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第9話「容疑者リスト」

 数日後。


 ヴァンは憲兵本部の前に立っていた。石造りの建物が曇り空に溶け込んでいる。灰色の壁が湿気を帯びて鈍く光っていた。


 正面には王国の紋章。両脇に衛兵。槍の穂先だけが、靄の中でかすかに光を返している。


 出入りする憲兵たちが、怪訝そうな目でこちらを見ていく。


 ヴァンは懐に手を入れた。ロケットの冷たさを指先で確かめる。妻の髪。娘の髪。まだ、ここにある。これだけは、いつでも確かめられる。それだけでいい。


 手を離した。


 門をくぐる。


 受付のカウンターに近づく。若い憲兵が顔を上げた。ヴァンは折り畳んだ紙を一枚、カウンターの上に置く。


 若い憲兵が手を伸ばす。一瞬ためらってから、紙を開いた。


 視線が止まる。


 憲兵の表情が変わっていく。読み進めるほど、眉間の皺が深くなっていく。唇が引き結ばれる。喉仏が上下した。一度だけ、ヴァンを見上げた。何かを確かめるような目だった。


「……確認する」


 紙を丁寧に折り直し、胸ポケットにしまう。憲兵は何も言わず、奥へ消えた。



 長椅子に腰を下ろす。


 廊下を憲兵たちが行き交っている。軍靴が石床を叩く音。書類を束ねる音。どこかで印章が押される音。


 壁の時計が秒針を刻んでいる。


 ヴァンは膝の上に手を置いたまま、動かなかった。待つことには慣れている。焦っても何も変わらない。それは長い年月が教えてくれたことだ。



 十分が過ぎる。



 廊下の奥で、足音が変わった。複数ではない。一人。だが、重い。一歩ごとに近づいてくる。


 角を曲がって現れたのは、白髪交じりの男だった。五十代半ば。深い皺が顔に刻まれている。鋭い目。憲兵の制服だが、階級章が違う。


 大佐だ。


 周囲の憲兵たちが、一斉に背筋を伸ばした。


 男はヴァンの前で足を止めた。手には、あの紙が握られている。皺が寄っている。何度も読み返したのだろう。ヴァンの目を、まっすぐに見た。


「書いたのは、お前か?」

「ああ」

「来い」


 それだけ言って、背を向けた。



 ◇



 執務室は質素だった。


 机と椅子。書類棚。壁には地図と手配書。窓から差し込む光が弱い。年季の入った部屋だ。長い時間、この男がここで戦ってきたことが伝わってくる。


 大佐は机の向こうに立ち、ヴァンを見下ろした。


「座れ。話を聞く。その情報は、どこで手に入れた?」

「半年、追った」


 大佐はそれ以上聞かず、手元の紙に視線を落とす。


 目線が動く。速度が落ちていく。ある箇所で、指が止まる。


「……お前は何者だ?」

「ヴァンだ。賞金稼ぎをしている」

「……ヴァン。猟犬のヴァンか?」

「ああ」


 大佐は黙ったまま、こちらを見つめている。


 沈黙。壁の時計だけが、かちかちと音を立てていた。値踏みされていることはわかった。


「……半年でここまで掴んだのか。なぜ、憲兵に来た?」

「一度、仕掛けたが失敗した。奴には護衛がいる。単独では無理だ。憲兵の力が必要だ」

「……護衛だと!?」

「あぁ、強力なギフト持ちだ。攻撃を無力化された」

「……なるほど。いいだろう。協力を許可する」

「感謝する」

「ただし、条件がある。単独行動は禁止だ。必ず憲兵と組んで動け」

「わかった」

「お前の情報をもとに、うちのギフト持ちが容疑者を絞り込む。現場だけでは絞りきれなかったが、行動パターンがあれば話は別だ。お前も現場検証に同行しろ。半年追った経験を使え」


 大佐がベルを鳴らした。



 ◇



 しばらくして、扉が開く。


 二人が入ってきた。


 一人は女性。金髪が窓からの光を受けて淡く輝いている。凛とした顔立ち。憲兵の制服を隙なく着こなしている。若いが、目に迷いがない。


 もう一人は痩せた男だった。四十代くらい。目の下に深い隈。書類の束を抱えている。


「お呼びですか、大佐?」

「セリア、彼が猟犬のヴァンだ。いわく付きの犯罪者を幾人も捕まえた賞金稼ぎだ。レッドジョン捜査に協力してもらう」


 セリアがこちらを見た。青い瞳が、値踏みするように動く。


 ヴァンは立ち上がり、軽く頭を下げた。


「よろしく頼む」

「こちらこそ。よろしくお願いします」

「こっちはマルコだ。うちのギフト持ちだ。ヴァンが半年かけて集めた行動記録がある。マルコ、これをもとに現場を検証し、容疑者を絞り込め。セリアとヴァンは護衛につけ」

「了解しました」


 セリアが答えた。マルコは黙って頷く。



 ◇



 貧民街。


 空は鈍い灰色だった。雲が低く垂れ込め、陽の光を遮っている。


 最初の犯行現場は、崩れかけた廃屋だった。


 板で塞がれた窓。傾いた屋根。壁には黒ずんだ染みが残っている。血痕だ。


 そして、壁の一角に。


「R.J」


 乾いた血文字が、薄暗がりの中で浮かび上がっていた。ヴァンはそれを一瞥して、目を逸らした。半年で何百回見たかわからない文字。だが、慣れることはなかった。


 マルコが部屋の中央に立ち、目を閉じる。


 空気がわずかに歪む。見えない波紋が、マルコを中心に広がっていくようだった。冷気ではなく、何かが空間から抜けていくような感覚。


 ヴァンとセリアは入口で周囲を警戒する。背中合わせに立ち、路地の向こう、建物の影、屋根の上へと視線を配った。


 数秒後。


 マルコが目を開けた。顔色が少し青ざめている。手帳に何かを書き込んだ。


「次」


 それだけ言って、廃屋を出る。



 ◇



 それから三日間、現場を回り続けた。


 廃屋。路地裏。橋の下。貧民街のあちこちに、レッドジョンの爪痕が残っている。どの現場にも血文字「R.J」があった。


 マルコは黙々とギフトを発動し、手帳に書き込んでいく。初日は少し青ざめるだけだった。二日目には口数が減り、足取りが重くなった。三日目には、次の現場へ向かう道中も黙って歩いていた。この男が何を見ているのか、ヴァンには想像もつかなかった。


 ヴァンとセリアは、その背後を守り続ける。



 ◇



 最終日の夕暮れ。


 最後の現場を終えた時、マルコは手帳を閉じた。


「終わった。明日、リストを提出する」



 マルコが先に帰り、二人だけになる。


 夕焼けが街を茜色に染めている。崩れかけた建物の影が、長く伸びていた。


 石畳を並んで歩く。靴音だけが響いている。三日間、必要なことしか話さなかった。それでも、沈黙が不自然ではなかった。


「……なぜ、レッドジョン捜査に協力を?」


 セリアが聞いた。


 ヴァンは足を止めない。


「個人的な理由だ」


 それ以上は言わなかった。


 セリアは横目でヴァンを見た。何も読み取れない顔。でも、その目の奥に、何かが燃えているように見えた。火ではない。もっと冷たく、もっと長く燃え続けるものが。


 セリアも、それ以上は聞かない。


 二人の影が、茜色の石畳の上で重なり、また離れた。



 ◇



 翌日。


 憲兵本部。会議室。


 窓の外は曇っていた。灰色の光が、部屋の中を冷たく照らしている。


 テーブルの上に、一枚の紙が広げられていた。


 容疑者リスト。


 マルコが三日間かけて作成したものだ。


「百二十人。全ての犯行現場と縁がある人物です。この中に、犯人がいます」


 マルコが言った。大佐が受け取り、目を通す。


「間違いないか?」

「間違いありません」

「セリア、このリストの者を一人ずつ洗え」


 セリアはリストを受け取った。


 目を通していく。名前が連なっている。知らない名前ばかりだ。


 商人。職人。日雇い労働者。物乞い。娼婦。様々な職業の人間がいる。


 ページをめくった。


 指が止まる。


 最初は、見間違いだと思った。


 目を擦る。もう一度見た。


 変わらない。


 そこに、名前がある。


 ルーシェ――旧市街、ハイム通り。


 自分の家の住所だ。



 息が止まった。


 血の気が引いていく。指先から、頬から、熱が消えていく。


 紙を持つ手が震えている。止められない。


 周りの音が遠くなった。大佐の声も、時計の音も、何も聞こえない。


 ただ、その四文字だけが視界を占めている。


 見慣れた文字。毎日呼んでいる名前。今朝も呼んだ名前。


 ――嘘だ。

 ――何かの間違いだ。


 でも、名前は消えない。何度見ても、そこにある。


「……どうした?」


 大佐の声がした。遠くから聞こえるようだ。


 顔を上げた。大佐がこちらを見ている。ヴァンも。マルコも。


 全員の視線が、自分に集まっている。


「い、いえ……」


 声が出ない。喉が詰まっている。


 唾を飲み込んだ。


「何でもありません」


 大佐の目が細くなった。眉がわずかに動く。


 だが、それ以上は追及してこなかった。


「明日から確認を開始する。ヴァン、引き続き同行を頼む」

「ああ」


 セリアはリストを持つ手に、力を込めた。震えを止めるために。指先が白くなるほど、握りしめた。



 ◇



 夜。


 セリアは家に帰る。


 玄関を開けると、温かい空気が頬を撫でた。台所から、スープの匂いが漂ってくる。湯気が、ランプの灯りの中で白く揺れていた。


「おかえり、セリア姉様」

「おかえり、姉さん」


 奥からルーシェの声がした。


 セリアは口元を緩める。


「ただいま」


 食卓についた。イリスがスープをよそってくれる。ルーシェがパンを切っている。


 いつもの光景。いつもの夕食。


 ランプの灯りが揺れている。三人の影が壁に映っている。


 スプーンを口に運んだ。温かい。美味しいはずだ。


 でも、味がしない。熱だけが舌に触れて、すぐ消えた。


 ルーシェが笑っている。イリスと軽口を叩いている。金色の髪が揺れる。いつも通りだ。何も変わっていない。変わっているのは、自分の目だけだ。


 ――この子が、容疑者?


 スープの中に、自分の顔が映っていた。


 あり得ない。あり得るはずがない。


 レッドジョンは幾人もの首を断ち、腕利きの憲兵すら殺している。あの妹にそんな戦闘力があるはずがない。よほど強力なギフトでなければ、不可能だ。


 ただ、ひとつだけ引っかかる。


 ルーシェのギフトは、まだ発動していない。少なくとも、そう聞いている。


 もし――発動済で、隠していたとしたら?


 ギフトに飲まれる。憲兵なら誰でも知っている現象だ。凶悪なギフトが目覚めた瞬間、人が変わる。善良だった者が、別人になる。そういう事例を、セリアは何度も見てきた。目の前で変わった者も、いた。


 セリアは頭を振った。考えすぎだ。


 ルーシェは毎日家にいる。夜に外出することもあるが、酒場で働いていると言っていた。アリバイはあるはずだ。


 ――でも、確認したことはない。



 スプーンが止まった。


「姉さん、どうしたの?」

「大丈夫よ。ちょっと疲れただけ」


 笑顔を作る。頬の筋肉に、力を入れた。


 ルーシェは納得していない顔だ。でも、それ以上は聞かなかった。



 食事が終わる。



 セリアは自分の部屋に戻る。


 ベッドに腰を下ろす。膝が震えていた。


 リストを取り出す。ルーシェの名前を見つめる。


 ――違う。絶対に違う。


 そう言い聞かせた。何度も。何度も。


 でも、不安は消えない。

 窓の外で、月が雲に隠れようとしていた。


 さっき食卓で見たルーシェの顔が、瞼の裏に浮かぶ。笑っていた。何も知らない顔で、笑っていた。


 セリアは、リストを握りしめたまま動けなかった。

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