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第3話「追う者」

 また五人。


 会議室には煙草の煙が漂っていた。窓から差し込む朝日がそれを白く浮かび上がらせ、埃と混じり合って緩やかに揺れている。


 長机を囲む二十人ほどの憲兵たち。誰もが疲れた顔をしている。目の下に隈を作った者、無精髭を生やした者、虚ろな目で宙を見つめる者。セリアは手元の資料に目を落としたが、活字が頭に入ってこなかった。ペンを持つ指先だけが、習慣でかろうじて動いている。


「被害者は昨夜だけで五名。いずれも貧民街の住人だ」

「犯行現場には例の血文字。『R.J』。レッドジョンに間違いない」


 半年で三百三十二人。


 もはや異常という言葉では足りない。数字が積み上がるたびに、その重みに感覚が麻痺していく。それが怖かった。


「手がかりは?」

「相変わらずです。目撃者なし、痕跡なし」

「引き続き捜査を継続。以上、解散」


 椅子を引く音があちこちで重なった。疲弊した足音が、出口へと向かっていく。誰も言葉を交わさない。


 セリアも立ち上がろうとしたとき、背後から声がかかった。


「セリア。少し残れ」


 ガルシア大佐だった。



 ◇



 大佐の後について本部の廊下を奥へ進む。


 すれ違う憲兵たちが次々と敬礼するが、大佐は目もくれずに歩き続けた。軍靴の音だけが、石造りの廊下に反響している。どこへ連れていかれるのか、セリアには見当もつかなかった。聞けない空気があった。ただ、その背中についていくしかない。


 やがて足を止めたのは、突き当たりの小さな扉の前だった。


 他の扉とは違う。鉄製で、鍵穴が三つある。壁と同じ灰色に塗られていて、注意しなければ見過ごしてしまいそうになる。意図してそう作られているのだ、とセリアは思った。


 大佐が懐から鍵束を取り出す。三つの鍵を、順番に回した。


 重い音を立てて、扉が開く。


 中に入る。窓のない部屋だ。


 蝋燭が一本だけ机の上で揺れ、壁には地図と書類がびっしりと貼られている。釘で留められた羊皮紙。赤い糸で結ばれた複数の地点。走り書きのメモ。埃っぽい空気が鼻をついた。この部屋に積み重なった時間が、そのまま空気になっているようだった。


 すでに数人の憲兵が待っていた。


 頬に古傷のある男。隻眼の女。腕に火傷痕を持つ老兵――見覚えのある顔もあれば、初めて見る顔もある。


 全員、目つきが違う。場数を踏んできた者だけが持つ、鋭い光。油断のない視線が、セリアを値踏みするように見つめている。品定めされているのはわかっていた。それでも視線を逸らさなかった。


 その中に、ドグがいた。


 心臓が跳ねる。


 幼馴染で、先輩で、セリアが誰よりも尊敬する人。広い肩、鍛え上げられた腕。蝋燭の灯りに照らされたその横顔は、あの日から何も変わっていなかった。変わったとすれば、目の奥の色かもしれない。以前より、ずっと昏い。


 ドグがこちらに気づき、軽く頷いた。


「よう、セリア」

「……ドグ先輩」


 声が上擦らなかっただろうか?


 平静を装って頷き返したが、目が合った瞬間、思わず視線を逸らしてしまう。胸の奥で何かが疼く。それを押し込めて、背筋を伸ばした。


 背後で扉が閉まり、鍵のかかる音がした。三つ。重く、冷たい音。


「今日からお前も、この捜査に加わってもらう」

「この捜査……?」

「真のレッドジョン対策本部だ。表の会議は形だけだ。本当の情報は、あそこでは出せない」

「なぜですか?」

「情報が漏れている」


 背筋を冷たいものが走る。


 部屋にいた全員が、微かに姿勢を硬くした。知っていた者も、改めて声に出して聞かされることの重みがある。セリアはペンを握り直した。


 大佐が壁の地図の前に立つ。赤い印が貧民街に集中している。


「半年で三百人以上。被害者は全員、貧民街の住人だ。社会的弱者だけを狙っている」


 大佐が赤い印を指で叩いた。乾いた音が、静かな部屋に響く。


「犯行時間は深夜。単独犯。凶器は大型の刃物。一撃で首を断っている。躊躇いがない」


 地図から離れ、部屋の全員を見渡す。


「犯人像はこうだ。戦闘経験のあるギフト持ち。貧民街の地理に詳しい。夜間に自由に動ける生活環境にある」


 大佐の声が、一段低くなった。


「そして――被害者はほぼ全員、ギフトを持たない者だ。通常、弱者だけを狙う犯人は、自らも非力であることが多い。だがこのレッドジョンは半年で三百人、証拠なし、目撃者なし。追った精鋭すら返り討ちにしている。並の人間に成し遂げられる所業ではない」


 セリアの手が止まっていた。メモを取る手が、いつの間にか動かなくなっている。ペンの先が羊皮紙の上に置かれたまま、どこにも動けずにいた。


 大佐の目が室内を一巡した。


「俺は三十年、憲兵をやっている。Aランクの賞金首を何人も捕まえてきた。Sランクを仕留めたこともある。だが、レッドジョンだけは――」


 振り返った大佐の目には、深い疲労が滲んでいた。


 この人が、こんな顔をする。それだけで、事態の深刻さが伝わってきた。百の現場をくぐり抜けてきた男が、初めて年老いて見えた。


「これまで何度も、手がかりを掴みかけた」


 壁際へ歩いていく。そこには四枚の写真が貼られていた。顔写真だ。目を閉じている者、正面を見据えている者。


 全員の写真の下には、黒い線が引かれている。


 ――死亡を意味する線。


 セリアの視線が、その線の一本一本を辿った。


「ダリオ」


 大佐が一枚目の写真を指した。


「服役囚だ。レッドジョンの正体を知っていると言った。無罪を勝ち取れば、全てを話すと。取引の三日前、独房で首を吊った状態で発見された。自殺ではない。爪が全部剥がれていた。最後まで抵抗した証拠だ」


「レナード」


 指が二枚目に移る。


「優秀な憲兵だった。レッドジョンの潜伏先を突き止めたと報告してきた。翌朝、自宅で発見された。妻と子供の目の前で、喉を掻き切られていた。犯人が押し入った形跡はない。玄関の鍵は内側からかかっていた」


 密室で、家族の目の前で……どれほどの恐怖だっただろう。

 妻は、子供は。

 目の前で夫が、父が殺されるのを見て――

 セリアは唇を噛んだ。


「ネイサン」


 指が三枚目に移る。


「薬師だ。貧民街で働いていた。レッドジョンの目撃情報を持っていると連絡してきた。約束の場所に現れなかった。今日まで、遺体すら見つかっていない」


 遺体すら……。


 その言葉が、重く響く。どこかで誰かを待っている人間がいるのかもしれない。帰りを信じながら、今日も待ち続けている誰かが。


「そして――」


 大佐の手が四枚目の写真に伸びた。


 若い女性。憲兵の制服を着て、穏やかに笑っている。目元に笑い皺がある。優しそうな顔だ。


「ナディア。俺の部下だった」


 大佐の声が、わずかに低くなった。他の三人を語るときとは違う、わずかな変化。それに気づいたのはセリアだけではないはずだった。


「レッドジョンの行動パターンを分析していた。あと少しで、奴の拠点を特定できるところだったが……一週間前、帰宅途中に消えた。翌朝、川で見つかった。首から下だけが」


 誰かが息を呑む音がした。隻眼の女が目を伏せ、老兵が天井を仰いだ。


 四枚の写真を見つめる大佐の横顔には、怒りと悔恨が刻まれていた。


 深い皺。噛みしめた歯。こめかみに浮かぶ血管。


「――レッドジョンに近づいた者は、こうなる」


 大佐の声が、静かに続く。


「犯行手口はレッドジョンとは違う。手口がばらばらで、血文字もない。だが、レッドジョンに近づく者が次々と消えている。偶然とは思えない」


 内通者がいる。


 セリアは理解した。組織の中に、裏切り者が潜んでいる。情報を流し、邪魔者を消している誰かが。


「内部に……スパイがいると?」

「断定はできん。だが、そう考えるのが自然だ。だから、この部屋にいる人間だけで動く。全員、身辺調査を終えた者だ。お前の調査も、昨日終わった。問題なしだ」

「……光栄です」

「光栄なものか。この捜査に関わった者は、命を狙われる。それでもやるか?」

「やります」

「理由は?」


 脳裏にルーシェの笑顔が浮かんだ。イリスの横顔も。


 食卓で笑い合う二人。くだらないことで言い合う声。朝、寝ぼけ眼で「おはよう」と言うルーシェ。何も言わずにお茶を淹れてくれるイリス。


 あの日常を、守りたい。


「――妹たちがいます。あんな化け物を野放しにしたまま、妹たちをこの街で暮らさせたくありません」


 大佐は黙ったまま、こちらを見つめていた。


 その目が、セリアの覚悟を測っているようだった。鋭く、冷たく、それでいてどこか温かい目。部屋の全員が、固唾を呑んでいた。


 やがて、小さく頷いた。


「いい目だ。期待している」



 ◇



 憲兵本部を出ると、空は茜色に染まっていた。


 屋台の匂いが漂い、どこかで子供たちの笑い声が響いている。石畳を歩きながら、セリアはすれ違う人々の顔をつい見てしまう。今日の前と後では、同じ光景が違って見えた。


 買い物帰りの主婦。仕事終わりの職人。手を繋いで歩く親子。誰もが普通の顔をしている。


 この中に、殺人鬼がいるのかもしれない。


 あるいは、次の被害者が。


 拳を握りしめた。石畳を踏む足音が、耳に重く響く。


 ――必ず捕まえる。必ず。


 今日は早く帰ろう。妹たちが待っている。



 ◇



「ただいま」

「姉さん、お帰り!」

「お帰り、セリア姉様。夕飯、もうできてる」

「ありがとう」


 三人で食卓についた。湯気の立つスープと、焼きたてのパンが並んでいる。二人の声を聞いた瞬間、肩の力が少し抜けた。


「いただきます」

「今日、市場で安売りしてた。人参がすごく甘いの」

「ほんとだ、美味しい」

「でしょ」


 イリスの口元がわずかに緩んだ。


 一口食べた。確かに甘い。人参の甘みがスープ全体に溶け込んでいて、疲れた体に染み渡っていく。体の奥から温かくなるような、素朴な甘さだった。


「姉さん、今日も遅かったね」

「ええ……ちょっと、立て込んでて」


 スープを口に運ぶ。温かい。でも、頭の中では大佐の言葉が何度も繰り返されている。温かいものを飲み込みながら、それでも冷たいものが胸に居座っていた。


 ――レッドジョンに近づいた者は、こうなる。


 四枚の写真。その下の黒い線。


 スプーンを置いた。


「……レッドジョン、か」


 ガタン、と音がする。


 見ると、ルーシェがスプーンを落としていた。


 顔から血の気が引いている。額には汗が浮かんでいた。目が泳いでいる。


「……大丈夫?」

「だ、大丈夫! ちょっと手が滑っただけ!」

「風邪でも引いた? 顔色悪いわよ」

「へ、平気平気!」


 イリスが冷めた目でルーシェを見た。


「……バカじゃないの」

「ひどい!」

「事実でしょ」


 思わず苦笑が漏れた。


 この二人は相変わらずだ。イリスがルーシェの皿にパンを乗せる。


「うるさい。食べな」

「こ、こいつって!」


 二人のやり取りを見ながら、小さく微笑んだ。


 この食卓。この日常。これが、自分の守りたいものだ。


 ふと、ドグの横顔が浮かんだ。彼も同じ気持ちなのだろうか? 守りたいものがあって、だから戦っているのだろうか?


 頭を振って、その考えを追い払った。今はそんなことを考えている場合じゃない。


 レッドジョンなんかに、この日常を壊させはしない。


 必ず捕まえてみせる。


 視線がルーシェに向いた。


 さっきの動揺は何だったのだろう? レッドジョンの名前を聞いた途端、あんなに顔色を変えて。


 ルーシェは何事もなかったように、スープを口に運んでいる。でも、スプーンを持つ手が、まだわずかに震えている気がした。


 『どこで』と、喉まで出かかった。


 ――気のせい、よね?


 自分にそう言い聞かせた。


 容疑者リストの作成が、明日から始まる。

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