第15話「女将の恩返し」
服に血がついている。自分の血と、送った老人の血が混じっている。深夜の住宅街を、壁伝いに歩いた。
右腕が使えない。脇腹が熱い。後頭部が重い。それでも足を動かした。止まったら、二度と動けない気がした。
ヴァン。
その名前が、頭から離れない。
俺が家族を引き裂いた。それだけは間違いない。でも、ヴァンを日本に送れば全部解決する。問題は、正面からでは絶対に無理だということだ。
――コウメに相談しよう。
足の裏が熱い。膝が笑い始めている。一歩ごとに脇腹が疼く。
顔を上げると、旅館の裏口が見えた。
聞いた時は信じられなかった。コウメが経営する旅館だ。
立派な塀だった。石造りで、背が高い。表通りに面した正面玄関は大きな提灯が連なり、夜でも圧倒的な存在感がある。複数の棟が連なり、どこかに必ず灯りがある。深夜だというのに、庭園の石畳が月明かりに白く光っていた。
裏口の前に立つ。呼び鈴を探した。扉が、内側から開く。
若い男が立っていた。旅館の番頭着。まだ慣れていない、どこかぎこちない立ち方。
男はルーシェを一瞥した。血のついた服。ボロボロの体。ふらついた足取り。
「……なんだよ、こんな時間に」
「コウメさんに、ルーシェが来たって伝えて」
「は? アポは取ってる?」
「……取ってない」
「取ってないなら話にならない。うちの女将がどれだけ忙しいか知ってる? 議員ですら一時間待ちはざらなんだよ。知事とも懇意にしてるんだぞ。外国人の小娘が来るような場所じゃないから。帰れ帰れ」
手を振られた。まるで野良犬でも追い払うように。
「いいから伝えて。わかるから」
「わかんないって。うちの女将に迷惑かけんな」
女将、という言葉に力がこもっていた。その名前を使うことが、自分の力であるかのように。
ルーシェは息を吐いた。体が痛い。立っているだけで精一杯だというのに。
――いらつく。鎌で切ってやろうか、こいつ。
裏口の奥から、足音がした。
軽い足音だった。だけど、迷いがなかった。
コウメが現れた。
着物姿。まだ起きていたのかもしれない。
若い男が、ぱっと背筋を伸ばす。
「女将、実は不審者が来ておりまして。今から警察に通報しようかと思っていたところです」
胸を張っていた。手柄を立てたとでも言いたげな顔である。
コウメの目が、ルーシェを捉えた。
次の瞬間、駆け出していた。
「ルーシェ——!」
血のついた服に構わず、体ごと抱きかかえてくれた。高価な着物が血で汚れていく。そんなことは眼中にないようだった。
「……酷い怪我やな。中入り」
コウメが男を見た。一秒だけ。
「……なんですぐ呼ばへんかったん」
「え、あ、でも不審者かと思って——」
「うちの命の恩人や」
静かな声だ。ただ、温度がなかった。
コウメはルーシェを支えながら歩き出す。廊下の奥から、秘書らしき女が駆け寄ってきた。
「女将、先ほどから議員の先生がお待ちで——」
「待たせとき。それより先生起こして。治癒の子も。それと、うちの台所借りるわ」
従業員たちが無言で動き始める。誰も余計なことを聞かない。
コウメが振り返らずに言った。
「あと——あんた、明日から来なくていい」
男の足が、止まった。
「え……な、なんで……俺、ちゃんと——」
「うちの大恩人を門前払いにしといて、警察に通報するなんて言語道断や!」
コウメが初めて男を正面から見た。金色の瞳が、静かに光る。
男の顔から、血の気が引いた。
「あんたが、コネで入ったことも知っとる。誰に頼んだかも。その人への資金援助、明日付けで止めや。それにあんたの家族が経営してる会社、うちが取引先に手を回したら半年で潰れるな。あと、あんたが去年やらかしたこと、警察に話してもいいんやで」
男の膝が崩れた。
「も、申し訳ございません……! お、お許しを——!」
「うちやない。ルーシェに土下座しや」
「は、はいっ!」
男がルーシェに向かって額を床に擦りつけた。嗚咽が漏れている。
「朝まで頭上げたらあかんで」
コウメはルーシェを支えながら廊下を歩き出した。
「……少しやりすぎじゃない?」
「なに言うてんねん。これでも優しいで。あんたの前やから穏便にすましたんや」
「あれで?」
「あれで」
◇
旅館の奥座敷。
広い部屋だった。床の間に一輪の花。違い棚に置かれた骨董品。行灯の柔らかな灯りが、磨き抜かれた廊下まで届いている。
五分もしないうちに、白衣の男と若い女が現れた。常駐の医者と治癒のギフトを持つ従業員らしい。
医者がルーシェの首と肩と脇腹を確認した。無言で、手際よく。
「肩は外れかけています。脇腹の裂傷は浅い。首の内出血は三日もすれば引く。後頭部の打撲は安静にしてください」
若い女が両手をルーシェの肩にそっと当てた。温かさがじわりと広がっていく。痛みが少しずつ遠のいた。
「ありがとう」
二人が下がると、コウメは立ち上がった。
「話は後や。先に食べ」
しばらくして、コウメが盆を持って戻ってきた。湯気の立つ土鍋。出汁の香りが、座敷に広がった。
「雑炊や。うちが作った」
女将自ら台所に立ったのだろう。深夜に。この広い旅館で、誰も起こさないように。
一口食べた。出汁が染みた。体の芯から、温かくなっていく。
ユズは奥の部屋で眠っている。壁越しにかすかな寝息が聞こえた。
「で、何があったん。順番に話し」
「今夜、男に捕まった。化け物みたいな強さだった。音もなく詰められて、まともに抵抗もできなかった」
思い出すと、顔が熱くなった。叫んで、服の裾を掴んで、泣きながら命乞いをした。三十二歳のおっさんがすることではない。
「捕まった?」
「正面からやり合って、負けた。勝負にすらならなかった」
「……その男、誰なん? 賞金稼ぎ?」
「ミラさんの旦那だった」
湯呑みを持ったまま、コウメの手が止まった。
「……なんやて?」
「ロケットを持ってた。開いて見せてきた。中に肖像画が入ってて、ミラさんとエリちゃんの顔だった。間違いない」
「旦那は死んだって言うてたで、ミラさん」
「私もそう聞いた。だから送った。でも――生きてた。勘違いして、私を追ってる」
コウメは少し黙った。
「ケンに今すぐ連絡する」
出汁の温かさが、まだ胸の奥にある。
なんとかしないと。
――たった一撃でいい。ヴァンを送って、家族を再会させる。
ただし、次に捕まったら、今度こそ終わりだ。




