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第5話「天国」

 視界が白く弾けた。


 最初に届いたのは、音だ。

 甲高いサイレン。耳の奥を突き刺すように、途切れなく鳴り続けている。


 コウメは目を開けようとした。瞼が重い。鉛を載せられたみたいだ。


 体が揺れている。左右に振られる。がたがたと、何かが軋む音。

 重い。息をするたびに胸が軋む。指一本、動かせない。


 なんとか瞼をこじ開けた。


 白い天井。蛍光灯の光が目を焼く。眩しい。狭い。嗅いだことのない匂いが鼻をつく。鋭くて、冷たい匂い。それが何なのか、わからない。


 腕に何かがついている。細い管。透明な液体が、ゆっくりと流れ落ちている。


 ――点滴。


 知らんはずの言葉が、なぜか頭に浮かんだ。振り払おうとしたが、言葉は消えなかった。まるで最初からそこにあったかのように、頭の中で光っている。


 男の声がした。早口で、張り詰めている。


「こちら救急34、搬送中。患者二名、成人女性と小児。二名とも重度の肺疾患疑い、栄養失調と脱水」


 何かを握りしめている。黒い箱。声がそこから出ている。


  ――無線。


 また、知らんはずの言葉が浮かんだ。


「女児はSpO2が89、酸素投与中。女性も呼吸音に異常あり。受け入れ先を探しています」


 無線の向こうから、別の声が返ってくる。雑音混じりの、機械的な声。


「救急34、了解。各病院に照会します」


 ピピピ、と電子音が鳴っている。一定のリズム。心臓の鼓動に重なる。自分の心臓の音なのか。機械の音なのか。わからない。


 首を動かした。力が入らない。


 隣に、小さな体があった。


 透明なマスクが顔を覆っている。鼻と口から、チューブが伸びている。目を閉じている。顔に血の気がない。蝋人形みたいに、白い。


 ――ユズ。


「ユ、ズ……」


 声がかすれる。喉が焼けるように痛い。


 若い隊員がこちらを見た。汗が額に浮かんでいる。


「お母さん、大丈夫ですよ。今、病院を探してますから」


 無線が鳴った。雑音。そして、声。


「救急34、城東医療センターは小児科の当直医が不在、受け入れ不可」


 舌打ちが聞こえた。男の声が苛立っている。


「了解、次を当たってください」


 車体が大きく揺れた。体が浮き上がりそうになる。サイレンが一段と高くなる。


 また、無線が鳴る。


「救急34、中央総合病院はベッドが満床、受け入れ不可」

「了解」


 男の声が上擦っている。額の汗を拭う暇もないのか、滴が顎から落ちた。


「女児のSpO2、87まで落ちてきた。時間がない……」


 ――何が起きてるんや。

 ――この子、死ぬんか。


 無線が鳴った。


「救急34、都立総合医療センター、受け入れ可能。救急外来に直接搬入してください」

「了解! 都立総合、直接搬入!」


 若い隊員が息を吐く。肩の力が抜けるのが見えた。車内の空気が、わずかに緩む。


 スピードが上がる。サイレンが一段高くなる。窓の外を、光が流れていく。赤、青、白。目まぐるしく変わる。


 男がこちらを振り返る。額に汗が光っている。でも、口元は笑っていた。


「お母さん、見つかりました。あと五分で着きます。お母さんも、お嬢さんも、絶対助けますから」


 ――助ける。


 見ず知らずのうちらを。


 向こうの世界では、誰もそんなことを言わなかった。貧民街で倒れたら、そのまま朽ちるだけ。誰も見ない。誰も止まらない。死体が転がっていても、誰も驚かない。


 ――ここは、違うんか。


 窓の外が流れていく。赤い光が回っている。高いビル。光る看板。道を走る車が、次々と脇に寄っていく。この見知らぬ街の全てが、うちらのために道を開けている。


 ――日本。


 またその言葉が、どこからか浮かんできた。ここが、そういう場所なのだと。


 あの金髪の少女の顔が、ふと浮かぶ。鎌を振り上げた瞬間。泣いていた。涙を流しながら、「ごめんなさい」と。


 痛みはなかった。刃が首に触れた瞬間、温かい光に包まれて――


 ――あの子が、ここに送ってくれたんや。


 意識が遠くなっていく。サイレンの音が、だんだん小さくなる。



 ◇



 次に目を開けたのは、別の場所だった。


 柔らかいベッド。清潔なシーツ。白い天井。窓から午後の光が差し込んでいる。白いカーテンが、風に揺れている。


 体が軽い。


 胸の軋みがない。息が、楽だった。肺の奥まで、空気が入っていく。ただそれだけのことが、信じられなかった。何年ぶりかもわからない、痛みのない呼吸。


 コウメは隣を見た。


 小さなベッド。ユズが眠っている。点滴の管が細い腕に繋がっている。機械が静かに音を立てている。規則正しいリズム。


 顔色が違う。


 青白かった頬に、わずかに赤みが戻っている。唇にも、血の色がある。


 ――咳をしてない。


 あの子は、いつも苦しそうに咳き込んでいた。血を吐いて、夜も眠れなくて。熱に浮かされて、うわごとを言って。


 抱きしめることしかできなかった。薬は買えない。医者には診せられない。ただ、死んでいくのを見ていることしかできない。


 せめて楽に逝かせてやりたかった。苦しまないように。それが、コウメにできる最後のことだ。


 ――なのに。


 今、ユズは静かに眠っている。眉間にしわがない。苦しそうな顔をしていない。その静けさが、しばらく信じられなかった。


 扉が開いた。


 女が入ってきた。白い服。手に薄い板を持っている。


 ――看護師。タブレット。


 言葉が、勝手に浮かんでくる。


「あ、目が覚めましたね。気分はいかがですか?」

「……娘は?」

「お嬢さんは順調に回復していますよ」


 看護師がユズのベッドに目を向けた。


「肺の感染症でしたが、治療が効いています。このまま順調にいけば、一、二ヶ月で退院できると思います」


 ――治る?


「……治るんか」

「はい。結核は治りますよ」


 ――結核。知らん言葉のはずやのに、労咳のことやとわかった。


 ――労咳が治る。


 何でもないことのように言った。当たり前のことのように。


 視界が滲んだ。頬を熱いものが伝う。止まらない。


 あの子が、治る。死なずに済む。


 向こうの世界では、絶対に治らなかった。薬はある。でも、症状を抑えるだけ。貧民には、それすら手が届かない。


 ここでは、治る。当たり前のように。


「お母さん? 大丈夫ですか?」

「……すんまへん。嬉しくて」

「泣かないでください。お嬢さんが起きたら、びっくりしちゃいますよ」


 手の甲で目元を拭う。でも、次から次へと溢れてくる。止められない。布団の端を握って、こみ上げてくるものをなんとか堪えようとした。でも無理だった。



 ◇



 翌日の朝、医者が来た。


 白衣を着た中年の男だった。眼鏡をかけている。穏やかな目をしていた。


「検査結果が出ました。お二人とも、結核菌が検出されました」


 手元の板――タブレットを見ながら言う。


「お嬢さんは進行していましたが、お母さんは初期段階です。半年ほど薬を飲み続ける必要がありますが、どちらも完治します」


 ――完治。


 その言葉が、胸に響いた。


「お二人とも、栄養状態がかなり悪いです。しばらく入院して、体力を回復させましょう」

「……お金がないんです」

「費用のことは、後で相談しましょう。まずは治療に専念してください」


 ――後で相談。


 向こうの世界では、金がなければ門前払いだ。話も聞いてもらえない。

 ここは違う。まず治療してくれる。金の話は、後。


 医者が手帳に何かを書きながら出ていった。その後姿を、コウメはしばらく見つめていた。



 ◇



 三日後の朝。


 窓から差し込む光で目が覚めた。


 柔らかな光。温かい。向こうの世界の、埃っぽい光とは違う。


 隣のベッドを見ると、ユズの目が開いていた。


「ママ……」


 小さな手が伸びてくる。


 コウメはベッドから降りた。点滴の管を引きずりながら、娘のベッドに近づく。


 小さな体を抱きしめた。温かい。柔らかい。鼓動が伝わってくる。


「ここ、どこ?」

「天国や」

「天国?」

「そうえ。天使さんが、連れてきてくれはったんえ」

「あの金色の髪の人?」

「そうえ。あの子が、うちらを助けてくれはったんえ」

「あの人、泣いてたね」

「……うん」

「なんで泣いてたの?」


 ――なんでやろな。


 あの子は、泣きながら鎌を振り下ろした。「ごめんなさい」と言いながら。


 殺すつもりだったのだろうか。それとも、最初から知っていたのだろうか。ここに送れることを。


 わからない。でも、あの涙は本物だった。


「うちらのために、泣いてくれはったんやと思う」

「そっか」


 ユズがベッドの上で体を起こした。窓の外を見ている。


 高いビルが並んでいる。空が青い。雲が白い。鳥が横切っていく。


「きれいやね、ママ」

「そうやなぁ。きれいやなぁ」



 ◇



 退院の前日。


 午後の病室に、見知らぬ女が来た。眼鏡をかけた、四十くらいだ。スーツを着ている。


 パイプ椅子をベッドの横に引き寄せ、膝の上にファイルを広げた。


「ソーシャルワーカーの山本です。身元の確認をさせていただきたいのですが……」


 眉を寄せている。困っているような顔。


「まず、お名前を教えていただけますか?」

「……コウメや。娘はユズ」

「コウメさん。……フルネームは?」


 ――姓なんて、貴族しか持ってへんのに。


「……それだけや」


 山本の眉が上がる。でも、すぐにペンが動き始めた。


「パスポートや在留カードはお持ちですか?」

「……持ってへん」

「保険証は?」

「……それも」


 メモを取る手が止まる。室内が静かになった。隣でユズが眠っているのか、規則正しい呼吸の音だけが続いている。


「……難しいケースですね。正直に申し上げると、このままだと入管に連絡が行く可能性があります」


 ――入管。


 不法滞在者を捕まえる場所。その知識が、勝手に浮かんでくる。


 ――やっぱり、そう簡単にはいかんか。


 天国だと思った。でも、天国にも法律がある。ルールがある。身元のない人間は、追われる。


 ユズの寝顔が見えた。穏やかに眠っている。頬に血の色が戻っている。


 ――この子だけは、守らなあかん。


「ただ、お子さんの治療が最優先です。今すぐどうこうということはありません。なんとかしますから。私に任せてください」

「……ほな、任せますわ」

「え?」

「あんたを信じる、ってことや」


 山本は目を丸くした。それから、笑う。


「お強いですね」

「そうでもないわ。死にかけてたんやし」



 ◇



 二ヶ月後。


 退院の日が来た。


 山本が住む場所を探してくれた。母子生活支援施設。住む場所がない母親と子供を助けてくれる場所だという。


 入管の問題は、まだ片付いていない。いつか、追われる日が来るかもしれない。


 でも、今日じゃない。


 ――なんとかなる。なんとかしてみせる。


 貧民街で生き抜いてきた。ここでもやれる。


 病院の玄関を出た。


 ユズが小さな手で、コウメの指を握っている。温かい。柔らかい。力強い。


 風が頬を撫でた。甘い匂いがする。花の匂い。


 見上げる。


 桜が咲いていた。


 淡い桃色の花びらが、風に舞っている。枝いっぱいに花が膨らみ、青空に溶けていく。一面の桃色。空が、花に覆われている。


 ――桜。


 頭の中にある知識と、同じ名前の花。でも、見るのは初めてだった。


 花びらが一枚、手のひらに落ちてきた。薄い。柔らかい。絹みたいだ。


 ――こんなきれいなもんが、この世にあるんか。


「わあ……!」


 ユズが声を上げた。両手を広げて、舞い落ちる花びらを追いかけている。


「ママ、見て。雪みたい!」

「雪やない。桜え」

「さくら?」

「花の名前や」


 ユズは両手で花びらを受け止めた。小さな手のひらに、桃色が積もっていく。


「きれい……天国の花やね」

「……そうやなぁ」


 目の奥がじんと熱くなる。


 この子にこんな景色を見せられる日が来るとは、思っていなかった。病院を出ながら、まだ半分は夢の中にいるようだった。それでも風は本物で、花の匂いは本物で、ユズの手の温かさは本物だった。


 手を握られた。小さくて、温かい。


「ママ、怖い?」

「……少しだけ」

「大丈夫」


 ユズが笑っている。頬に血の気がある。目に光がある。


「うちがおるから」


 ――こんなに元気になって。


 二ヶ月前まで、死にかけていた子だ。今は笑っている。走り回れるくらい元気になっている。


「ママ、あの天使さんに会えるかな」

「……会えるんちゃう?」

「ほんと!?」

「うちの勘え。当たるえ」


 ――あの子も、いつかここに来る。


 根拠はない。でも、確信があった。


「いつか、お礼を言いたいな」

「……そうやなぁ」


 コウメは空を見上げた。


 青い空。白い雲。舞い散る桜の花びら。


 向こうの世界でも、同じ空を見ているのだろうか。あの子は。


 ――あの子は今、何をしてるんやろ?

 ――まだ、泣いてるんやろか?


 心の中で、祈った。


 ――ありがとう、天使さん。

 ――うちら、ここで生きていくわ。あんたがくれた命、大事にするから。

 ――だから、あんたも泣かんといて。あんたは、天使なんやから。


 ユズの手を握り返す。


 一歩、踏み出した。


 知らない街。知らない世界。


 でも、怖くなかった。


 ユズが隣にいる。それだけで、十分だ。

 ――今は、まだ。


 桜の花びらが、二人の肩に降り積もっていく。

 風が吹く。花びらが舞い上がり、青空に溶けていく。

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