第14話「対峙」
夜の貧民街。
ルーシェは廃屋を出たところだった。
今夜も一人、いつものように送った。血を拭った鎌を消し、路地に出る。手のひらに、鉄の匂いがまだ残っている。
今朝、セリアが早くに出ていった。レッドジョンの有力な容疑者が見つかったと言っていた。捜査がそちらに向いている。自分への疑いは、なくなったようである。
またいつも通りの夜に戻れる、そう思っていた。
冷えた夜風が頬を撫でた。月は雲に隠れている。闇が深い。
一歩、二歩。
三歩目で、首筋が粟立った。
殺気!?
体が勝手に横へ跳んでいた。耳元を風圧が掠め、背後で矢が壁に突き刺さる硬い音。脇腹に、一瞬だけ熱さが走った。
考えるより先に、足が路地を蹴っていた。
角を曲がる。
三歩先に、影が立っていた。
人ひとりがやっと通れる路地を、男がひとり塞いでいる。腕を組み、こちらを見下ろしている。巨体が、行き場のない路地をさらに狭くしていた。
あの尋問室にいた男だ。ヴィクターの隣で、壁にもたれていた男。
「久しぶりだな」
「……尋問室にいた、人……名前は……」
「ヴァンだ。覚えなくていいぞ、レッドジョン」
心臓が喉元まで跳ね上がる。
それでも、口が開いた。
「……レ、レッドジョン? 何のこと?」
「やめろ。時間の無駄だ。現場は見ていたぞ」
見られた!?
何か言い訳を。頭が高速で回転する。でも、何も出てこない。現場を見られたのは致命的だ。
――言い訳は無理か。
逃げられない。前を塞がれている。背を向ければ、この距離では追いつかれる。
やるしかない!
右手に意識を集中した。胸の奥で、何かが応えた。指先から光が滲み出す。柄が、刃が、闇の中で輪郭を結んでいく。
【天国への扉(Heaven's Door)】。
鎌が、手の中に現れた。
――隙を作れ。逃げるだけでいい。
がむしゃらにヴァンへ斬りかかる。
ヴァンは動じなかった。一歩も引かなかった。ただ、半歩だけ体を開く。それだけで、鎌はヴァンの脇を空振った。
返す刃で薙ごうとしたが……。
手首を掴まれた。力ではない。角度だ。関節の逃げ場をすべて潰す、無駄のない一手。骨が軋む。指が開く。鎌が路地に落ちる音がした。
体が反射で半歩退く。それだけだった。
足音はしない。風を切る音すらない。なのに、背中に衝撃が走った。
壁に叩きつけられる。肺の空気が一瞬で押し出される。視界が白く明滅する。後頭部を打った。石壁の冷たさと痛みが同時に来る。
――振り返ってすらいないのに、もう捕まっていた。
ヴァンの手が、ゆっくりと伸びてくる。
――やばい。やばいやばいやばい。どうする? どうすればいい?
この人、格が違いすぎる。
「ま、待って、殺さないで。私はレッドジョンじゃない……!」
「……往生際が悪いな。来い」
襟首を掴まれ、引きずられた。足が地面を引っ搔く。抵抗できない。廃屋の扉が蹴り開けられた。
「ここを見ろ。お前がやったことだ」
床に、それがあった。
生首だった。目が半開きのまま、虚空を見ている。
――いつもは、できるだけ見ないようにして、帰る。
顔を背けようとした。
ヴァンに強引に頭を掴まれた。髪を引っ張られる。強制的に、顔を向けさせられた。そのままぐいと押し下げられ、生首との距離が一気に縮まる。
目が、合った。半開きの、濁った目と。
「ひっ……!」
体が震えている。足に力が入らない。涙が滲んできた。
「……死体が怖いか? お前が殺した相手だぞ」
背中を壁に叩きつけられた。
うぐっ!
さらに首を掴まれ、片手で持ち上げられる。足が地面から離れた。爪先が虚しく空を掻く。太い指が喉に食い込んでいる。気管が潰れる。息が、吸えない。
苦しい。
ヴァンの顔が目の前にあった。
尋問室では無表情だった。壁際の置物のように感情が読めない男。
今は違う。
目が燃えている。瞳の奥に、黒い炎が揺れている。
憎悪だ。
「殺しが怖いなら、なぜ殺した!」
押し殺した声。低く、重く、震えている。怒りを抑えているのではない。抑えきれない怒りが、声を絞っているのだ。
「レッドジョン、貴様にとっては殺したうちのひとりだ。だがな、俺にとっては大事な——妻と娘だ」
「妻と……娘……」
「貴様のような殺人鬼は、殺した者の名前など覚えていないだろう。ミラとエリだ、覚えたか!」
」
――ミラ。エリ?
息が止まった。あの病室が、一瞬で脳裏に蘇った。栗色の髪の女性。眠っていた少女。「覚えておいてください」と言った、あの声。
この男が、二人の。
「ミラとエリだ」
ヴァンの空いた手が、懐から何かを突き出した。
ロケット。蓋が開いている。
近い。顔のすぐ横に突きつけられている。蝋燭の残り火が、中の肖像画をぼんやりと浮かび上がらせていた。
女性と少女。栗色の髪。柔らかな目元。
やはり、そうだ。
ロケットの中の女性は微笑んでいた。穏やかな、温かい顔。病室で見た顔と、同じだ。
廃屋の中で小さな娘を抱きしめて、震えていた。あの人だ。
ロケットの中の少女は、幼い目をしていた。
病室で眠っていた、あの子だ。
息が止まった。喉を絞められているからではない。もっと深いところで、何かが詰まった。胸の奥に、鉛のような重さが落ちてくる。
――この人が。
――あの二人の、旦那さん?
生きていたのか。ミラは確かに、死んだと言っていた。
――違ったのか。
ヴァンの指が首に食い込む。視界の端が暗くなっていく。肺が、空気を求めて痙攣する。
それでも、口が動いた。
「あ……」
声にならない。喉が潰されて、空気が漏れるだけだ。もう一度、絞り出した。
「だん……な、さん……」
「い、き……て……」
息が続かない。一語ごとに、意識が遠くなる。
「た……の……?」
長い沈黙があった。
ヴァンはゆっくりと息を吐いた。目を閉じ、また開く。瞳の奥の炎が、少し静まっていた。
「……お前には聞きたいことがある」
指の力が、わずかに緩む。
空気が、喉に流れ込んだ。
「ごほっ、ごほっ」
むせるように咳き込む。止まらない。喉が焼けている。涙が滲んだ。
「もう一度聞く。レッドジョン、妻と娘をなぜ殺した?」
「そ、それは……」
「言え。答え次第では、すぐには殺さんぞ」
答えられない。制約で説明するとギフトを失う。
沈黙が続く。
するとヴァンの手が、ゆっくりと首から離れた。足が床に降りる。そしてヴァンの手が、懐に伸びた。ナイフが抜かれる。刃が、暗闇の中で鈍く光った。
「ひっ……」
体が、勝手に壁に縮こまった。
「死にたくないか?」
こくこくと頷いた。
「なら答えろ」
答えられない。何を言えばいい。真実は言えないのだ。
「……殺して、ない」
「まだしらを切るか! その度胸だけは認めてやる」
ナイフが、頬に触れた。冷たい。薄く、皮膚が切れる。
「ひぃっ……! え、えーと、ま、待って……あの、あの……」
ナイフが、今度は心臓に向けられた。刃先が、服越しに食い込む。息が止まった。
「あ……」
恐怖で言葉が出ない。
「レッドジョン、そのまま黙っているなら、指から始めようか? 一本ずつ、ゆっくりと」
次は指にナイフがかかる。深く食い込みそうになる。
っ……!
「ま、待って。嘘ついて、ごめんなさい……私が、レッドジョンです」
「やっと認めたか。殺人鬼レッドジョン」
ヴァンがこちらを見下ろした。冷たい目だった。ヴァンはしばらく黙って見ていたが、
「憲兵として立派な姉がいて、温かい家庭もある。そんな恵まれた奴が、なぜ貧民街で首を落とす?」
「そ、それは理由があって――」
真実は言えない。言えることと言えないことがある。
「……いや、やはりいい。言い訳は聞きたくない。半年かけてお前を追い、お前の行動を分析してきた。お前の殺しの動機はわかっている。貧民街の弱者ばかりを狙い、首を落とす。殺して絶望から救ってやったつもりか? 笑わせるな。神にでもなったつもりか、薄っぺらい偽善者が!」
吐き捨てるような声だった。
「ち、違う。自分が神だなんてそんなこと思ってない。ただ私は彼らを——」
「よせ。お前の主義主張には興味がない。俺が聞きたいことは一つ。人生に絶望している者を進んで殺していた。そんなお前が、なぜミラとエリを選んだ? あの二人は絶望していない。ミラは娘のために必死に生きていた。エリは病の床で、それでも笑っていた。大病を患いながらも、生きることを諦めていなかった。それなのに——なぜ殺した。なぜ奪った。あの二人の未来を、お前が——!」
ヴァンの声が震えていた。怒りではない。何かもっと深いものが、声を揺らしていた。
「……っ」
答えられない。でも、黙ってたらヴァンに殺される。
「答えろ。なぜ選んだ!」
ナイフが、また動いた。
「なぜ殺した!」
廃屋が、脳裏に蘇った。蝋燭の灯り。崩れかけた壁。小さな娘を抱きしめて震えていたミラ。エリの浅い呼吸。もう終わりだという顔をしていた。あの夜の二人の顔が、瞼の裏に焼きついて離れない。
「……奥さん絶望して、いた。私の目には、そう見えたよ」
「ミラが絶望していただと? 嘘をつくな、ミラは儚く見えて、誰よりも芯が強い女だ」
「……最愛の旦那さんが死んだと聞かされて、誰よりも悲しんで絶望していた」
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
「つまり全て……俺が招いたことだと?」
「違う、そういうことじゃ——」
「そばにいてやれなかった俺のせいだとでもいうのか……はっ、はははははっ」
笑いではなかった。嗤いでもなかった。ただ、確認するような声だった。
自分自身を嗤う、痛ましい笑いだった。
笑いが、止まった。
ヴァンの目が、変わった。笑いが消えた瞬間、そこにあったのは純粋な殺意だった。
それがナイフに乗り移るように、切っ先がゆっくりと顔に向けられた。刃先が、目と鼻の先にある。
これは本当にやばい。
死ぬ。本当に死ぬ。頭でわかっていても、体がついてこない。前世も今世も、こんな終わり方は嫌だ。まだ、やりたいことがある。食べたいものがある。帰りたい場所がある。
何より大切なセリアがいる。イリスがいる。彼女達を残して死ねない。
体が震えた。足に力が入らない。涙が、頬を伝って落ちていく。
「……やだ……死にたくない……助けて……っ」
嗚咽が混じった。情けない声だった。三十二歳のおっさんのプライドは粉々に砕け散る。十六歳の少女の喉で、みっともなく泣いていた。
「……最期は惨めに命乞いか」
「ひっく……ひっく……助けて……っ」
ヴァンの服の裾を掴んだ。震える手で。
ヴァンが、ため息をついた。
「希代の殺人鬼レッドジョン、か。残念だよ、本当に残念だ。復讐は抜きにしても、貴様には傭兵として興味が尽きなかったんだがな」
「お願い、助けて……っ」
「くそ……最後まで凶悪な化け物であってほしかったよ」
ナイフが、静かに顔へ向けられた。
金髪が、月のない夜に白く浮かぶ。
ヴァンの手が、止まった。
「……エリ」
止まった? どうして?
いや、そんなことどうでもいい。
――泣いてどうする! 少女の体に引きずられるな。中身はいい中年のおっさんだろ。これくらいのピンチ、社畜時代乗り越えてきた。三徹からの早朝出勤、クソ上司からのパワハラモラハラ、理不尽なノルマ。あれに比べれば……まぁ、誰かに殺されそうになったことはないが、過労死したんだから一緒だ——気合を入れろ。
生き残れる最後のチャンスなんだ。
右手に意識を集中した。
【天国への扉(Heaven's Door)】。
鎌が、手の中に現れた。
考えている暇はない。不意に立ち上がり間合いを詰めて斬った。
「な、なに!?」
ヴァンが僅かに後退する。完全には捌けていない。隙がある。
「……っ」
連続で振る。腕が悲鳴を上げる。息が上がる。それでも手を止めない。
ヴァンの目が変わった。先ほどのスキがなくなり余裕が戻ってきている。立て直している。
「無駄だ。その程度では俺には届かん」
わかってる。でも——
「や、やってみないとわからない。今から最大級の必殺技を出す……あなたにこれが受けられるか!」
「ほぅ……」
構えるヴァンを置いて、踵を返した。廃屋の奥へ向かって全力で走る。
「……っ、小賢しい! だが墓穴を掘ったな。行き止まりだ」
ヴァンの声が追いかけてくる。正面には壁。
指が壁を這う。湿ったものに触れた。ぬるりとした感触。まだ乾いていない血。
「R.J」
意識を集中した。
視界が白く弾ける。
◇
最初に届いたのは音だった。エアコンの室外機の低い唸り。遠くの信号機の電子音。異世界の沈黙とは、まるで違う空気の震え方。
空気が肺に雪崩れ込んできた。むせるように咳き込む。喉が焼けている。首を絞められた跡が、呼吸のたびに痛みを訴える。
目を開けた。
蛍光灯の白い光。アスファルトの匂い。
コンビニの前だった。
膝が折れた。前のめりに崩れ落ちる。両手をついた。掌にざらついた地面の感触。冷たいアスファルトが、じわりと体温を奪っていく。
首が熱い。指の跡がひりひりする。背中はずきずきと脈打っている。右腕を動かそうとして、肩に鋭い痛みが走った。上がらない。
脇腹に触れた。指先が温かく、ぬるりとした。
矢がかすっていた。服が裂けている。浅い。致命傷ではない。だけど、じわじわと血が滲み出てくるのがわかった。
さっきまで殺されかけていた。今はコンビニの前にいる。
一秒前まで殺されかけていた世界と、蛍光灯の下で菓子パンが並んでいる世界。その断絶が、今さらのように全身を震わせた。
――なんとか逃げられた。
深夜の住宅街。人通りはない。街灯の光が、アスファルトの上に落ちている。
立ち上がろうとした。膝が笑っている。壁に右手をついて体を押し上げようとして、肩が激痛で悲鳴を上げた。右腕が使えない。左手だけで壁を掴み、歯を食いしばってゆっくりと体を起こす。
視界が、じわりと揺れた。
後頭部だ。石壁に打ちつけた時のダメージが、じわじわと主張し始めていた。立っているのに、地面が傾いているような感覚。目の焦点が合わない。
深呼吸した。喉が痛い。肺まで空気が届かない気がする。
コウメの旅館まで、歩くしかない。
一歩を踏み出した。足が重い。二歩目で、膝が折れかけた。壁に左手をついて、どうにか堪える。
脇腹が熱い。歩くたびに、傷が開く感覚がある。服の下で、血が腹に伝っているのがわかった。
三歩、四歩。
壁伝いに歩く。壁から手を離すと、まっすぐ立てる自信がない。首の跡が脈打つたびに、頭の中で何かが軋む音がする。
それでも、足を動かした。
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