第4話「救済」
貧民街の広場で、炊き出しが行われていた。
憲兵が主催する月に一度の支援活動だ。崩れかけた建物に囲まれた小さな広場に、長い列ができている。曇り空の下、鍋から立ち上る湯気だけが白く輝いていた。
列に並ぶ者たちの顔は、どれも同じだった。頬がこけ、目が落ち窪み、生気がない。ぼろ布のような服を纏い、裸足の者も少なくない。誰も喋らない。ただ黙々と、自分の番を待っている。子供も大人も、並んでいる間は目を伏せていた。何かを期待する顔ではなく、ただ前の人の背中を見つめている。
ルーシェはセリアの隣に立ち、パンを配っていた。セリアは木の椀にスープをよそっている。
「はい、どうぞ」
セリアが椀を差し出す。受け取ったのは、痩せこけた女だった。
頬はこけ、目の下には深い隈がある。髪は艶を失い、肌は土気色をしている。年齢がわからない。三十代にも、五十代にも見えた。
腕には幼い娘を抱えている。
「おおきに……」
娘は目を閉じたまま、苦しそうに咳をしている。小さな体が咳のたびに震え、女の胸元にしがみついていた。ぜえぜえと、喉が鳴っている。その音が耳に貼りつくようで、ルーシェはパンを渡す手が一瞬止まった。
セリアの視線が、娘に向いている。
「労咳なんえ……もう、長くないと思う」
女が掠れた声で言った。
セリアの表情が曇るのが見えた。
労咳――この世界での結核は、治らない。高価な薬で症状を抑えることはできる。だが、それだけだ。貧民には、その薬すら手が届かない。
「せめて最後に、温かいもん食べさせたかったんやけど……」
女の目から、涙がこぼれた。椀を持つ手が震えている。目の端から流れた涙が頬の皺を伝い、顎に達する前に落ちた。
ルーシェはセリアの袖を引いた。
「姉さん……」
セリアは列を離れ、広場の隅に設置されたテントへ走った。ルーシェは女の傍らに立ったまま、何も言えなかった。女は気づいているのか気づいていないのか、娘の細い背中を揺らしながら「大丈夫やで、大丈夫やで」と繰り返していた。しばらくして、パンと毛布を抱えてセリアが戻ってくる。
「これ、持っていって。規則違反だけど」
「おおきに……ほんまに、おおきに……」
娘が咳き込んだ。血が混じった痰が、女の服に飛んだ。女は気にする素振りもなく、娘の背中をさすっている。
「大丈夫え。大丈夫やからな」
誰に言い聞かせているのか。娘にか。自分にか。
ルーシェは、その背中を見つめていた。二人の影が、曇り空の下でひとつに重なっている。
◇
炊き出しが終わりかけた頃だった。
広場に残っているのは、片付けをする憲兵と、数人の貧民だけになっていた。曇り空はさらに厚みを増し、今にも雨が降り出しそうだ。冷たい風が、埃を巻き上げて通り過ぎていく。
鍋を洗っていたセリアのもとに、あの女が近づいてきた。娘を抱いたまま、おずおずと歩いてくる。
足取りが重い。娘の体重を支えきれないのか、何度もよろめいている。
「あの……お願いがあるんえ。うちと、この子を……殺しとくれへんか」
セリアの手が止まる。ルーシェも目を見開いた。
「このまま生きてても、苦しいだけなんえ。どうせ死ぬなら、楽に逝きたい」
女は懇願するように続けた。目に光がない。涙も枯れたのか、乾いた目でこちらを見ている。
「あんた、優しい人やわ。だから頼みます。この子だけでも、楽にしてやっとくれ」
腕の中で、娘がまた咳き込んだ。小さな体が痙攣するように震えている。血の混じった痰が、女の胸元を汚した。
セリアは唇を噛みしめていた。拳を握りしめ、何かに耐えるような顔をしている。その拳が、わずかに震えているのが見えた。断るための言葉を探しているのか、それとも断る言葉など見つからないのか、ルーシェには判断がつかなかった。
「それは……私には、できない」
「そうやんなぁ……すんまへん」
女は俯いた。肩が小刻みに震えている。
「本部に戻って、薬を探してみる。症状を抑える薬なら、軍の医療部に残ってるかもしれない。だから――もう少しだけ、待って。約束はできない。でも、やれることはやる」
「……おおきに。動いてくれはるだけで、嬉しいわ」
その声は、もう何も期待していない者の声だった。
セリアが家の場所を聞き、手帳に書き留めた。ペンを走らせる音だけが、しんと静まった広場に響いていた。ルーシェはそれを横目で見ていた。
◇
本部に戻っても、答えは同じだった。
医療部、補給部、他の街の憲兵隊――セリアはあらゆる部署に問い合わせている。ルーシェはその後ろ姿を見ていることしかできなかった。廊下の柱に背中を預け、走り去る姉を目で追いながら、自分の手をただ見ていた。
廊下を走り、階段を駆け上がり、何人もの担当者に頭を下げる姉の背中。
「労咳の薬を探しているんです」
「ない」
冷たい声が、扉越しに聞こえてくる。
「どこかに在庫は――」
「だからない。貧民に回す薬なんかないんだ」
どこでも、答えは同じだった。門前払い。冷たい視線。閉まっていく扉。ルーシェは廊下でその音を聞くたびに、腹の底が重くなるのを感じた。
夕方、セリアは自分の机に突っ伏した。窓から差し込む茜色の光が、その背中を照らしている。肩が上下しているのは、走り続けた息切れか、それとも別の何かか。
「くそっ……何もできない……」
その声は、絞り出すようだった。拳を握りしめた手が、小刻みに震えている。
――こんなに悔しそうなセリアを、初めて見た。
いつも冷静で、いつも正しくて、いつも強いセリアが、こんなにも無力に打ちひしがれている。机に額を押しつけたまま動かない。立ち上がれないのではなく、立ち上がり方がわからなくなっているみたいに見えた。
窓の外では、夕日が沈みかけていた。
――俺には、何かできるんじゃないか?
その考えが、頭から離れなかった。
◇
夜。
ルーシェは自分の部屋で、ベッドに横たわったまま天井を見上げていた。
窓から月明かりが差し込んでいる。隣の部屋からは、イリスの寝息がかすかに聞こえる。静かな夜だった。その静けさが、余計に頭の中の声を大きくさせた。
眠れない。
あの親子の顔が、頭から離れない。
痩せこけた母親。血を吐きながら咳き込む娘。「楽にしてやってくれ」と懇願する声。光を失った目。
娘の顔が、イリスと重なった。
もしイリスがあんなふうになったら。治せない病に蝕まれて、痩せ細って、血を吐いて。そばにいることしかできなかったら。
――俺は、どうする?
胸が締めつけられる。考えただけで、息ができなくなる。
――せめて、楽にしてあげることはできないのか?
ルーシェは自分の手を見た。月明かりの中で、白い指が浮かび上がっている。細くて、頼りなくて、これで鎌を握っているとは思えない手だ。
自分のギフトは、鎌を呼び出す力だ。あの鎌なら、一瞬で――
――でも、俺が人を殺すのか?
前世で人を殺したことなんてない。殴り合いの喧嘩すらしたことがない。
――命は大事。自殺はいけない。綺麗ごとは言える。
でも、あの親子はどうやっても救えない。この世界では、結核は治らない。高い薬を買い続けても、苦しみを先延ばしにするだけだ。セリアが奔走しても、無理だった。
――このまま苦しんで死ぬか、一思いに楽にしてやるか。
傍観すればいい。そうすれば、親子は勝手に死ぬ。手を汚さずに済む。明日も明後日も、何も変わらない日常が続く。
――そう考える自分が、卑怯で恥ずかしい。
天井の木目を見つめながら、ルーシェはしばらく動けなかった。答えは出ているのに、体が動くのを拒んでいる。それでも、やがて。
ルーシェは起き上がった。
――行かなきゃ。
右手に意識を集中する。淡い光とともに、鎌が現れた。月明かりを受けて、刃が鈍く光っている。冷たくて、重くて、それが今は少し頼もしかった。
音を立てないように部屋を出た。廊下を抜け、玄関を開ける。冷たい夜風が頬を撫でた。
夜の貧民街へ向かう。
◇
廃屋は、貧民街の外れにあった。
壁は半分崩れ、屋根には大きな穴が開いている。かつては誰かの家だったのだろう。今は誰も住んでいない。住めない。路地に降り積もった泥が、靴底にまとわりついた。
崩れかけた扉の隙間から、かすかな光が漏れていた。蝋燭の灯りだろう。ちろちろと揺れている。
ルーシェは足音を殺して近づいた。扉の隙間から中を覗く。
月明かりが、屋根の穴から差し込んでいる。その光の中に、母親と娘がいた。
娘は床に横たわっている。呼吸は浅く、時折苦しそうに眉をひそめていた。頬は蝋のように白い。
女がその上に覆いかぶさっていた。
両手が、娘の細い首に伸びている。
「ごめんな……ママ、あかんかったわ」
女の声が、静寂の中に響いた。
震える手が、娘の首に触れた。そっと、壊れ物を扱うように。
「何もしてやれへんかった。あんたはいっつも笑ってくれてたのに。ママ何もしてやれへんかった」
涙が、女の頬を伝っている。娘の顔に、ぽたりと落ちた。
「この子は、何も悪くない。ただ、ギフトがなかっただけ。ただ、貧しい家に生まれただけ」
首にかけた手に、少しずつ力がこもっていく。
「痛ないようにするからな……すぐ終わるからな……」
――駄目だ。あの手で、娘を殺させちゃいけない。
――俺なら、一瞬で終わらせられる。
「待って!」
ルーシェは扉を押し開ける。蝶番が軋む音が、夜の静寂を破った。
女が顔を上げた。娘の首から、手が離れる。
月明かりが背中に当たっている。鎌を握る手が震えていた。
「お嬢ちゃん……」
涙が溢れていた。止められない。頬を伝い、顎から滴り落ちていく。拭う余裕もなかった。
「本当は助けたかった。でも――方法がない」
声が震えている。自分の声じゃないみたいだ。
鎌を構えた。刃が月明かりを受けて、白く輝いている。持つ手が、小刻みに震えていた。
「ごめんなさい」
女は娘から離れ、座り込んだ。震える手を膝の上に置いて、少女を見上げている。
「……泣いてくれてはるんか。こんな貧民のうちらのために」
娘が目を開けた。熱に潤んだ瞳が、こちらを見上げている。
「ママ……」
ルーシェを見て、微笑んだ。頬に血の気はない。唇は乾いて割れている。それでも、笑っていた。
「天使さん……や。天使が、最後に来てくれはったんや」
女は娘を抱き起こし、強く抱きしめた。
「ありがとう……ほんまに、ありがとう」
涙が止まらない。でも、止められない。
――俺は今から、人を殺す。
――いや、違う。救うんだ。この親子を、地獄から。
一度だけ、深く息を吸った。
鎌を振り上げた。月明かりが刃を白く染める。
女は娘を抱きしめたまま、目を閉じている。二つの首が、並んでいる。
振り下ろした。
刃が親子の首を通り抜けた。血飛沫が壁を染める。
同時に、壁が光った。血が意思を持ったように蠢き、文字を描いていく。
「R.J」
その瞬間、何かが脳の奥で弾けた。
――これが、【天国への扉(Heaven's Door)】の全てだ。
知識が、映像ではなく確信として流れ込んできた。斬られた者は死ぬのではない。魂は俺の元いた世界――日本へ送られる。この能力の詳細を他者に知られれば、ギフトは消滅する。ただし、自分が送った者たちは例外だ。彼らには真実を語っても問題ない。
なぜわかるのか。理屈ではない。骨の芯まで、ただ確信があった。
足元には、親子の抜け殻が転がっている。
鎌が光になって消えた。
手が震えている。膝から力が抜けそうだ。
――俺は……人を斬った。
――でも、殺したんじゃない。
――日本に送ったんだ。
足元の抜け殻から、目を逸らした。
胃の奥からこみ上げるものを、歯を食いしばって堪える。喉が焼けるようだった。それでも吐かなかった。
廃屋を出た。
崩れた壁の向こうに、夜空が広がっていた。雲が切れ、月が煌々と輝いている。星が瞬いている。
空を見上げた。
冷たい風が、涙に濡れた頬を撫でていった。
歩き出した。夜の貧民街を、ひとりで。
背中に月明かりを浴びながら。




