第11話「尋問」
廊下は長かった。
石造りの壁。冷たい空気。蝋燭の灯りが等間隔に揺れている。
尋問を受ける日が来た。
ルーシェは木製のベンチに座っていた。両隣にも、向かいにも、容疑者たちが並んでいる。誰も喋らない。誰も目を合わせない。
ただ、待っている。
自分の番が来るのを。
――百二十人。
今朝、セリアから聞いた数字だ。レッドジョン捜査の容疑者リスト。その中に、自分の名前がある。
なぜ、俺が?
何度も考えた。心当たりを探した。
グレイ街区への出入り。深夜に一人で歩いていたこと。あるいは——見逃した誰かが、何かを見ていたのか。未練があると言った者を、俺は送らなかった。その中の誰かが、口を滑らせたのか。それとも、ただセリアの身内だから形式上入っただけなのか。
わからない。わからないまま、今日が来た。
「大丈夫よ。形式的なものだから」
セリアはそう言って微笑んだ。
違う。形式的なものではない。それは俺がよく知っている。
俺が、レッドジョンだからだ。
正確には、俺は誰も殺していない。日本に送っているだけだ。でも、この世界の人間にとっては同じことだ。首が斬られた死体。血文字。それだけが、彼らの見ている現実だ。
「あなたのギフトは召喚でしょ。戦闘向きじゃない。レッドジョンとは程遠いわ」
俺のギフトが召喚だけとわかってから、セリアの表情は明らかに柔らかくなっている。
セリアは廊下の端に立ち、こちらに小さく頷いた。
身内が容疑者リストに入っている場合、担当の憲兵は尋問に同席できない。セリアは廊下で待つしかないのだ。
――バレたら、終わりだ。なんとかしないと。
尋問室の扉が開いた。
中から男が出てきた。日雇い労働者という風体だ。表情は落ち着いている。何事もなかったという顔。
憲兵に促されて、廊下の向こうへ消えていく。その背中には、緊張の名残すらなかった。
隣に座っていた老婆が、小さく息を吐いた。
「……なんや、普通に終わるんやな」
誰にともなく呟いている。
次の名前が呼ばれた。
若い女が立ち上がる。足取りは重いが、顔色は悪くない。尋問室に入っていく。
扉が閉まった。
数分後、扉が開く。
女は普通の顔で出てきた。少し疲れた様子だが、それだけだ。隣の席にいた知人らしき男に、小さく頷いてみせた。
「大丈夫だった」
囁く声が聞こえた。廊下の空気が、わずかに緩んだ。
次。中年の職人。無事。
次。若い男。少し顔が青いが、歩いて出てきた。
――みんな、普通に終わってる。
ルーシェは自分の手を見た。震えている。握りしめても、止まらない。
――落ち着け。大丈夫かもしれない。
その時だった。
「やめろ……やめてくれ……!」
悲鳴が響いた。
尋問室の中からだ。分厚い扉越しでも、はっきり聞こえる。
廊下の空気が凍りついた。
容疑者たちが顔を見合わせる。さっきまでの安堵が、一瞬で消える。
扉が開いた。
太った商人が転がり出てきた。顔面蒼白。口を両手で押さえている。指の隙間から、くぐもった呻き声が漏れている。
口の中が、焼けているのだ。
憲兵に引きずられていく。
廊下に、沈黙が落ちた。
さっきまで「大丈夫だった」と囁き合っていた者たちが、顔を見合わせている。
尋問室の扉は開いたままだ。中から、冷たい声が響いてきた。
「言い忘れていた。私のギフトは、嘘を検知する。嘘をつけば――舌が焼けるぞ」
廊下がざわめいた。
隣に座っていた老婆が、小さく身を縮めた。向かいの若い男は、顔面蒼白で膝を震わせている。
――嘘をつけば、舌が焼ける!?
ルーシェは拳を握りしめた。手のひらに爪が食い込んだが、痛みは感じなかった。
――嘘はつけない。でも、全部本当のことを言うわけにもいかない。
次の容疑者が呼ばれた。老婆だ。足を震わせながら、尋問室に入っていく。
数分後、出てきた。顔色は悪いが、口を押さえてはいない。憲兵に支えられながら、ゆっくりと歩いていく。
次。若い男。無事。
次。中年の女。無事。少し泣いた跡があるが、自分の足で歩いている。
次。
また悲鳴。
若い女が転がり出てきた。口を押さえて、床に崩れ落ちている。指の間から煙が立ち上っているように見えた。気のせいかもしれない。でも、その顔は本物の痛みに歪んでいた。
――二人目だ。
ルーシェは目を閉じた。
心臓が沸き立つ。耳の奥で、血流の音がする。
嘘はつけない。では、どう答える?
◇
時間が過ぎていく。
午前中だけで、二人が取り乱した。残りの十数人は、多少顔色が悪くなる程度で済んでいる。
昼休みを挟んで、午後も続いた。
――逆に怖い。
ほとんどの人間が、何事もなく帰っていく。取り乱したのは、あの二人だけだ。
俺は、どっちだ?
ルーシェの番が、近づいてくる。
窓のない廊下では、時間の感覚が曖昧になる。蝋燭の灯りだけが、ちろちろと揺れている。時間を刻むものが何もない。ただ、扉が開くたびに、番が一つ近づく。
隣の席が空いた。向かいの席も空く。気づけば、周りには数人しか残っていない。
手が震えている。止められない。膝も震えている。歯の根が合わない。
扉が開いた。
憲兵が顔を出す。
「次。ハイム通りのルーシェ」
息が止まった。
立ち上がる。足がふらつく。石床の冷たさだけが、足裏からはっきり伝わってくる。
廊下の奥に、セリアの姿が見えた。こちらを見ている。
「大丈夫よ」
唇が動いた。声は聞こえない。でも、わかる。
ルーシェは小さく頷いた。セリアの目から、視線を離せなかった。数歩歩いて、ようやく前を向いた。
尋問室に入った。
◇
窓のない石造りの部屋。
蝋燭の灯りが壁を揺らしている。中央に木の机と椅子。外の廊下より、さらに空気が冷たかった。
机の向こうに、男が座っていた。
三十代半ば。痩せた顔に鋭い目。表情がほとんどない。
これが、ヴィクター。
王都から派遣された尋問官。嘘を検知するギフトの持ち主。
部屋の隅に、もう一人いた。
壁にもたれて立っている男。四十代くらい。無表情。腕を組んで、目を閉じている。何をしているのかわからない。ただ、その存在感だけが、妙に重かった。
誰だ? 見たことがない。でも、今はそれどころじゃない。
椅子に座った。
「名前は?」
「……ルーシェです」
「年齢は?」
「十六です」
「職業は?」
「……居酒屋の手伝いをしています」
「深夜に一人で外出することはあるか?」
「……仕事が遅くなった時は、深夜になることもあります」
「仕事だけか?」
「……はい」
しまった。反射的に、嘘をついた。
舌が——温かくなった。じわりと。それだけである。
――焼かれない。この程度か。大丈夫かもしれない。
「グレイ街区に行ったことはあるか?」
「……あります」
「何をしに?」
「姉の手伝いで、炊き出しに」
これは本当だ。何も舌には感じない。
「レッドジョンの犯行現場の近くにいたという目撃情報がある。心当たりは?」
「……ありません」
嘘だ。また少し舌が温かくなった。
――全然平気だ。これくらいなら余裕で耐えられる。
「レッドジョンの関係者を知っているか?」
「知りません」
また嘘だ。舌が温かくなった。でも、まだ余裕がある。
ヴィクターが身を乗り出した。
「……お前は子供だから、俺のギフトの特性を教えてやる。今、舌が温かいだろう? あれは序盤だ。嘘をつくたびに熱が積み重なる。そして上限を超えた瞬間――廊下で見た連中のようになる。今のお前は、もうあと一つか二つしか嘘をつけない」
血の気が引いた。
――そういうことか。
廊下で見た二人の顔が蘇る。口を押さえて転がり出てきた商人。床に崩れ落ちた女。あの二人は嘘をつきすぎたのだ。俺と同じように、この程度かと思いながら。
ヴィクターが、ゆっくりと口を開いた。
「最後の質問だ」
ヴィクターが、ペンを置いた。
「レッドジョンについて、何か知っているか?」
胸の奥が凍りついた。
――何か知っているか。
知っている。全部知っている。俺がやったことだから。
「知らない」と答えたら、舌が焼かれる。
「知っている」と答えたら、何を知っているか聞かれる。
どちらも、答えられない。
沈黙が長くなる。
ヴィクターの目が、じっとこちらを見ている。
――どうする? どうすればいい?
その時だった。
扉が叩かれる。
ヴィクターの眉が動く。
「入れ」
「ヴィクター様、王都から緊急の連絡です。至急お戻りいただきたいと」
「……今、か?」
「はい。伝書鳩で。詳細は不明ですが、至急と」
長い沈黙。
やがて、舌打ちする。
「……この尋問は中断だ。後日、再開する。それまで、この街を出るな。必ず、続きをやる」
壁際の男も、ヴィクターに続いて部屋を出ていく。歩き際に一度だけこちらを見た。表情は変わらなかった。
残されたのは、ルーシェだけだ。
しばらく動けなかった。椅子に座ったまま、蝋燭の炎を見ていた。揺れている。自分の息で揺れているのかもしれなかった。
憲兵が顔を出す。
「解放だ。帰っていい」
足が震えている。膝に力が入らない。
尋問室を出る。
廊下に、セリアがいた。
「ルーシェ!」
駆け寄ってくる。抱きしめられる。
温かい。セリアの匂い。花の香り。
「よかった……大丈夫だった?」
「……うん」
大丈夫じゃない。最後の質問に、答えられなかった。
中断されなければ、どうなっていたか?
あの男には、何が見えていたのか?
わからない。でも、セリアの腕の中で、少しだけ震えが収まった。
「帰りましょう。イリスが待ってる」
「……うん」
二人で廊下を歩き始めた。廊下にはまだ数人の容疑者が残っている。
セリアが、通りがかった憲兵に声をかけた。
「尋問結果の報告はいつになる?」
「ヴィクター様が王都からの緊急連絡で、そのまま宿にお戻りになりました。結果の共有は明日以降かと」
「……そう」
セリアの表情が少し曇った。それでも何も言わず、ルーシェの隣を歩き続ける。
――ん?
廊下の角を曲がる時、背中に視線を感じる。
足が止まる。
振り返った。
廊下の向こうに、男が立っている。尋問室の壁際にいた、あの無表情の男だ。さっきまで目を閉じていたはずなのに、今はこちらを見ている。
目が合った。
無表情。何も読み取れない顔。なのに、全身の毛が逆立った。
理由はわからない。ただ、あの目が怖い。見られているのではなく、読まれているような感覚。
背筋を、氷の指が這い上がってくる。
セリアに腕を引かれる。
「ルーシェ?」
セリアの声が、遠くから聞こえた。
歩き出す。振り返れなかった。
◇
翌日。
ヴァンは宿屋の前に立っていた。
憲兵たちが出入りしている。野次馬が遠巻きに見ている。朝靄がまだ残る通りに、ざわめきだけが広がっていた。ざわめきの向こうに、何があるかは想像がついた。
中に入る。
階段を上がる。一段ごとに、血の匂いが濃くなっていく。
二階。突き当たりの部屋。
扉は開いていた。
中に入る。
足を止めた。
ヴィクターが床に倒れていた。
首がない。
切断面は滑らかだった。一撃で落とされている。迷いも、躊躇いもない。慣れた手つきだ。ヴィクターの顔は、どこかに転がっているはずだが、見つけようとは思わなかった。
壁に目を向けた。
血文字。
「R.J」
ヴァンは拳を握りしめた。
廊下が騒がしい。憲兵が何人か、小声で話し込んでいる。
「マルコが死んでいたそうだ。今朝、自宅で」
「首が……?」
「ああ。同じだ」
レッドジョンに近づく者は、こうなる。
窓辺に歩み寄った。曇り空。灰色の街並み。どこかで犬が吠えている。景色を見ているのではなかった。頭の中を整理していた。
昨日の尋問が蘇る。
金髪の少女。そして、最後の質問。
「レッドジョンについて、何か知っているか?」
あの質問に、少女は答えられなかった。
長い沈黙。額に浮かぶ汗。泳ぐ視線。
そして、ヴィクターは言った。
「次に嘘をつけば、舌が焼かれる」
少女は黙っていた。潔白なら、知らないと言えるはずだ。
そこで、尋問が中断された。
あの夜のことが、頭をよぎる。
廃屋の前。矢を放った瞬間に、壁が崩れた。人影は何も気づかずに立ち去った。
あの時の人影と、昨日の少女。
傭兵の勘が囁いている。獲物の匂いがする。
レッドジョン本人か? 少なくとも、関係者か?
いずれにせよ――あの少女を、誰かが守っている。尋問が中断されたのも、偶然ではない。ヴィクターやマルコを殺してまで。
――必ず、尻尾を掴む。
ヴァンは振り返った。
床に転がる首のない死体を、もう一度見る。これだけのことをしてまで守る存在。それが、あの少女だ。
部屋を出た。




