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第1話「おやすみ」

 殺人鬼と呼ばれているが、少女はひとりも殺していない。



 ◇



 三十分前。廃屋の隅に、男がいた。


 窓のない部屋だ。月明かりも届かない。壁の隙間から夜風が吹き込み、蝋燭の炎が揺れている。その炎だけが、闇の中でちろちろと踊っていた。


 男は壁にもたれて座っている。


 骨と皮だけの体。擦り切れた服。目に光がない。頬はこけ、唇は乾いてひび割れている。呼吸をしているのかさえ、わからなかった。


 ギフト――生まれ持った異能の力――ギフトを持たない者、弱すぎるギフトしか与えられなかった者は、こうして朽ちていく。誰にも看取られず、誰にも惜しまれず。


 男が顔を上げた。


 目が合う。


「な、なんだてめぇ……!」


 目を見開いている。当然だ。金髪碧眼の少女が鎌を持って立っている――そんな光景を見れば、誰だって驚く。


 死にかけていても、死にたくはない。それが人間だ。


 ルーシェは唇に指を当てた。


「しー」


 鎌の刃を、男の首筋にそっと当てる。冷たい金属が肌に触れる。喉仏がひくついた。


 男はこくこくと頷いた。声も出せないらしい。喉が上下するだけで、音にならない。


「そう、静かにね――二つ聞く。この世界に未練は? 待っている人は?」

「な、なんでそんなこと……」

「答えて」

「ひぃっ!」

「わ、わかった! 話す、話すから……!」


 男は長く息を吐いた。肩から力が抜け、壁にもたれ直す。抵抗する気が失せたのだろう。


「……いねえよ。女房も子供も、病で死んだ。俺を待ってる奴なんざ、どこにもいねえ。未練? んなもん、とっくに捨てた。もう何年も、こうやって生きてるだけだ。生きてるっつうか……息してるだけだな」

「そう」


 ルーシェの瞳が淡く光った。


 【|天国への扉《Heaven's Door》】。


「おやすみ」


 鎌を振り下ろした。


 抵抗はない。刃が首を通り抜ける。空気を斬るように、滑らかに。


 首が落ちる。血飛沫が壁を染めた。


 同時に――壁が光った。


 血が意思を持ったように蠢き、文字を描いていく。


「R.J」


 ギフトの副作用だ。首を刎ねるたび、この文字が勝手に刻まれる。止めようと思っても、止められない。


 憲兵たちはこれを「Red John」と呼んでいるらしい。血文字の頭文字から付けた名だ。血塗れの殺人鬼。


 違う。そうじゃない。


「Return Japan」――日本に帰す。


 それが本当の意味だ。


 誰もわかってくれないが。


 ひとりを日本に送るたび、ルーシェ自身も一分だけ日本に行ける。それがこのギフトの報酬だ。


 今日で三人。三分。半年で三百二十人以上送ってきた。合わせて五時間以上になる。たった五時間。されど五時間。


 手がわずかに震えている。興奮が残っている。


 ――斬りたい。


 鎌を振るうたび、何かがうずく。もっと斬りたいという衝動。もっと。もっと。この体に刻まれた、元のルーシェの名残だ。


 指が柄を握りしめる。視界の端が、赤く滲む。


 ――駄目だ。


 深く息を吐いた。指を一本ずつ、意識して開く。


 握りを緩めた。鎌が光になって消える。


 死体を見下ろす。


 だが、これは抜け殻だ。魂は今頃、日本で目を覚ましている。傷ひとつない体で。


 殺しているように見えて、殺していない。


 むしろ――救っている。


 男の顔に目が向いた。首から離れた頭。虚ろな目が、こちらを見ている。


 ――お前は本当にそう思っているのか?


 そう言われた気がした。


 ――くそ。


 頭をかきむしった。金色の髪が指に絡まる。


 ――なんか、飲みたい気分だ。


 壁の血文字に手を触れた。


 視界が白く弾ける。



 ◇



 次の瞬間、コンビニの前に立っていた。


 蛍光灯の光が目を刺す。ガラス越しに並ぶ飲み物。色とりどりのパッケージ。深夜なのに明るい。眩しいほどに明るい。


 自動ドアをくぐった。


 冷房が肌を撫でる。さっきまでいた廃屋とは別世界だ。埃っぽい空気も、血の匂いも、蝋燭の揺らめきもない。清潔で、涼しくて、静かな空間。


 ――ああ、文明。


 レジの店員がこちらを見た。二十代くらいの男。目が合うと、すぐに逸らされた。


 雑誌コーナーにいた男性客も、顔を上げる。こちらをちらちらと見ている。


 ――また見てる。


 この顔がモテるのはわかる。なにせ外見は金髪碧眼の美少女だ。異世界転生ラノベの主人公みたいな見た目をしている。


 だが、慣れない。中身は三十二歳のおっさんなのに。むず痒い。視線を感じるたびに、背中がぞわぞわする。


 冷蔵棚の前に立った。


 ずらりと並ぶ飲み物。コーラ、サイダー、ジンジャーエール、エナジードリンク。どれも向こうの世界にはない。


 炭酸飲料を取った。黒いラベル。見慣れたロゴ。前世で何百本と飲んできた味だ。


 レジに持っていく。


 店員がちらちらとこちらを見ながら、バーコードを読み取る。視線が顔と手元を行ったり来たりしている。


 ――見すぎだろ。


「百五十円です。――ありがとうございましたー」


 店員の声を背に、外に出た。


 ガラスに自分の姿が映っている。金髪の少女が缶を持って立っている。深夜のコンビニの前で。


 前世なら、こんな時間に若い女の子が一人でいたら心配する側だった。


 今は心配される側だ。


 ――守る側から、守られる側になるって、こういうことか。


 なんか、落ち着かない。


 缶を開けた。プシュ、と小さな音。炭酸が弾ける匂いが鼻をくすぐる。


 一口飲んだ。


 炭酸が喉を刺す。甘さと苦さが舌の上で混ざり合う。胃に落ちていく冷たさ。


 ――これだよ、これ。


 向こうの世界には炭酸飲料がない。この刺激が恋しかった。前世では当たり前のように飲んでいたものが、今では最高の贅沢だ。


 一気に飲み干した。二分もかかっていない。


 空き缶をゴミ箱に投げ入れた。からん、と音がする。


 ――落ち着いた。帰るか。


 人気のない路地に入った。左右を確認する。誰もいない。

 

 右手に意識を集中した。淡い光とともに、鎌が手の中に現れる。

 

 壁に向かって、一閃。

 刃が空を切った。

 壁に、赤黒い文字が滲み出た。


「R.J」


 コンクリートの上でぬらりと光っている。日本でも、この文字だけは変わらない。

 文字に手を触れた。視界が白く弾ける。



 ◇



 廃屋に戻っていた。


 血の匂いが鼻につく。蝋燭の炎が、相変わらず揺れている。死体はそのまま転がっている。


 廃屋を出た。


 崩れかけた家々。泥の路地。うずくまる人影。貧民街の夜だ。


 静かすぎる。虫の声すら聞こえない。生きる気力を失った者たちが、ただ息をしているだけの街。


 ルーシェは足早に歩いた。


 角を曲がると、老人が壁にもたれていた。眠っているのか、死んでいるのか。胸が動いているかどうか、暗くてわからない。


 視線を逸らした。


 今日はもう三人送った。これ以上遅くなると、イリスが心配する。


 路地の奥で、子供の泣き声がした。


 すぐに止んだ。誰かが口を塞いだのか。夜に声を上げれば、何が寄ってくるかわからない。この街では、泣くことさえ許されない。


 足を止めそうになる。


 ――全員は救えない。


 わかっている。わかっているが、胸が軋む。


 ――明日また来る。その時まで、生きていてくれ。


 貧民街を抜けると、少しマシな街並みになる。まだボロいが、人が住める家がある。窓から灯りが漏れている。どこかから、夕飯の匂いが漂ってきた。焼いた肉と、煮込んだ野菜。


 ここに住めるだけで、まだマシな方だ。


 貧民街の住人から見れば、ここは天国に等しい。


 でも、日本と比べれば――どちらも地獄だ。


 小さな家が見えてきた。


 二階建て。壁はひび割れているが、屋根はある。窓から明かりが漏れている。温かい色の光。


 イリスが起きている。


 玄関を開けた。


 台所から鍋の音がする。ことこと、と規則正しいリズム。湯気と一緒に、野菜を煮込む匂いが漂ってきた。


「ただいま」

「……風呂、沸かしてある」

「ありがと」

「早く入って」


 声は素っ気ない。でも、風呂を沸かしてくれている。口と行動が一致しない妹だ。



 ◇



 風呂から上がると、食卓にスープとパンが並んでいた。


 イリスはすでに席についている。スプーンを手に、こちらを待っていた。


「いただきます」

「セリア姉様の分、取ってある」

「姉さん、今日も遅いの?」

「仕事」


 それだけ言って、イリスはスプーンを口に運んだ。


 しばらく無言で食べた。


 イリスは背筋を伸ばして座っている。スプーンの持ち方も綺麗だ。セリアが教えたに違いない。


 ルーシェが音を立ててスープを啜ると、イリスが眉をひそめた。


「行儀悪い」

「ごめんごめん」


 ――すすらせてくれよ。日本人なんだから。


 とは言えない。言えるわけがない。


 野菜がたっぷり入ったスープ。人参、玉ねぎ、じゃがいも。味付けは薄めで、素材の甘みが出ている。セリアの好みだ。


「……美味しい」

「……当然」

「イリス、料理上手くなったよね」

「……別に」

「前はもっと塩辛かった」

「うるさい」

「……セリア姉様が教えてくれた」

「そっか」

「……ルーシェは関係ない」

「はいはい」


 セリア姉様、セリア姉様。イリスはセリアの話になると饒舌になる。といっても、一言二言増える程度だが。


 ルーシェには塩対応なのに。


 まあ、仕方ない。昔のことを考えれば、今の関係でも奇跡だ。元のルーシェは、この子に相当ひどいことをしていたらしい。


 食器を流しに運ぶ。イリスが隣に立ち、無言で洗い始める。ルーシェは布巾を手に取った。


 水音と、皿を拭く音だけが響く。窓の外は暗い。虫の声がかすかに聞こえる。


 ふいに、イリスが呟いた。


「……ルーシェ」

「ん?」

「……ルーシェ、変わったよね」


 手が止まった。


 心臓がどくんと鳴った。背中に冷たいものが走る。


 ――気づかれた?


「……そう?」

「前は……もっと怖かった」


 イリスの声は淡々としている。でも、その目は真っ直ぐこちらを見ていた。銀色の瞳。月明かりのような、冷たい光。


 怖かった。


 その言葉が胸に刺さる。


 元のルーシェは、この子に何をしたのか。断片的な記憶しかない。怒鳴り声。泣き声。物が割れる音。でも、それだけで十分だった。


「……ごめんね」


 謝る資格があるのかはわからない。俺は元のルーシェじゃない。でも、この体で生きている以上、責任がある。


 それ以外に言葉が見つからなかった。


「……別に。今の方がいい」

「……おやすみ」

「おやすみ」


 妹の足音が階段を上っていく。軽い足音。でも、どこか安心したような響き。


 ルーシェは窓の外を見た。星が出ている。向こうの世界と、同じ星。


 ――今の方がいい。


 その言葉が、胸に残る。俺が、ここにいていい理由みたいに聞こえた。

 

 明日も、同じ日が続けばいい。


 窓の外の星を、しばらく見ていた。

 向こうの世界でも、今夜も誰かが死んでいく。


 右手が、ふと動いた。鎌の柄を握るように、指が曲がる。ルーシェは、その手を、もう片方の手で静かに押さえた。

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