第13話「日本の影」
入国管理局。
狩谷は自分のデスクで、書類の山を睨んでいた。
蛍光灯の光が目に痛い。空調の音が耳障りだ。隣のデスクでは同僚がキーボードを叩いている。いつもと同じ午後。いつもと同じ仕事。
なのに、頭の中が晴れない。
ペンを持ったまま、書類に目を落とした。文字が頭に入ってこない。三ヶ月前から、ずっとこうだ。
あの女のことを考えている。関西弁の不法滞在者。娘を連れていた。
身元不明。パスポートなし。在留資格なし。
完璧な強制送還案件だった。
なのに――俺は、難民申請を受理した。
なぜだ?
顎に力が入る。記憶を辿ろうとするたびに、同じ壁にぶつかる。あの審査室で何があったのか、はっきり思い出せない。
女と目が合った。そこまでは覚えている。
その後が、霧がかかったようにぼんやりしている。靄の中に手を伸ばしても、何も掴めない。
気づいたら、書類にサインしていた。「問題ありません」と口にしている。
自分の声が、自分のものではないように聞こえた。
おかしい。絶対におかしい。
狩谷はペンを置き、引き出しを開けた。
一枚の写真がある。書類の下に、わざと隠すように挟んでいた。
コウメ。
あの女の顔写真だ。施設の記録から手に入れた。
痩せた顔。疲れた目。どこにでもいる、貧しい外国人の顔。
なのに、この顔を見ると――背筋が冷たくなる。体の奥から這い上がってくる、理由のわからない不快感。
この女には、何かがある。
キーボードを叩く音が止まった。
「狩谷さん、また残業ですか」
「ああ」
「体壊しますよ」
「大丈夫だ」
同僚は肩をすくめて、帰り支度を始める。
チェアの背もたれが軋む音、カバンのファスナーが閉まる音、廊下を歩く足音。やがて静かになった。
狩谷はデスクの上の別の書類に目をやった。
身元不明の外国人リスト。この三ヶ月で、急激に増えている。全員、同じ特徴を持っていた。
パスポートなし。出身国不明。なぜか日本語が話せる。
そして――全員、あの女と繋がっている。
施設の記録を調べた。面会記録を洗った。書類と書類の間に、糸を引くように繋がりが見えてくる。
コウメという女を中心に、ネットワークができつつある。最初は二人だった。今は二十人を超えている。
調べる中で、妙な話を何度か聞いた。
施設の職員。病院の看護師。グループの連中に接触した者たちが、口を揃えて言う。
「金髪の女の子が会いに来る」
名前も住所も不明。ただ、特徴だけは一致していた。「天使みたいな子」「金髪で目が青い」「時々会いに来てくれる」。
信者が教祖を語るような口調だった。目を細め、遠くを見るような表情で。
何者だ? コウメたちを束ねている人物か? それとも、別の役割を持った協力者か?
狩谷はペンを取り、メモに書き込んだ。
金髪。碧眼。若い女。
インクが紙に染み込む。蛍光灯の下で、文字が黒く光る。
必ず、尻尾を掴んでやる!
◇
同じ頃。
母子生活支援施設。
コウメは部屋の窓から外を見ていた。腕を胸の前で組み、薄い壁に背を預けている。
夕暮れの空。オレンジ色の光が、団地の壁を染めている。どこかで子供たちの声がする。ボールを蹴る音。笑い声。
平和な風景だ。
でも、油断はできない。目を細めて、空の向こうを見る。
ドアが静かに開いた。
ケンだった。相変わらず生意気な目をしている。
「報告がある。入管の男、動いてる」
「狩谷かえ?」
「ああ。俺たちのこと、嗅ぎ回ってる」
予想はしていた。
あの男の目を覚えている。虫けらを見るような目。憎悪に満ちた目。あの審査室で、一瞬だけ視線が絡んだ。
操ったのは一度だけだ。違和感は残っているだろう。傷のように、疼き続ける。
「どこまで掴まれてる?」
「まだ点だ。線にはなってない。だが、入管の内部資料を手に入れた。狩谷が作ってるリストだ」
「どうやって?」
「職員の一人を抱き込んだ。仲間にやらせた」
「……うまいことやったな」
「ああ。何でも教えてくれるようになった」
「リストには何人載ってんの?」
「二十三人。全員、向こうから来た仲間だ」
「漏れは?」
「三人。最近来たばかりで、まだ施設に登録されてない連中だ」
「その三人は、別の場所に移し」
「もう手配してある。問題は狩谷だ。あいつ、執念深い。このまま放っておくと、いずれ繋がりに気づく」
「……排除するしかないんちゃうか?」
「できるのか?」
「わからん。操れるのは一度きりかも。二度目は効かへんかもしれん」
沈黙。
窓の外で、子供たちの声が遠ざかっていく。夕焼けが、少しずつ色を失っていく。
「別の手を考える。狩谷の上司を調べてる。そっちを操れれば、狩谷を捜査から外せるかもしれない」
「頼むわ」
「任せろ。俺は頭脳担当だ」
ケンが部屋を出ていく。足音が廊下を遠ざかり、静寂が戻ってきた。
コウメは窓辺に残った。組んでいた腕をそっと解いて、ガラスに指先を触れる。
空が暗くなっていく。最初の星が、東の空に光り始めた。
狩谷の顔が浮かんだ。
あの目。憎悪に満ちた目。絶対に諦めへん目や。あれは、意地や執念やない。使命感や。そういう目の人間が一番怖い。
いつか、また来る。それまでに、備えとかなあかん。
◇
翌日。
ルーシェは貧民街の路地を歩いていた。
夜だった。月が雲に隠れ、星明かりだけが頼りだ。路地の両側に廃墟が続き、腐った木材と泥の匂いが鼻をつく。
今夜は三人送った。これで通算三百三十五人。
日本での滞在時間は、五時間三十五分になった。
鎌を消し、壁に刻まれた血文字の前に立った。
「R.J」。赤黒い二文字。月のない夜でも、その文字だけが暗闇の中でぼんやりと光っているように見えた。いつもと同じだ。
だが、今夜は手を伸ばす前に足が止まった。伸ばしかけた指が、宙で止まる。
尋問のことが、まだ頭にこびりついている。イリスの問い。セリアの顔。自分の嘘。
――考えるな。今は、向こうに行く。
奥歯を噛んで、血文字に手を触れた。
視界が白く弾けた。
◇
コンビニの前に立っていた。
深夜の東京。蛍光灯の光。異世界の暗闇から来るたびに、この明るさに目が眩む気がする。
自動ドアのガラスに、自分の姿が映っている。
金髪碧眼の美少女。汚れひとつない姿。どこからどう見ても、外国人の女の子だ。刻んだばかりの血文字も、傷も、全部消えている。
自動ドアをくぐった。
冷房の風が頬を撫でる。雑誌の棚。菓子の棚。飲み物の冷蔵庫。あらゆるものが、均等に照らされている。
深夜なのに明るい。それだけで、心が軽くなる。
飲み物を選んだ。炭酸水。カフェオレ。緑茶。
レジに持っていく。店員は若い男だった。眠そうな目でこちらを見て、すぐにバーコードを読み取り始める。
「四百二十円です。ありがとうございましたー」
店を出た。
近くのベンチに座り、炭酸水を開けた。プシュ、と小さな音。泡が弾ける。
一口飲んだ。冷たい。刺激が喉を抜けていく。肩の力が、少し抜けた。
空を見上げた。
星は見えない。東京の空は明るすぎる。ビルの灯り、街灯、看板――全部が夜を押し退けている。
向こうの世界の夜空を思い出した。
満天の星。天の川。月明かりに照らされた貧民街。今頃あそこにいる人間たちは、この空の下の場所を夢見ているのだろうか。
同じ空のはずなのに、こんなに違う。
「あれ、ルーシェさん?」
声に振り向いた。
藤堂だった。スーツのジャケットを腕に掛け、ネクタイを緩めている。仕事帰りだろうか。コンビニの袋を片手に提げていた。
「こんな時間にどうしたんですか?」
「買い物です。藤堂さんこそ」
「残業帰りです。この辺のコンビニ、よく使うんですよ」
ベンチの横に立ったまま、藤堂は笑った。前に会った時と同じ、嫌味のない笑顔。
だが、すぐにその笑顔が少し曇った。
「……顔色、悪くないですか?」
「そうですか? 寝不足なだけです」
「前に会った時も思いましたけど、深夜に一人は危ないですよ。何か悩み事でもあります?」
「いえ、別に」
――こいつ、鋭い。
「すみません、踏み込みすぎましたね。ただ、僕の経験上、一人で抱え込んでるとだいたいろくなことにならないので」
「……はあ」
「信頼できる人に話すだけで、楽になることってありますよ。解決しなくても」
――信頼できる人。
セリアの顔がよぎった。イリスの顔も。
二人とも信頼している。でも、話せない。話したら、ギフトが消える。
「……考えときます」
「それだけで十分です」
藤堂は軽く肩をすくめた。
「じゃあ、気をつけて。また」
「はい。ありがとうございます」
藤堂が去っていく。背中が街灯の下を通り過ぎ、角を曲がって消えた。
――相変わらずのイケメンだ。爆発し……ろは言い過ぎか。一応心配してくれたのだ。
くそ、さっきの藤堂の言葉が、棘のように刺さって抜けない。
――信頼できる人に話すだけで、楽になる。
――そんな簡単な話じゃねえんだよ!
炭酸水を飲み干した。最後に残った一口が、苦く感じた。缶をゴミ箱に投げ入れ、ベンチから立ち上がる。
そろそろ戻らないと。時間が近い。
ふと、視線を感じた。
首の後ろがぞくっとするあの感覚。ゆっくり顔を上げた。
五十メートルほど先。街灯の下に、男が立っている。
スーツ姿。四十代くらい。こちらを見ている。動かない。ただ、じっと見ている。
目が合った。
男が歩き出した。真っ直ぐ、こちらに向かって。
――なんだ?
背筋が緊張する。男が近づいてくる。足取りは速くない。だけど、迷いがない。観光客でも、通りすがりでもない足取りだ。
十メートル。
五メートル。
男が足を止めた。
街灯の光が、その顔を照らしている。神経質そうな眉。薄い唇。こめかみに、深い縦皺。
「ちょっといいかな」
「……どちら様ですか?」
半歩退くと、男が胸ポケットから何かを取り出した。身分証だ。
「入国管理局の狩谷だ」
入管!?
背筋が冷たくなった。一瞬だけ、心臓が大きく打った。
だが、表情には出さない。出すわけにはいかない。視線を、身分証から狩谷の顔へ、自然な速さで移す。
――設定を作れ。今すぐ。
「こんな時間に、ひとり?」
「コンビニに買い物に来ただけですけど」
「……日本語、上手だね」
「ありがとうございます」
「どこで覚えたの?」
「イギリスで日本語学校に通ってました。ネットでラジオ聴いたり、配信でアニメ追いかけたりもしてましたし」
嘘と真実を混ぜる。前世の記憶を、「イギリスで日本オタクをやっていた少女」の設定に流し込む。
「パスポートか在留カード、持ってる?」
「……今は持ってないです。家に置いてきちゃって」
「そう。名前は?」
「ルーシェ・ベネットです」
「ルーシェ・ベネット。イギリス系?」
「はい、ロンドン出身です」
「ロンドンね。で、なんで日本に?」
「好きなんですよ、日本が。小さい頃からアニメ見てて、大きくなったら絶対日本に住むって決めてたんです」
「今は日本のどこに住んでるの?」
「中野です。中野ブロードウェイの近く。まんだらっけとか週三で通ってます」
「中野ブロードウェイ」
「はい。あそこの三階のレトロゲーム屋、知ってます? ファミコンのカセットがめちゃくちゃ揃ってて。あ、でも最近は秋葉原より中野の方がサブカル的には面白いって言われてますよね。駿河屋の中野店ができてからは特に」
狩谷が黙った。
止まらなかった。前世の記憶が、堰を切ったように口から溢れ出す。
「池袋も好きですけどね。乙女ロードの方はあんまり行かないですけど、サンシャインの近くのアニメイト本店は毎週通ってます。あ、移転してからさらに広くなって最高ですよ。聖地巡礼で言うと、飯能も良かったです。ヤマノススメの。あと大洗。ガルパの聖地ね。商店街のおじちゃんたちがめっちゃ優しくて――」
「待て……お前、本当にイギリス人か?」
「パスポート見ます? 今持ってないですけど」
「いや、そういう話じゃない。俺より詳しいじゃないか、日本のこと」
「まあ、好きなんで。十年以上追いかけてますし」
「十年」
「はい。小学生の頃に深夜アニメの存在を知って、そこからどっぷりです。日本に来るために日本語勉強して、バイトしてお金貯めて、やっと来れたんですよ。来日してからは毎日が天国です。コンビニが徒歩五分圏内に三軒もある。自販機で温かいお茶が買える――イギリスじゃありえないですよ。電車が時間通りに来る。一分遅れただけで車掌さんが謝る。向こうじゃ三十分遅れても誰も気にしないのに。あと漫画の新刊が発売日にちゃんと店頭に並ぶ。イギリスだと輸入待ちで二ヶ月遅れとかザラだったんで。もう最高ですよ」
狩谷の表情が、少しずつ変わっていった。
困惑から、呆れへ。
「……本物のオタクか?」
「オタクって言い方、あんまり好きじゃないですけどね。ファンって言ってほしいです」
「はいはい。もういい、行っていいぞ」
「え、いいんですか?」
「本来なら在留カード不携帯で署まで連れて行くところだ。だが、お前みたいなのは知ってる。大使館の職員にもいるんだよ、日本かぶれが。赴任してきた途端にアキバに通い詰めて、俺より詳しくなる奴。俺が追ってるのは、お前みたいな本物のオタクじゃない。もっと別の――まあいい」
「ありがとうございます」
「次からは在留カードをちゃんと持ち歩け。深夜に出歩くならなおさらだ」
「はい、すみません。気をつけます」
「こんな時間に女の子がひとりでうろついてると、変な奴に絡まれるぞ。俺みたいなのにな」
思わず、小さく笑った。
「気をつけます」
頭を下げた。
背を向けて歩き出す。肩甲骨の間に、視線が突き刺さる感覚。振り返らない。普通に歩く。走らない。
角を曲がった。
狩谷の姿が見えなくなった瞬間、足を速めた。
路地に入る。人目のない場所を探す。
胸の奥がざわついている。時間が近い。心臓が少し速い。
ビルの隙間。路地の奥まで目を走らせる。人影はない。
右手に意識を向けた。指先が淡く光り、鎌の柄が掌に収まる。
壁へ、一振り。
刃が夜気を裂いた。壁面に、赤黒い痕が浮かび上がった。
「R.J」
湿ったコンクリートに、にじむように光っている。この街でも、変わらない。
文字に手を触れた。視界が白く弾ける。
◇
気づくと、異世界の廃屋にいた。
血の匂い。蝋燭の残り香。闇の中に、消えかけた燭台が一本だけ残っている。
膝をついていた。息が荒い。手のひらが床の砂埃に触れている。
危なかった。
入管の人間に声をかけられた。日本でも、気を抜けない。
ルーシェ・ベネット。イギリス・ロンドン出身。
咄嗟に作った設定だ。次からも使えるように、何度か心の中で繰り返す。
立ち上がった。足がふらつく。壁に手をついて、ゆっくり体を起こす。
窓の隙間から、夜明けの光が差し込み始めていた。
帰らなければ。家族が心配する。
廃屋を出た。
冷たい朝の空気が、火照った体を包む。路地の石畳が、昨夜より少し明るく見えた。
歩きながら、考えた。
あの男――狩谷。
「俺が追ってるのは、お前みたいな本物のオタクじゃない」と言った。もっと別の誰かを追っている。
コウメたちのことだろうか?
向こうの世界から送った者たちが、入管に目をつけられている。
考えれば当たり前だ。パスポートも在留カードもない人間が、いきなり日本に現れるのだから。
胸が重くなった。
送らなければ、あいつらは死んでいた。それは間違いない。
でも、日本にも法律がある。ルールがある。身元のない人間は、追われる。
送るだけで精一杯だった。その先のことまで、面倒を見てやれない。自分にできることの端はここにある。その端の先に、何があるのか、まだわからない。
重さが、胸の奥に沈んでいった。
◇
東京。
狩谷は街灯の下で、少女が消えた角を見つめていた。
空振りだ。
煙草を一本取り出したが、咥えずに指の間に挟んだまま考えた。
あの少女は、コウメたちの言う「金髪の天使」ではない。
コウメのグループは「なぜか日本語が話せる」外国人だった。会話はできるが、知識が薄い。日本の地名を聞いても首を傾げる。文化的な話題になると途端に曖昧になる。
だが、あの少女――ルーシェ・ベネットは真逆だ。
知識が深すぎる。本物のオタクだ。何年もかけて日本文化を吸収してきた人間の話し方。あの量は、装えるものじゃない。
コウメたちとは、まったく別の種類の人間だ。
「金髪の天使」は、まだ見つかっていない。
煙草を胸ポケットに戻し、狩谷は踵を返した。
捜査を続けなければならない。
夜の街を歩き出した。
空には、星が見えなかった。




