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第12話「追跡」

 ヴァンは憲兵本部の資料室にいた。


 埃っぽい空気。窓のない部屋。壁一面に棚が並び、羊皮紙の束が詰め込まれている。蝋燭の灯りが揺れるたびに、古い紙の匂いが立ち上った。


 机の上に、一枚の書類を広げている。


 ルーシェ。十六歳。女性。金髪碧眼――


 指が止まった。


 金髪碧眼。その四文字を、視線がなぞる。ほんの一瞬だけ、別の顔が浮かんだ。すぐに打ち消す。今は関係ない。


 旧市街ハイム通り在住。ギフトは召喚――遠方の物を手元に呼び寄せる能力。最近発動。犯罪歴なし。定職なし。貧民街へ行った理由は「姉の手伝い」と尋問で答えていた。


 容疑者リストに載っていた情報は、それだけだった。


 ヴァンは書類を睨んだ。


 姉のセリアは憲兵で、レッドジョン捜査班の一員。妹のイリスは十四歳。両親は五年前に他界し、姉が家計を支えている。月に一度、姉と共に貧民街の炊き出しに参加している。


 普通の少女だ。どこにでもいる、貧しい家の娘。


 だが、ヴィクターは言った。「次に嘘をつけば、焼ける」と。そして最後の質問に、少女は答えられなかった。


 そして、その夜にヴィクターは殺された。


 偶然か?


 傭兵の勘が、否と告げている。首の後ろが、じわりと熱くなる。長年戦場で磨いた感覚だ。この感覚が外れたことは、ない。


 扉が開いた。


 ヴァンは書類の上に腕を置いた。さりげなく、文字を隠す。


 セリアだ。


「何か見つかりましたか?」

「いや。まだだ」


 セリアは部屋に入ってきた。棚の間を歩き、別の資料を探している素振りをしている。足音は落ち着いている。呼吸も乱れていない。だが、視線だけが制御できていなかった。ちらり、とこちらの腕の下に向く。一度ではない。


 ヴァンは立ち上がる。書類を折り畳み、懐にしまう。


「少し外を回ってくる」

「どこへ?」

「貧民街だ。聞き込みをする」


 一瞬の間があった。


「……私も行きましょうか?」

「いや、一人でいい」


 部屋を出る。


 背後で、セリアが何か言いかけた気配がする。言葉になる前に消えた。振り返らなかった。



 ◇



 貧民街は、昼でも薄暗かった。


 建物が密集しすぎて、陽の光が届かない。路地は狭く、曲がりくねり、どこへ続いているのかわからない。腐った木材と泥の匂い。どこかで子供が泣いている。生活の音だけがある。希望の音は、しない。


 ヴァンは歩きながら、住人たちに声をかけた。


「金髪の少女を知らないか? 十六歳くらい。碧い目をしている」


 最初の男は、ヴァンの顔を一瞥して歩き去った。次の女は、聞こえなかったふりをして路地の奥に消えた。三人目は首を横に振ったが、目は合わせなかった。


 ここの住人は、よそ者の質問には答えない。生き延びるために、そう学んできた。


 五人目の老婆が、足を止めた。


「金髪の……炊き出しの子かね?」

「炊き出し?」

「ああ。憲兵の姉ちゃんと一緒に来る子だよ。月に一度、広場でスープを配ってる」

「その子が、夜に出歩いているのを見たことは?」

「夜は……」


 老婆の目が泳いだ。唇が一度閉じる。ヴァンは懐から銅貨を数枚取り出し、無言で差し出した。老婆の視線が、銅貨とヴァンの顔の間をゆっくりと往復する。


「見たことがあるなら、教えてくれ」

「……一度だけ。三月くらい前だったかね。夜中に目が覚めて、外を見たら……あの子が歩いてた」

「どこへ向かっていた?」

「貧民街の奥だよ。廃屋が並んでるあたり」

「一人だったか?」

「ああ。一人だった。でも……なんだか、様子がおかしくてね」

「おかしい?」

「うまく言えないけど……目が、違った。昼間の優しい目じゃなかった。怖くなって、すぐに窓を閉めたよ。それっきり、夜は外を見ないようにしてる」


 老婆は銅貨を懐にしまい込み、足早に去っていく。


 ヴァンは路地に立ち尽くした。


 ――夜中に、貧民街の奥へ。


 ――目が、違った。


 風が吹いた。湿った空気が、路地を抜けていく。ヴァンはゆっくりと、廃屋が並ぶ方角に目を向けた。灰色の建物が、靄の中に溶けている。


 状況証拠が積み上がっていく。だが、まだ足りない。決定的な証拠が必要だ。



 ◇



 夕方の酒場は、煙草の煙と安酒の匂いが混じり合っていた。


 ヴァンはカウンターの隅に座り、杯を傾けながら今日集めた情報を頭の中で並べていく。


 金髪の少女。夜中に貧民街を歩いていた。目が違う。尋問での反応。嘘をつき続け、最後の質問に沈黙した。ヴィクターの死。尋問の翌日。レッドジョンの手口。内通者。情報筒抜け。


 一つひとつは薄い。だが、並べると、輪郭が浮かんでくる。


 まだ線ではない。ただ、霧が晴れ始めている。それでも止まれない。止まり方を、あの夜から忘れた。


 酒場の扉が軋った。重い足音が近づいてくる。


 隣に、誰かが座った。


 ガルシア大佐だった。


「飲んでいるか?」

「ああ」

「ヴィクターの件、聞いたか?」

「現場を見た」

「そうか。王都から、新しい尋問官が来る。一週間後だ」

「また殺されるかもしれんな」

「ああ」

「レッドジョンに近づく者は、消される。もう何人目だ?」

「お前も気をつけろ。単独行動は控えろと言っただろう」

「わかっている」


 わかっている。だが、組織で動けば情報が漏れる。内通者がいる以上、単独の方が安全な場合もある。


 二人で黙って酒を飲んだ。


 大佐が、ゆっくりと杯を置く。


 懐から折り畳んだ紙を取り出した。カウンターの上に、静かに置く。


「……これは?」

「マルコが死に際に作ったものだ。憲兵に潜む鼠の候補リストだ。三分の一まで絞り込んである」

「……どうして俺に?」

「調べたと言っただろう。お前のことを」

「……何を調べた?」

「奥さんと娘さんは……残念だった」


 杯を握る手に、力が入った。


「……それを、俺に言うか!」

「許せ。組む前に身辺を洗うのは当然の手順だ。私情は挟めん。だが――家族を殺された者にしかわからないものもある」


 沈黙が落ちた。酒場の喧騒が、遠くなる。


「そのリストの中に、私が長年信頼してきた憲兵が何人もいた。身辺調査を終えた者でさえ、だ。だから組織内では動けん。組織の外にいるお前にしか、渡せなかった」

「……借りができたな」

「あとはお前の力量に任せる」


 ヴァンはリストを手に取った。広げる。名前が連なっている。


 鼠の候補。三分の一。憲兵の中に必ず一人いる。


 ――このリストを使えば、動かせる。レッドジョンの護衛ごと、別の場所へ。

 ――護衛が消えた夜に、独りで動く。


 ――これで、釣れる。


「一つ頼みがある」

「言え」

「このリストの者どもを、ダミーの場所へ動かしてほしい。理由は聞くな」


 大佐はしばらくヴァンを見ていた。


「……いつだ」

「三日後の夜」

「わかった」


 大佐は立ち上がり、杯を一気に干した。足音が遠ざかっていく。


 ヴァンは一人になったカウンターで、リストを見つめた。


 折り畳んで、懐にしまう。


 安酒を飲み干した。苦い。

 窓の外では、雨が本降りになっていた。



 ◇



 ルーシェは自宅の椅子に座ったまま、動けずにいた。


 昨日の尋問から、一日が経っていた。体は無事だ。なのに、胃の奥に石が詰まっているような感覚が抜けない。あの部屋の冷たさが、まだ皮膚に残っている気がした。


 窓の外を見た。曇り空。灰色の雲が低く垂れ込めている。


 最後の質問が、頭の中で繰り返される。


「レッドジョンについて、何か知っているか?」


 あの瞬間、扉が叩かれなければ――どうなっていたか?


 嘘をつけば、舌が焼かれる。本当のことを言えば、捕まる。


 どちらも選べなかった。


 ヴィクターは言った。「後日、再開する」と。あの男が戻ってきたら、今度こそ逃げられない。


 次は何を聞かれる? どう答える?


 答えなんか、あるはずがない。


 玄関の扉が開いた。イリスの声がした。


「ただいま」

「おかえり」


 イリスが足を止めた。


「……顔色悪い」

「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」

「嘘」

「嘘じゃないって」

「嘘。目が泳いでる」

「……本当に大丈夫だから」


 イリスは何も言わず、台所に向かった。籠を置く音がする。しばらくして、戻ってきた。手に湯気の立つカップを持っている。


「……飲んで」

「え?」

「ハーブティー。気持ちが落ち着く」

「……ありがとう」

「別に。セリア姉様が帰ってくるまで、寝てなさい」


 足音が階段を上がっていく。


 カップを両手で包んだ。温かさが、指先から染み込んでくる。


 ――こんな温かさを、いつまで受け取っていられるんだろう。


 尋問が再開されたら、今度こそ終わりだ。ヴィクターが戻ってきたら、今度こそ逃げられない。


 カップに口をつけた。ハーブの香りが鼻を抜ける。

 

 窓の外では、雨が降っていた。



 ◇



 夜。


 雨は止んでいた。


 ルーシェは窓から外を見ていた。雲が切れて、月が顔を出している。


 セリアはまだ帰ってこない。仕事が長引いているのだろう。イリスは自分の部屋にいる。夕食は二人で済ませた。セリアの分は温め直せるようにしてある。


 静かな夜だ。だが、心は静かではない。


 ――逃げるべきか?


 その考えが、昨日から何度も頭をよぎっている。この街を出れば、尋問からは逃れられる。ヴィクターの目が届かない場所まで行けばよい。


 でも、それはセリアとイリスを捨てるということだ。


 毎日帰りを待ってくれるセリアを。何も言わずにお茶を淹れてくれるイリスを。


 ――逃げない。


 そう決めたはずなのに、先の見えない不安が胸の奥に居座り続けている。


 ふと、息が止まった。


 窓の外。向かいの建物の屋根。


 誰かがいる!?


 目を凝らした。月明かりに照らされた屋根瓦。煙突の影。風が雲を動かす。月が陰り、また明るくなる。


 誰もいない。


 気のせいか。


 カーテンを引いた。両手に、わずかに汗が滲んでいた。



 ◇



 同じ頃。


 向かいの建物の屋根から、影が消えた。


 音もなく。気配もなく。


 月だけが、その場所を照らし続けていた。

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