表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/15

第7話「猟犬」

 夜明け前の貧民街は、今夜も静かだった。


 ルーシェは路地を歩いていた。両側に崩れかけた建物が並んでいる。窓は板で塞がれ、扉は蝶番が外れたまま放置されている。割れた石畳の隙間から雑草が伸び、夜露を吸って黒く濡れていた。


 靴底が泥を踏むたび、ぴちゃりと音が立つ。その音だけが、やけに大きく響いた。


 廃屋の前で足を止めた。他の建物と変わらない。崩れかけた壁。傾いた屋根。ただ、扉の隙間から蝋燭の灯りが漏れている。誰かがいる。


 音を立てないように中に入った。


 六畳ほどの空間だ。壁の隙間から夜風が吹き込み、蝋燭の炎が揺れている。その炎だけが、闇の中でちろちろと踊っていた。


 隅に老人がいる。


 壁にもたれて座っている。骨と皮だけの体。擦り切れた服。目に光がない。頬はこけ、唇は乾いてひび割れている。呼吸をしているのかさえ、わからなかった。


 この世界では珍しくない姿だ。ギフトを持たない者、弱すぎるギフトしか持たない者は、こうして朽ちていく。珍しくない。珍しくないはずなのに、慣れる気がしない。


 ルーシェは近づいた。


「二つ聞く。この世界に未練は? 待っている人は?」


 いつもの質問だ。これだけは必ず聞く。


 老人が顔を上げる。虚ろな目が、こちらを見た。


「……もう、誰もおらん」

「女房も、息子も、先に逝った。俺だけが残された」


 老人は天井を見上げた。蝋燭の炎が、その横顔を照らしている。しわの深さだけが、この人の歴史を語っていた。


「もう何年も、こうやって生きとるだけじゃ。生きとるっちゅうか……息しとるだけじゃな」


 笑った。乾いた、諦めきった笑い。


「そう」


 ルーシェの瞳が淡く光った。右手に意識を集中する。淡い光とともに、鎌が現れた。月明かりを受けて、刃が鈍く光っている。


「おやすみ」


 鎌を振り下ろした。


 抵抗はない。刃が首を通り抜ける。空気を斬るように、滑らかに。首が落ちる。血飛沫が壁を染めた。


 同時に――壁が光る。


 血が意思を持ったように蠢き、文字を描いていく。


「R.J」


 ギフトの特性だ。殺すたびに、必ず刻まれる。

 鎌をしまう。光になって、消えた。血の匂いだけが残っている。


 ――また一人、日本に送った。


 抜け殻を一瞥して、廃屋を出た。


 路地を歩き始めた。


 その瞬間。


 轟音。


 数十歩先の建物の壁が崩れた。煉瓦が砕ける音。木材が軋む音。悲鳴に似た金属音。地面が微かに揺れた。


 咄嗟に足が止まる。


「なんだ今の!?」


 振り返ると、路地の奥の建物が崩れていた。粉塵が夜の空気に広がっていく。


 貧民街では珍しくない。古い建物が夜中に崩れることはある。


 ――人が集まってくる前に。


 明かりが灯り始めた。近くの廃屋の隙間から、人影が顔を出す。


 ルーシェは踵を返した。来た道とは別の路地へ、足早に歩き出す。振り返らなかった。


 角を曲がった瞬間。


「ルーシェ?」


 心臓が止まった。


 ドグだった。憲兵の制服。手にランタンを持っている。顔を上げ、目が合った。


 ――よりによってドグさんかよ!!!


「こんな夜中に、ひとりでこんな場所で何してんだ?」

「あ、えっと」


 頭が真っ白になった。何か言え。何か言え。


「仕事の帰りで。そしたらさっきすごい音がして、なんか気になって」

「仕事? この時間まで?」

「居酒屋の閉め作業で。遅くなっちゃって」

「嘘をつくな。この辺りの居酒屋はとっくに閉まってる時間だぞ」

「え、えーと、そうでした。そ、その……」


 ドグの眉が、わずかに動いた。


「……まさかマルク通りの裏手に行ったんじゃないだろうな」

「え?」

「あそこに不良どもの溜まり場がある。酒と煙草で夜通し騒いでる。セリアには内緒で行ってたか?」

「ち、違います! そこじゃないです!」

「じゃあどこに行ってた?」

「え、えーと……その、どこといいますか」


 言葉が出てこない。頭の中が空白になっている。


「正直に言え」


 正直にレッドジョンしてましたとは言えるわけがない。仕方がない、マルク通りだと思っているなら、それでいく。


「……ちょっと、興味があって。えへっ♪」

「ったく」

「いたっ!?」


 げんこつが頭に落ちてきた。ドグは昔からこうだった。


「セリアには言わんでおいてやる。二度とこんな場所をうろつくな」

「……はい」


 ドグが路地の奥へ歩き去ろうとして、ふと振り返った。


「気をつけて帰れよ」


 それだけ言って、闇の中に消えていった。ルーシェは動けなかった。


 足が震えている。


 ――危なかった。


 ドグの背中が闇に消えてから、ようやく歩き出した。今度こそ、振り返らなかった。



 ◇



 同じ頃。


 貧民街の路地。


 ヴァンは瓦礫の中に立っていた。賞金稼ぎだ。レッドジョンを追って、半年。


 この廃屋に今夜来ることは、わかっていた。三週間、動きを追った。曜日ではない。間隔でもない。ただ、貧民街の死体の出る場所が、少しずつ移動している。その先を読んだだけだ。


 建物の壁が崩れている。さっきまで自分がいた足場だ。


 矢を放った瞬間だった。壁が内側から弾け飛んだ。


 落下した。咄嗟に受け身を取ったが、膝を打つ。痛みは確認した。致命的ではない。後回しにできる。


 見えない力だった。


 ――ギフトだ。


 矢は明後日の方向に飛んでいた。瓦礫の向こう、路地の隅に落ちている。


 ヴァンは立ち上がった。膝が痛む。構わない。


 粉塵の向こうに、人影がある。レッドジョンだ。まだ近い。弓で狙えなくとも、ナイフを抜いた。この手で殺すと、決めていた。それだけは、曲げない。


 走り出した。


 その瞬間。


 足元の石畳が弾けた。見えない力が、前方から叩きつけてくる。ヴァンは後方に吹き飛び、瓦礫の上に背中から落ちた。


 息が詰まる。夜空が見える。


 起き上がった。歯を食いしばって、立つ。体が悲鳴を上げている。構わない。ミラが死んだ夜も、立った。エリが死んだ夜も、立った。これくらいで膝をつくわけにはいかない。


 逃げられる――せめて、顔だけでも。


 踏み出した。


 また弾けた。今度は強い。体が地面を転がる。頭が石畳を打つ。視界が明滅した。


 体が言うことを聞かない。


 レッドジョンの姿は、もうなかった。


 周囲を見回した。誰もいない。気配すら残っていない。何度弾き飛ばされても、相手の姿は一度も見えなかった。


 ヴァンは仰向けのまま、しばらく動けなかった。頭を打った。視界がまだ揺れている。膝の痛みに、頭の痛みが加わった。肋骨も一本、いっているかもしれない。それでも立てる。立てるなら、まだ動ける。夜風が頬を撫でる。


 レッドジョンは単独ではない。強力なギフト持ちが、背後で見張っている。


 俺より強い。それだけは、認めざるを得なかった。


 ヴァンは拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。痛みに気づいて、少し力を緩めた。感情で体を傷つけるのは愚策だ。


 矢を拾い、袋に戻す。証拠は残さない。それだけは習慣だ。


 一人では無理だ。ならば、組む相手を探す。憲兵か。賞金稼ぎ仲間か。どちらでもいい。レッドジョンの首さえ取れるなら。


 ヴァンは歩き出した。夜の闇に、その姿が溶けていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ