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第8話「猟犬の過去」

 ヴァンは酒場にいた。


 深夜の店内に客はまばらで、酔漢の笑い声が遠くで響いている。カウンターの隅。薄暗い照明。安物のエールが入ったジョッキを傾ける。


 酒は不味い。水で薄めてある。でも、飲まないと眠れない。


 窓の外を見た。月が出ている。星が瞬いている。


 ふと、妻の声が蘇った。


 ――星が降る夜に、また会いましょう。


 ジョッキを置いた。目を閉じる。


 記憶が、勝手に流れ出した。



 ◇



 十年前。


 ヴァンは傭兵だった。


 戦場に立っていた。焼け落ちた村の跡地。昼なのに空は灰色で、煙が太陽を隠している。血の匂い。死体の山。耳をつんざく怒号と悲鳴。


 敵兵が突っ込んでくる。ヴァンは短剣で喉を切り裂いた。血が噴き出す。返り血が顔にかかる。温かい。温かいことを、もう何とも思わなくなっていた。


 次の敵。また斬る。


 次。また次。


 何人殺したかわからない。数える意味もない。終わったかどうかで判断する。それだけでいい。


 戦いが終わった時、周りには戦友の死体が転がっていた。


 ヴァンだけが立っている。


 空を見上げる。灰色の雲。雨が降り始める。血が洗い流されていく。顔に張り付いた赤が、雨に溶けて足元に落ちた。


 ――この生活、いつまで続くんだ?


 答えはなかった。



 ◇



 八年前。


 傭兵をやめた。


 戦場を離れ、小さな町に移り住む。賞金稼ぎとして働き始めた。危険な依頼は避けた。殺しの仕事も断る。生活できる程度に稼げれば、それでいい。


 平穏な日々。血の匂いのしない日々。


 それで十分だと思っていた。


 ある日。


 市場で買い物をしていた。昼下がりの人混み。焼いた肉の匂いと、山積みの果物の甘い香りが混じり合っている。売り子の声が飛び交い、荷車の車輪が石畳を軋ませている。野菜を選んでいる時、誰かとぶつかった。


 肩に柔らかな感触。籠から林檎が転がり落ちる。


「あ、すみません」


 女性だった。


 栗色の髪。柔らかな瞳。慌てて頭を下げている。頬が少し赤い。


「いや、こちらこそ」


 林檎を拾い上げ、差し出す。指が触れた。冷たい。それなのに、触れた場所だけが妙に温かかった。


 女性が顔を上げる。目が合う。


 太陽みたいな笑顔。


「お怪我はありませんか?」

「ああ、大丈夫だ」


 女性は会釈して去っていく。


 ヴァンは立ち尽くしていた。市場の喧騒がどこか遠くなっている。


 ――綺麗な人だった。


 心臓が、妙にうるさい。



 ◇



 それから何度か、市場で会った。偶然だ。いや、偶然を装って会いに行っていた。


 女性の名前はミラ。町の仕立て屋で働いている。


 少しずつ話すようになった。天気の話。町の話。くだらない話。話しながら、ヴァンはいつも少し遅れて笑った。笑い方を、忘れかけていたのかもしれない。


 ミラは笑うと、少し恥ずかしそうに俯く。それが好きだった。


「ヴァンさんは、何のお仕事を?」

「賞金稼ぎだ」

「危険なお仕事ですね」

「ああ。でも、殺しはしない。生け捕り専門だ」


 嘘ではない。傭兵時代とは違う。もう、人は殺さないと決めていた。


 ミラは微笑んだ。


「それなら、安心ですね」


 その笑顔を見た時、心が決まった。


 この人を、守りたい。



 ◇



 七年前。


 ミラと結婚した。


 小さな結婚式。町外れの古い教会。木の扉を開けると、蝋燭の灯りが揺れている。狭い聖堂に長椅子が十脚ほど。天井は高く、埃っぽい光の筋が窓から斜めに差し込んでいる。


 春の陽射しがステンドグラスを通して二人を照らす。赤と青と金色の光が、石畳の床に模様を描いている。参列者は数人。でも、それで十分だった。


 オルガンが低く響く。古い木と、花の香りが混じり合っている。


 ミラは白い服を着ていた。花を持って、笑っている。手を取ると、指が震えていた。緊張しているのだ。自分も同じ。指先が、触れるたびに冷たくなっていく。


 こんな幸せが、自分に許されるのか?


 傭兵時代、何人も殺した。その報いが、いつか来る。そう思っていた。


 でも、今は幸せだ。ミラの手が温かい。それだけは確かだった。


 六年前。


 娘が生まれた。


 自宅の寝室。産婆が帰った後、部屋には三人だけが残された。窓から差し込む朝日が、産着に包まれた小さな体を照らしている。


 ミラはベッドに横たわっていた。汗で髪が額に貼り付いている。疲れ切った顔。でも、目だけが輝いている。


「あなた、抱いてみて」


 恐る恐る手を伸ばす。


 小さな赤ん坊。泣き声がうるさい。壊れそうなほど小さい。温かい。湯上りのような匂いがする。


 赤ん坊が泣き止んだ。こちらを見ている。黒い瞳。小さな手が、ヴァンの指を握る。力強い。こんなに小さいのに、力強い。


 涙が出た。なぜかわからない。戦場で一度も泣かなかった男が、こんなに小さな手一つで泣いている。ただ、涙が止まらなかった。


 娘の名前は、エリ。


 この子を守る。絶対に。


 そう誓った。



 ◇



 五年前。


 エリは成長した。歩けるようになり、言葉を覚える。


「パパ、遊ぼう!」


 小さな手が、ヴァンの指を引っ張る。


 公園で遊んだ。木陰でかくれんぼをして、芝生の上を転げ回る。ミラも一緒だ。三人で笑った。エリが転んで泥だらけになって、それでも笑っていた。


 こんな日々が、ずっと続けばいい。


 本気でそう思っていた。



 ◇



 四年前。


 エリが病気になった。


 高熱が続く。咳が止まらない。日に日に痩せていく。あんなに元気だった体が、目に見えて小さくなっていく。


 医者に診せた。


 古い診療所だった。薬草の匂いが充満している。壁際に薬棚が並び、瓶の中で乾燥した草や粉末が眠っている。窓は小さく、昼間なのに薄暗い。


 エリは粗末なベッドに横たわっていた。顔色が悪い。額に汗が浮かんでいる。ミラがその手を握っている。エリの手は、以前より細くなっていた。


 医者は白髪の老人だった。エリの胸に耳を当て、脈を取り、瞼を開いて瞳を覗き込む。


 その顔が、少しずつ曇っていく。


「枯死病です」

「そ、そんな……治るのか?」

「薬はあります。使えば、症状を抑えられます」

「いくらだ?」

「月に、金貨百枚」


 息が止まった。


 金貨百枚。一ヶ月で。賞金稼ぎの稼ぎでは、到底払えない額。働き詰めに働いても、半年かかる。その間、薬が途切れたら。考えかけて、頭を振った。


 ミラが震えている。エリを抱きしめて、声を殺して泣いていた。ヴァンは立ったまま動けなかった。体が鉛になったみたいで、一歩も出なかった。


「なんとかする。絶対に、なんとかする」



 ◇



 三年前。


 傭兵に戻った。

 危険な依頼を受けた。報酬が高い依頼。殺しの仕事も、また受けるようになった。


 家族のため。エリのため。


 血の匂いが、また体に染みついていく。戻ってくるのに時間はかからなかった。体は覚えていた。


 家を空ける日が増えた。一週間。二週間。一ヶ月。


 ミラは寂しそうだった。でも、文句は言わない。ヴァンが帰るたびに、同じように笑って迎えた。それが、かえって胸に刺さった。


 エリが聞いた。


「パパ、いつ帰ってくるの?」

「すぐに帰ってくる。待っていてくれ」


 嘘だった。すぐには帰れない。でも、言うしかなかった。エリの目が、信じきっているから。



 ◇



 ある夜。

 久しぶりに家に帰った。エリは眠っている。ミラと二人、屋根に上がった。


 肩が触れ合う距離で並んで座る。星が出ていた。雲がない夜。秋の夜風が頬を撫でていく。二人の間に、言葉のいらない静けさがあった。


「星が、降ってきそうね」

「ああ」

「あなたが、遠くに行っても、私たち待ってるから」

「ミラ……」

「星が降る夜に、また会いましょう」

「俺は、どこにも行かないよ」

「でも、もし行くことになったら、約束してね。星が降る夜に、また会おうって」

「ああ、約束だ」


 ミラの肩が、ほんの少し、ヴァンに寄りかかった。


 その夜、二人で星を見続けた。



 ◇



 一年前。


 大きな依頼が来た。

 報酬は金貨三千枚。破格だった。これだけあれば、しばらく薬代が払える。家族と過ごす時間も作れる。


 ただし、期間は三ヶ月。遠い町に行かなければならない。


 ミラに相談した。


「行ってきて。私たち、待ってるから」

「パパ、頑張ってね!」

「必ず、戻ってくる」


 そう言い残して、町を出た。振り返らなかった。振り返れば、行けなくなる気がしたから。



 ◇



 三ヶ月後。


 依頼は完了した。報酬を手にする。金貨三千枚。重い袋。


 急いで町に戻った。馬を走らせ、夜も休まず、三日で帰り着いた。早く会いたい。ミラに。エリに。


 町の入り口が見えた時、嫌な予感がした。


 説明できない予感だ。何かが違う。空気が違う。


 夕暮れの通りを走る。茜色の光が、石畳を染めている。息が切れる。人を押しのけ、路地を駆け抜けた。


 家に着く。


 足が止まった。


 荒れ果てていた。


 窓が割れている。ガラスの破片が、夕日を受けて光っている。扉は蝶番ごと外れ、内側に倒れ込んでいる。中は家具が散乱している。椅子が砕け、食器が床に散らばり、カーテンが引き裂かれている。


 血痕があった。壁に。床に。点々と続いて、奥の部屋へと消えている。


「ミラ! エリ!」


 叫んだ。返事はない。自分の声だけが、空っぽの家に響いて消える。


 近所の老人に聞いた。


 扉から顔を出した老人が、ヴァンを見て固まった。


「……あんた、生きてたのか」


 三ヶ月。その間に、俺は死んだことになっていたらしい。


「あの家族なら……戦争の影響で、物価が高騰したんだ。薬代も、急に倍以上に上がって。奥さん、払えなくなって……借金をしたらしい」

「それで?」

「返せなくて、借金取りに追われて……貧民街に落ちたって聞いた」

「貧民街だと……」

「でも、もう……」


 老人は言葉を濁した。その目が、答えを持っていた。


 ヴァンは駆け出す。



 ◇



 貧民街を探し回った。


 崩れかけた建物。泥の路地。うずくまる人影。何時間歩いたかわからない。何十人に声をかけたかも覚えていない。


 住人に聞いた。


「ああ、あの親子なら……レッドジョンにやられたよ。血まみれだった」

「……どこだ?」

「え?」

「現場は、どこだ?」


 男は震える手で、方角を指した。



 ◇



 廃屋に着いた。


 扉は壊れている。中は暗い。屋根の隙間から月明かりが細く差し込んでいる。血の匂いがする。


 足が進まなかった。体の奥が、知っていた。この扉を開けたら、何かが終わる。


 それでも、開けた。


 床に、血文字。


「R.J」


 血だまり。乾きかけた血が、床を黒く染めている。


 何かが落ちていた。


 青い花の髪飾り。


 拾い上げる。金具が曲がっている。花弁が一枚、欠けていた。


 指先に、かすかな香りが残っている。


 ――笑うと、少し恥ずかしそうに俯く。


 隣に、布人形が転がっていた。


 片腕がちぎれかけている。綿がはみ出している。汚れて、色褪せて、それでも元の形を保っている。握ると、中の綿が潰れる感触。軽い。こんなに軽かったのか。


 ――パパ、遊ぼう。


 膝が折れる。


 床に座り込んだまま、二つを胸に押し当てた。


 血の匂いと、かすかな花の香りが混じっている。


 月明かりが、血文字の上を横切っていた。


 ヴァンは動けない。声も出なかった。涙も出なかった。ただ、抱きしめていた。



 ◇



 誰かがジョッキを置く音がした。


 ヴァンは目を開けた。


 酒場にいる。ジョッキは空になっている。客はさらに減り、隅で酔い潰れた男が一人、いびきをかいているだけ。


 立ち上がった。金を置いて、店を出る。


 外は夜だ。


 空を見上げた。


 星は関係なく降り続いていた。

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