


完全に。


王太子の顔から、血の気が引く。


「待っ——」


「遅い」


短く、切られる。


それで終わりだった。


その一言で。


これまで積み上げてきた立場が、

音もなく崩れる。


支えていたものが、最初からなかったみたいに。


……空気が、変わる。


誰も、もう彼を見ない。


価値のないものを見るみたいに。


「……そんな、はずが……」


崩れる声。


でも——


その理由を、彼はもう知っている。


聞かなかった。


拾わなかった。


切り捨て続けた。


その結果だと。


だから。


言い訳が、続かない。


何も、掴めない。


そして。


その中心にいたはずの彼女は——


もう、隣にいない。




背に、気配。


触れるか、触れないかの距離で、

熱だけが、そこにある。


逃げ場はない。


——それでも、息はしやすかった。


「——行くぞ」


低い声。


短く。


頷く。


一歩、踏み出す。


床に触れる足裏の感覚が、やけに鮮明で。


……ちゃんと、自分で進んでいると分かる。


振り返らない。


その必要が、もうない。


ざわめきが背中に遠ざかる。


代わりに。


隣の気配だけが、はっきりと近い。


「……まだ、冷えるか」


ぽつり、と落ちる声。


少しだけ、首を振る。


「いいえ」


指先に残っていた冷えは、

もう、思い出せないくらいに薄れている。


代わりに。


胸の奥に、じんわりと残る熱。


それは、消えない。


「そうか」


それだけ。


けれど。


言わなくても——分かる。


ここでは。


最後まで、聞かれる。


途中で、奪われない。


消されない。


……それが、どれだけ静かに満ちてくるものか。


歩く。


並んで。


足音が、揃う。


そのたびに。


胸の奥で、何かがほどけていく。


——もう。


消えない。


彼女の言葉は。


彼女のものとして、そこにある。


だから。


次に口を開くときは——


少しだけ、迷わずに言える。


リシェルは歩く。


その手を王が、優しく握った。

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