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悪役令嬢は玉座を望まない ―溺愛宰相と築く、破綻寸前国家の再建録―  作者: 花菱エマ


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第8話 「契約の夜」

 隣国ヴァルディスの王都は、静かな光に包まれていた。


 王城ほどの華美さはない。だが、無駄のない造りと整然と並ぶ街灯が、この国の性質を物語っている。


 ――飾らない。だが崩れない。


 馬車が石造りの庁舎前で止まる。


「ようこそ、合理の国へ」


 カイルが先に降り、手を差し出した。


 リゼリアは一瞬だけその手を見つめる。


 王太子の手とは違う。


 温かさを誇示する手ではない。


 落ちる者を掬い上げるための手だ。


 彼女はその手を取らず、自力で降りた。


 カイルは気にした様子もなく、扉を押さえたまま微笑む。


「歓迎式は省きます。あなたは祝福より仕事を好むでしょう」


「正解ね」


 庁舎内は灯りが落とされ、必要最低限の人員しかいない。


 通されたのは、上階の会議室。


 大きな机と、書類の山。


 豪奢な装飾はない。


 代わりに、壁一面に地図と数字が並んでいる。


 リゼリアの胸が、わずかに高鳴った。


「……いい部屋ね」


「気に入りましたか」


「ええ」


 即答だった。


 数字が可視化され、整理され、整然としている。


 感情の余地は少ないが、安心できる。


 カイルは椅子を引いた。


「正式な契約締結を」


 机の上には、先ほどの草案に修正を加えた書類が置かれている。


 リゼリアは目を通し、静かに頷いた。


「問題ないわ」


「では」


 ペンを渡される。


 羽根ペンではない。


 金属製の実用的な筆記具。


 彼女はそれを手に取る。


 ほんの一瞬、躊躇。


 王妃の署名ではない。


 財政顧問としての署名。


 だが。


 これは逃避ではない。


 選択だ。


 ゆっくりと、自らの名を書く。


 ――リゼリア・アストレイア。


 インクが乾くまでの数秒が、やけに長い。


「これで、あなたは我が国の人間です」


「一時的に、ね」


「ええ」


 カイルも署名する。


 契約書が二部、重ねられる。


 音は静かだが、重い。


「早速だが」


 カイルは机の別の書類を差し出す。


「あなたの祖国の債務状況、最新報告だ」


 リゼリアの瞳が鋭くなる。


「……早いわね」


「情報は武器です」


 目を走らせる。


 予想よりも悪い。


 施療院拡充の追加発表により、さらに支出増。


「……一年、前倒しになる」


「何が」


「破綻が」


 部屋の空気が変わる。


 カイルは腕を組む。


「助けますか」


 問いは簡潔。


 リゼリアは書類から目を上げる。


「条件次第」


「提示は」


「財政権限の委譲」


「王太子が飲むと?」


「飲ませる」


 即答。


 カイルの口元が僅かに上がる。


「あなたは追放されたばかりだ」


「だからこそ、必要とされる」


 彼女の声は静かだが、揺るがない。


「彼は希望を選んだ。なら私は、崩れた後の現実を引き受ける」


「復讐ではなく」


「再建よ」


 短い沈黙。


 カイルはゆっくりと頷いた。


「やはり、あなたは数字を守る」


「それが私の役目」


「役目ではなく、本質だ」


 その言葉に、胸がわずかに震える。


 役目を失ったと思っていた。


 だが本質は失っていない。


「疲れているでしょう」


 カイルが声を落とす。


「客室を用意してあります」


「仕事は」


「逃げません」


 淡々とした返答。


 リゼリアは小さく笑った。


「信頼しているの?」


「契約を」


「私ではなく」


「あなたは契約を破らない」


 それは、最大級の評価だ。


 彼女は椅子から立ち上がる。


「一つ聞いても?」


「どうぞ」


「今日の発表で、得をしたのは誰」


 カイルは即答しない。


 窓の外を見やる。


「短期的には王太子と聖女」


「長期的には」


「我が国」


 冷静な答え。


「あなたが自由になったから」


 リゼリアは目を細める。


「最初からそれが狙い?」


「可能性としては考えていた」


 否定しない。


 腹黒。


 だが、嫌悪は湧かない。


「……利用されるのは嫌いよ」


「私もだ」


 灰色の瞳が、まっすぐに彼女を見る。


「だから対等でいたい」


 静かな本音。


 リゼリアは一瞬、視線を逸らした。


 王太子の隣は、光だった。


 この男の隣は、影だ。


 だが影の方が、数字は見えやすい。


「おやすみなさい、リゼリア」


「ええ」


 扉へ向かう。


 その手前で、足を止める。


「……ありがとう」


 振り返らずに言う。


「何に対して」


「選ばせてくれたこと」


 短い沈黙。


「当然だ」


 その声は、柔らかかった。


 廊下に出る。


 静かな夜。


 新しい国の空気は、冷たいが澄んでいる。


 部屋に入ると、窓の外に星が見えた。


 ベッドに腰を下ろす。


 ようやく一人になる。


 静寂。


 胸の奥の痛みが、ゆっくりと浮かび上がる。


 王太子の言葉。


 歓声。


 冷酷と囁く声。


 そして、差し出された契約。


「……私は」


 呟く。


 悪役だと、何度も言い聞かせた。


 だが。


 悪役にも、選ぶ権利はある。


 頬に、わずかな温もり。


 涙が一筋だけ、零れた。


 声は出さない。


 泣くのは、今夜だけ。


 明日からは、再び数字と向き合う。


 冷たい令嬢でいい。


 だがもう、孤独ではない。


 そう思えたことが、何よりも救いだった。


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