第10話「束の間」
ファーストフード店のドアを押した。
冷房の風。明るい照明。カウンターの向こうにメニューが並んでいる。
――ああ、文明。
ルーシェは深呼吸した。この空気。この匂い。何度来ても感動する。異世界の空気はいつも埃っぽいか薪の匂いがするかのどちらかだ。この人工的な冷たさが、たまらなく好きだった。
今日の滞在時間は五時間ある。
三百人。半年かけて、ようやく上限が五時間になった。今日は思う存分楽しむ。
まずは腹ごしらえだ。
カウンターでハンバーガーセットを注文した。ポテトはLサイズ。ドリンクはコーラ。トレーを持って席につく。窓際の二人がけ。日差しが差し込んで、テーブルが温かい。
――ん?
視線を感じる。
「ねえ、あの子めっちゃ可愛くない?」
「外国人? モデルかな?」
隣のテーブルの女子高生が声を潜めているつもりで全部聞こえている。
――やめろ。中身は三十二歳のおっさんだ。
後ろの席からも聞こえてくる。
「俺、声かけてこうかな?」
「やめとけって」
「いや、いける」
――いけねえよ。
包みを開けた。
肉の匂い。チーズの匂い。ケチャップとマスタードが混ざり合う、あの香り。
一口かぶりついた。
肉汁が口の中に広がる。パンのふわふわした食感。野菜のシャキシャキ。ソースの甘さと酸味。
「……っ」
涙が出そうになった。
この味だ。この味が食べたかった。
異世界の飯は不味くはない。でも、こういうジャンクな味がないのだ。塩と香辛料だけの素朴な味付け。それはそれで悪くないが、たまには背徳的な味が欲しくなる。
ポテトを頬張る。塩気と油。最高だ。
コーラを流し込む。炭酸が喉を刺す。げっぷが出そうになって慌てて口を押さえた。
――危ない。美少女がげっぷとか、絵面が最悪だ。
中身は三十二歳のおっさんなのに、こういうところは気を使ってしまう。四年も経つと、この体に馴染んでくる。嫌な話だ。
十五分でセットを平らげた。腹が膨れる。
幸せだ。
ポテトの残りをつまんでいると、声がかかった。
「ねえ君、一人? よかったら一緒に食べない?」
顔を上げた。大学生くらいの男が二人。チャラついた髪に、自信だけは満々の顔。
無視してポテトを口に放り込んだ。
「あれ、日本語わかんない? 外国の人?」
「めっちゃ可愛いんだけど。モデルさん?」
「ねえ、LINE教えてよ」
一人が向かいの椅子を引いて座り、もう一人がトレーを押しのけて隣に滑り込んでくる。挟まれた。退路がない。
隣の男が、馴れ馴れしく手首を掴んできた。振り払おうとした拍子に、ポテトの袋が倒れる。数本がトレーから転がり落ちた。
――限られた時間で、限られた金で買ったポテトだぞ。
――鎌を出して脅してやろうか? いや、銃刀法違反だ。
じゃあ素手で……ちゃらちゃらした大学生だ、油断しきっている。一発くらいかませそうだが、少女が男二人をぶちのめしたら大騒ぎだ。警察が来る。貴重な時間が潰れる。
――どうしよう?
「彼女、困ってるみたいだけど」
低い声。振り向くと、背の高い男が立っていた。端正な顔。仕立てのいいスーツ。静かにこちらを見ている。
「は? 関係ないだろ」
隣の男が立ち上がろうとした。その肩を、スーツの男が掴んだ。穏やかな笑顔のまま。
ぎり、と音がした。
「……っ」
大学生の顔が歪んだ。よほど痛いのだろう、立ち上がれそうにない。
「嫌がってる相手の腕を掴むのは、よくないと思うよ」
そう言って、スーツの男が手を離した。大学生は肩を押さえて後ずさる。
二人は目を合わせた。何か言いたげだったが、スーツの男が一歩踏み出すと、舌打ちして去っていった。
「Are you okay? Do you need any help?」
ナンパ男たちを追い払った後、スーツの男がこちらに向き直った。爽やかな笑顔。流暢な英語で、こちらを気遣う声が柔らかい。
――イケメン、リア充、全てを煮詰めたような男だ。神は二物を与えるのか。
ルーシェが黙っていると、男は少し首を傾げた。
「Pardon, tu parles français?」
――英語で反応しなかったからフランス語か。うろ覚えだが、たぶんそうだ。
答えずにいると、男は諦めない。
「¿Hablas español?」
――次のはさっぱりだ。何語だ? このまま黙ってたら何ヶ国語出てくるんだ。
あまり人と関わりたくはない。でも、助けてもらったのは事実だ。
――中身はおっさんだが、淑女として答えてやろう。
「あの。日本語、わかります。ありがとうございました」
「……えっ。日本語、上手ですね!」
――三十二年喋ってたからな。
「以前からお見かけしていたんですが……一人で大丈夫ですか? よければ駅までお送りしますよ」
――おっさんにエスコートは要らない。これ以上、俺の貴重な時間を削るな。
「大丈夫です。本当にありがとうございました」
「そうですか。……あ、自己紹介がまだでしたね。僕は藤堂雅人といいます。よければお名前を」
――個人情報はさらしたくない。だけど、助けてもらった義理がある。名前くらいは答えるか。
「……ルーシェです」
「ルーシェさん。素敵な名前ですね」
藤堂はふと、ルーシェの手首に目を落とした。さっき掴まれた方だ。
「赤くなってますね。大丈夫ですか?」
藤堂はそっと手を取って確認する。指先が丁寧で、紳士的だ。だが、男に触られて喜ぶ趣味はない。
「……大丈夫です」
慌てて手を引いた。
「またお見かけしたら、声かけますね」
藤堂は爽やかに笑って、軽く会釈すると、自動ドアをくぐっていった。しつこくなく引き際まで完璧である。
手を取った動作も、嫌味のない自然な仕草だった。前世の俺が同じことをしたら確実に事案だっただろう。イケメンという生き物は、同じ動作をしても事案にならない。実に不公平だ。
これだからイケメンは――爆発しろ。
気分が悪い。せっかくのハンバーガーが台無しだ。
――気分転換しよう。こういう時は漫画に限る。
◇
次に向かったのは、漫画喫茶だった。
「三時間パックで」
受付を済ませ、個室に入る。
壁一面の漫画。パソコン。リクライニングチェア。ドリンクバー。
天国だ。ここは天国だ。
ルーシェは棚の前に立ち、背表紙を眺めた。ここに来るたびに、少しだけ報われた気がする。
前世で読んでいた漫画の続きがある。四年分。積み上がっている。
手に取ったのは、異世界転生ものだった。
主人公がトラックに轢かれて、チート能力を貰って、美少女に囲まれて無双する話。前世では三十巻まで読んでいた。今は五十巻を超えている。
読み始めた。
ページをめくる手が止まらない。
――チートすぎるだろ。俺の方がハードモードだわ。
心の中でツッコミを入れながら、どんどん読み進める。主人公が苦もなく敵を倒すたびに、なんとも言えない気持ちになった。
三十一巻。三十二巻。三十三巻。
気づけば二時間が経っていた。
――やばい。全然進んでない。
まだ二十巻近く残っている。今日中には絶対無理だ。
名残惜しいが、切り上げることにした。続きはまた今度だ。棚に戻す時、少しだけ手が惜しんだ。
◇
漫画喫茶を出て、電車に乗った。
目的地は病院だ。
こちらへ送った人たちがどうしているか、気になっていた。
転移者たちが運ばれる病院がある。コウメがギフトで医師や職員を操り、身元不明の患者でも受け入れるようにしている。場所はコウメから聞いていた。時間もある。寄ってみることにした。
病院に着く。
受付で転移者の病室を聞くと、職員は何の疑問も挟まず病室番号を教えてくれた。患者の容態まで丁寧に説明してくれる。
――身内でもない赤の他人に、だ。しかもこっちは身元不詳のおまけつき。個人情報保護なんてあったもんじゃない。
コウメさん、怖いぞ。
エレベーターで上がり、廊下を歩く。
いくつかの病室を回った。顔を見せるだけで、泣き出す人もいた。手を握って離さない人もいた。みんな、元気になっていた。向こうの世界で朽ちかけていた顔が、ここでは血の色を取り戻している。その変化がルーシェには何より応えた。
最後の病室の前で、足が止まった。
――この感覚。
ギフトの気配。まだ目覚めていない。でも、芽吹きかけている。扉の向こうから、かすかに。
ドアをノックした。
「どうぞ」
中に入ると、ベッドが二つあった。
一つには女性が横たわっている。栗色の髪。痩せているが、顔立ちは整っている。三十代くらいか。
もう一つには少女がいた。十歳くらい。女性と同じ栗色の髪。目を閉じて眠っている。その頬に、かすかな赤みがある。
――この子だ。ギフトの気配は、この子から出ている。
女性がこちらを見た。目が見開かれる。
「あなたは……」
「寝てていい。無理しないで」
「あの時のこと、覚えています。あなたが鎌を持って現れて……『おやすみ』って」
「……うん」
「怖かった。でも、痛くなかった。気づいたら、ここにいた。娘が重い病気で。お金もなくて。もう駄目だと思ってた。でも、ここでは治るって。お医者さんが言ってくれた」
女性の目から涙がこぼれた。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
「お礼を言われることじゃない。私は……私のためにやってるだけだ。コウメさんから事情は聞いてるでしょ?」
「それでも、あなたは私たちの天使です」
胸が詰まった。
この人を斬った時のことを覚えている。廃屋の中。小さな娘を抱きしめて、震えていた。
「娘さんは?」
「さっきまで起きてたんですけど、薬で眠っちゃって」
「よく眠れてるみたいだね」
「はい。この国に来てから、ぐっすり眠れるようになったって。向こうでは、夜中に何度も咳き込んで。私も眠れなくて」
今は違う。二人とも、穏やかな顔をしている。向こうで見た顔とは別人のようだ。
ルーシェは立ち上がった。
「また来る」
「はい。待ってます」
ルーシェが背を向けかけた時、女性が声を上げた。
「ルーシェさん……私はミラです。娘はエリ。覚えておいてください」
ミラはルーシェをじっと見た。
「ルーシェさん……エリに、少し似てるかもしれない。大きくなったら、エリもこんな風になるのかなって。……なんか、親近感わいちゃった」
――悪くない気分だった。
――ミラ。エリ。
胸の奥に、その名前を刻んだ。扉を閉める前に、もう一度だけ二人を見た。
◇
病院を出ると、まだ二時間近く残っていた。
コンビニに寄った。
今度は食べ物じゃない。お土産だ。
棚を眺める。何がいいだろう?
目に留まったのは、ポテトチップスだった。
うすしお。コンソメ。のり塩。
――そういえば、最近気づいたんだ。
ギフトがレベルアップしていた。使い続けることで、少しずつ成長しているらしい。
新しく得た能力は、片手で持てる程度の物を持ち運びできること。日本から異世界へ、異世界から日本へ。
――これなら、ギフトとして見せられる。
今まで、本当のギフトは口にできなかった。【天国への扉】の詳細を他者に知られれば、能力が消滅する。だから「まだ目覚めてない」と言い続けるしかなかった。
十六歳でギフトなし。遅い方だ。露骨に何か言われるわけではないが、同年代からの視線が少し痛い。二十歳を過ぎれば貧民街行きが決まる。まだ猶予はある。でも、そろそろ何か言い訳が必要になりそうだった。
まだ試したことはない。今日、初めて試してみよう。
三種類とも買った。
レジで会計を済ませ、袋を受け取る。
――イリス、どれが好きかな?
あいつは何でも「普通」とか「別に」とか言いそうだ。でも、きっと全部食べる。
――セリアにも。最近元気ないし、少しは気分転換になるかもしれない。
ここ数日のセリアの様子が頭をよぎった。食欲が落ちている。笑顔がぎこちない。ポテチごときで解決するような話じゃないかもしれないが、何もしないよりはましだろう。
ふと、時計を見た。
そろそろ帰らないと。
人気のない路地に入った。左右を確認する。誰もいない。
右手に意識を集中した。淡い光とともに、鎌が現れる。
壁に向かって、一閃。
壁に、赤黒い文字が滲み出た。
「R.J」
コンクリートの上でぬらりと光っている。日本でも、この文字だけは変わらない。石畳でも、コンクリートでも、血が描く文字は同じだった。
ルーシェは文字に手を触れた。
視界が白く弾ける。
◇
異世界の廃屋に戻っていた。
手を見た。
ポテチの袋を握っている。
――成功だ。
鎌を消した。廃屋を出て、家へ向かう。
夜だった。星が出ている。月が細い。石畳を踏むたびに、さっきまでいた世界の感触が遠くなっていく。
家の前に着いた。窓から明かりが漏れている。
玄関を開けた。
「ただいま」
イリスが腕を組んで立っている。
「遅い」
「ごめんごめん」
奥のテーブルに、セリアがいた。
こちらを見ている。目の下に隈がある。顔色が悪い。
――ここ数日、セリアの様子がおかしい。
仕事が忙しいだけなのか、それとも何か別の理由があるのか?
「姉さん、大丈夫? 最近ずっと顔色悪いよ」
「え? ああ……ちょっと仕事が立て込んでて」
「……そう」
追及しても答えてくれないだろう。セリアは昔からそうだ。弱みを見せない人だ。
――気分転換になればいい。ポテチ、喜んでくれるかな?
代わりに、袋を持ち上げた。
「これ、お土産」
「お土産?」
イリスが近づいてきた。セリアも立ち上がる。
袋からポテトチップスを取り出した。三袋。
「何これ?」
「食べ物だよ。開けてみ」
袋を渡す。イリスは裏返したり振ったりしている。開け方がわからないらしい。
「ここを引っ張って」
教えてやると、恐る恐る引いた。ぱさっ、と袋が開く。
中を覗き込む。黄色い薄い破片が詰まっている。
「……これ、食べられるの?」
「食べられる」
イリスは一枚つまんで、口に入れた。
ぱりっ。
イリスの目が見開かれた。
「……おいしい」
「だろ」
「何これ? すごく塩辛い。でも止まらない」
イリスがぱりぱりと次々に口に運んでいく。
セリアも一枚手に取った。
「本当だ……おいしい。でも、見たことない。これ、どこで?」
来た。
ルーシェは肩をすくめる。
「私のギフト。最近、目覚めたんだ」
セリアの手が止まった。
「ギフトが……目覚めた?」
「うん。物を召喚できる。遠くにある物を、手元に呼び寄せることしかできないけど」
セリアが身を乗り出した。目が真剣だ。
「……本当に、それだけ?」
「え?」
セリアの声が低い。食卓の空気が変わった。
「他に能力はないの? 召喚だけ?」
「それだけだよ。離れた場所にある物を呼び寄せるだけ」
セリアの肩から、目に見えて力が抜けた。
強張っていた表情が緩む。目尻が下がる。口元に、小さな笑みが浮かんだ。
ここ数日ずっと張り詰めていた顔が、初めて本物の表情をした。そう見えた。
「……よかった」
セリアの目が潤んでいた。
「おめでとう、ルーシェ」
「ありがとう、姉さん」
なぜそんなに安堵しているのかは、わからなかった。でも、その顔を見て、ルーシェも少し肩の力が抜けた。
イリスはそんな二人には目もくれず、ポテチを頬張っている。
「それより、これ美味しい。もっとないの?」
「あと二袋ある」
言い終わる前に、イリスが袋に手を突っ込んでいた。
「あ、こら。一人で食べるな」
「早い者勝ち」
「イリス!」
セリアが呆れた顔で笑う。
三人でポテトチップスを分け合った。
気づくと、セリアは途中からフォークを持ち出していた。一枚ずつ丁寧に刺して食べている。
――箸でポテチ食べる人と同じ匂いがする。真面目な人間はどの世界でも真面目だ。
◇
夜。
ルーシェは自分の部屋で、天井を見上げていた。
今日は充実していた。
ハンバーガー。漫画。ミラとエリ。そしてポテチ。
日本は最高だ。やっぱり最高だ。
目を閉じた。
ミラの顔が浮かんだ。涙を流しながら「ありがとう」と言っていた。エリの穏やかな寝顔。
――あの二人も、元気になるといいな。
送った者たちが、幸せに暮らしている。
それだけで、十分だった。
――よし。また頑張ろう。
もっと送れば、滞在時間も伸びる。次はもっと長くいられる。
今度は何をしようか? 前世で積んでいたゲームを消化するのもいい。温泉旅行もいつかしてみたい。
夢が広がる。
ルーシェは微笑んで、眠りにつこうとした。
突然、扉がノックされる。
「ルーシェ、起きてる? ちょっといい?」
セリアだった。こんな時間に、何だろう?
「明日、朝の十時に憲兵所に来てもらえる? レッドジョン捜査の聞き取りで」
「……ど、どうして私が?」
「ふふ、心配しないで。捜査の過程で名前が上がっただけよ。疑ってるわけじゃないの。形式的なものだから、すぐ終わるわ」
セリアの足音が、遠ざかっていく。
「……え?」
胸の奥で、何かが冷たくなった。




