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第6話「目覚め」

 庭でユズが走っている。頬を紅潮させ、裸足で朝露を蹴散らしながら。


 その日の午後、山本が部屋に来た。いつも穏やかな顔が、今日は違う。ドアを開けた瞬間にわかった。


「コウメさん。入国管理局から、正式な呼び出しが来ました」


 ――やっぱり、そう簡単にはいかんか。



 ◇



 入国管理局。


 灰色のビルが曇り空に溶け込んでいる。


 自動ドアをくぐると、冷気が肌を刺した。プラスチック椅子に座る人々。番号札を握りしめる手。誰も目を合わせない。壁の時計だけが、秒針を刻み続けている。皆、待っている。何かを諦めながら、それでも待っている。


 審査室に通された。


 六畳ほどの狭さ。窓はない。蛍光灯が壁の染みまで照らし出している。机を挟んでパイプ椅子が二脚。それだけ。隠す場所も、逃げる場所も、ない。


 向かいに座った男は、四十代くらいだった。


 薄い唇。神経質そうな眉。こちらを見る目に、隠しようのない嫌悪が滲んでいる。書類をめくる前から、もう結論が出ているような目だった。


「入国管理局の狩谷だ。パスポートは?」

「持ってへん」

「ビザは?」

「持ってへん」

「どこの国から来た?」

「……遠いところから」

「質問に答えろ! 俺はな、お前みたいな奴を何百人と見てきた。密入国者。不法滞在者。この国に寄生して、税金を食い潰す害虫ども」

「……」

「お前らのせいで、真面目に働いてる日本人が割を食ってるんだ。わかるか?」


 コウメは黙っていた。蛍光灯がジジ、と鳴る。


 向こうの世界でも、こういう目をした奴はいた。

 貧民を見下す目。虫けらを見る目。ただそこに座っているだけで罪人扱いされる、あの感覚。


 狩谷が書類をめくった。ページが擦れる音が、やけに大きく響く。


「身元不明。パスポートなし。在留資格なし。保険証なし。娘も同様。出生届の記録なし。どこの病院で産んだかも不明。お前、本当に母親か? 人身売買で連れてきたんじゃないのか?」


 胸の奥で、何かが軋んだ。


 ――この子を、そんな目で見るな。


「ユズはうちの子え」

「証拠は?」

「証拠なんかない。でも、うちの子え」

「証拠がないなら、信用できない。お前は収容施設行きだ。ガキは児童相談所に引き取らせる。二度と会えないと思え」


 背筋を冷たいものが走った。指先から血の気が引いていく。


 ――別々。

 ――ユズと、離れ離れになる。


「待って」

「待たない。不法入国者に人権なんかない。さっさと出ていけ。この国から消えろ!」


 扉に向かう。革靴が床を叩く。


 ――あかん。

 ――このままじゃ、あの子を守れへん。


「待って!」

「しつこい! まだ何か――」


 目が、合った。


 その瞬間。

 胸の奥で何かが弾けた。


 熱い。内臓が焼ける。血管を溶岩が流れていく。

 目の奥が痛む。視界が赤く滲む。蛍光灯の白がぼやけて消えた。


 ――この子だけは。

 ――絶対に、守る!


「止まりや」


 自分の声ではなかった。腹の底から絞り出された、獣の唸り。それでいて、どこか静かな声だった。怒りを超えた先にある、揺らがない何か。


 狩谷の目が――虚ろになった。


 さっきまでの敵意が消えている。人形みたいな、空っぽの目。


 ――効いた。


 コウメは自分の手を見た。震えている。指先が痺れている。


 ――何が起きたんや?

 ――うちが、あの男を……操った?


 心臓が肋骨を叩いている。息が荒い。冷房の音がやけに大きい。


 でも、引き返せない。


「うちらは、問題ない。難民申請を受理して」

「……問題ありません。難民申請を受理します」


 抑揚のない声。人形の声。


 狩谷は机に戻り、書類に何か書き込むと、部屋を出ていった。足音が廊下の奥へ消える。


 コウメは壁にもたれた。冷たいコンクリートが背中に触れる。膝が震えて立っていられない。ゆっくりと息を吐いた。震えが、少しずつ収まっていく。


 ――これが、ギフト。


 目の前を、金色の蝶がひらひらと舞っている。光でできた蝶。自分の瞳から生まれたのだと、なぜかわかった。


 向こうの世界では、一度も発動しなかった力。


 ――なんで今、使えたんや?

 ――まぁ、検証はあとや。


 拳を握った。


 ――この力で、ユズを守る。



 ◇



 その夜。


 六畳の部屋。ユズは布団で眠っている。小さな寝息だけが響く。

 コウメは窓際に座り、考えていた。カーテンの隙間から街灯の光が漏れている。


 ――うちひとりじゃ、限界がある。


 施設で噂を聞いた。最近、身元不明の外国人が増えている。収容施設がパンク状態だ、と。


 ――あいつらも、向こうから送られてきたんや。

 ――天使さんに救われた者たち。


 翌日。


 コウメは収容施設を訪れた。

 郊外の古びた建物。壁のペンキが剥げ、窓には鉄格子。門の前で警備員が煙草をふかしている。貧民街の廃屋とは違う。でも、中に閉じ込められている人間の目は、きっと同じだ。


 コウメは受付の職員と目を合わせた。


 瞳が金色に光った。光が蝶の形をとり、ひらり、と職員の目に舞い落ちる。職員の瞳から色が消えた。


「中を見せて」

「……どうぞ」


 重い扉を押して、中に入った。


 薄暗い廊下。天井の蛍光灯が一本だけ点滅している。消毒液の匂いが鼻につく。病院とは違う。清潔さのための匂いではなく、何かを消すための匂いだ。


 部屋を覗くたびに、ベッドが見えた。詰め込まれたベッド。毛布にくるまった人々。天井を見つめている者。壁に向かって座っている者。誰も動かない。声も出さない。


 隅の部屋に入った。


 ベッドが六つ並んでいるが、人は三人しかいない。二人は毛布を被って眠っている。


 少年が一人、窓際に座っていた。


 鉄格子の向こうに曇り空。少年はそれを見ているのか、見ていないのか。痩せている。十歳くらいか。シャツが大きすぎて肩からずり落ちそうだ。


 コウメは少年の前にしゃがんだ。


「自分も、向こうから来たんやろ?」


 少年は答えない。じっとこちらを見ている。窓からの薄い光が横顔を照らす。品定めされているのがわかった。値踏みの目。子供の目ではなかった。


 沈黙。十秒。二十秒。廊下の足音が遠くで響いて消えた。


 少年が先に口を開いた。


「……あんた、どうやって入ってきた? 面会申請もなしに、ここにいる。普通じゃない」

「ギフトや。向こうの言葉、わかるやろ?」

「……ああ。あんたもあの世界から来たんだな」


 それきり、口を閉じた。


 ――こいつ、腹の中を見せへん子やな。


「名前は?」

「ケン」

「ケン。取引せえへんか? うちがここから出したる。代わりに、自分のギフトをうちらのために使ってくれへんか?」

「……俺のギフトは発動したことがない」

「一緒に探っていこ。発動の仕方」

「……何を手伝えばいい?」

「出てから話す。まずはここを出よ」


 コウメは眠っている二人に目を向けた。


「あの二人も、向こうからか?」

「ああ」

「起こし。全員連れ出す」


 コウメは職員を操り、三人を連れ出した。



 ◇



 夜


 ユズが眠った後、ケンと話し合った。

 部屋の電気は消してある。月明かりだけが二人の顔を照らしている。隣の部屋からテレビの音が微かに聞こえる。


 ケンは壁に背をつけて座り、腕を組んでいた。向こうの世界で生き延びてきた者の目が、月明かりの中で静かに光っている。


「うちらは、この国で生きていくえ」


 ケンが頷いた。


「ああ。送られた者は、俺たちの同胞だ。全員で生き抜く」

「作戦はえ?」

「まず、仲間を増やす。他の部屋にもまだいるはずだ。全員、向こうから来た奴らだ」

「どうやって集めるん?」

「あんたの力を使う。役所の人間を操って、住民票を作る。少しずつ、足場を固めていく」

「……任せとき」


 コウメは窓の外を見る。


 星が輝いている。向こうの世界と、同じ星。


 ――ありがとう、天使さん。

 ――あんたがくれた命、絶対に守り抜く。


 狩谷の顔が、ふと浮かんだ。虚ろになる前の、憎悪に満ちた目。


 ――あいつ、絶対に諦めへんやろな。

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