第5話 「重大な発表」
鐘が三度、鳴り響いた。
王城中庭に集まった民衆のざわめきが、ぴたりと止む。
壇上に立つ王太子エドガーは、ゆっくりと視線を巡らせた。その隣には聖女ミレイユ。純白の衣が風に揺れ、光を受けて柔らかく輝いている。
回廊の影から、リゼリアはその光景を見つめていた。
遠い。
物理的な距離ではない。
立っている場所の違いだ。
「皆、よく集まってくれた」
エドガーの声はよく通る。
「我が国は今、変革の時を迎えている」
民衆の期待が膨らむ。
リゼリアの胸の奥で、静かに何かが軋む。
「聖女ミレイユの力は、多くの命を救った。私はその姿を、この国の未来と重ねている」
ミレイユが戸惑いながらも微笑む。
歓声。
「ゆえに私は決断した」
一瞬の間。
空気が張り詰める。
リゼリアは無意識に指先を握り締めていた。
「本日をもって――」
エドガーは、はっきりと告げる。
「リゼリア・アストレイアとの婚約を解消する」
どよめきが広がった。
誰かが息を呑む。
誰かが小さく笑う。
リゼリアは、瞬きを一度だけした。
予測していた。
それでも。
実際に言葉として突きつけられると、胸の奥に冷たい刃が沈む。
「そして私は、聖女ミレイユを新たな伴侶として迎えたいと考えている」
歓声が爆発する。
祝福の声。
拍手。
光の中で、二人は並び立つ。
完璧な絵だ。
誰もが望む物語。
回廊の影に立つリゼリアだけが、その外側にいる。
「……お嬢様」
アンネリーゼが低く呼ぶ。
「行きましょう」
逃げ場はある。
だがリゼリアは首を横に振った。
「いいえ」
ゆっくりと歩き出す。
階段を降り、中庭へ向かう。
民衆の視線が、次第にこちらへ向く。
ざわめきが再び広がる。
「冷酷令嬢だ」
「やはり……」
囁きが耳に届く。
だが足は止めない。
壇上の前で立ち止まり、優雅に一礼する。
「殿下」
エドガーの表情が、わずかに揺れた。
「リゼリア」
「ご決断、承りました」
声は静かだ。
震えていない。
「だが、一つだけ確認を」
民衆が息を呑む。
「施療院拡充計画および慈善基金の増額について、今後五年の財政試算はお済みでしょうか」
場の空気が凍る。
エドガーの眉がわずかに寄る。
「今はその話ではない」
「国の未来の話です」
リゼリアは一歩も退かない。
「現行の支出増加率では、三年以内に準備金が枯渇いたします」
ざわめき。
「誇張だ」
「いいえ」
懐から一冊の帳簿を取り出す。
開き、掲げる。
「こちらが最新試算です」
民衆には読めない。
だが、その所作は揺るがない。
「善意は尊い。しかし、無制限ではありません」
ミレイユの瞳が揺れる。
「私は、未来のために進んでいる」
エドガーの声が硬くなる。
「君はいつもそうだ。希望に水を差す」
「水を差さなければ、火は城を焼きます」
一瞬、静寂。
だが次の瞬間、誰かが叫んだ。
「冷たい女だ!」
別の声。
「聖女様に嫉妬しているのだ!」
波のように広がる非難。
リゼリアは目を閉じない。
逃げない。
「……嫉妬?」
小さく呟く。
胸の奥に、わずかな痛み。
それを否定しない。
だが、今は違う。
「私はただ、数字を述べただけです」
エドガーは、深く息を吐いた。
「リゼリア。君の才覚は認めている」
その言葉に、わずかな救いを期待しかける。
「だが、王妃に必要なのは数字ではない」
その続きで、期待は砕けた。
「民と共に歩む心だ」
歓声が再び上がる。
物語が完成する。
冷酷令嬢は退場し、聖女が祝福される。
完璧だ。
リゼリアはゆっくりと帳簿を閉じた。
「……承知いたしました」
深く、深く一礼する。
「殿下のご多幸を、お祈り申し上げます」
顔を上げた瞬間、ミレイユと目が合う。
彼女の瞳には、勝利の喜びではなく、戸惑いと不安があった。
――あなたは悪くない。
そう言う代わりに、リゼリアはただ微笑む。
悪役の微笑。
くるりと踵を返す。
背後で歓声が渦巻く。
一歩。
また一歩。
石畳の感触が、やけに硬い。
胸の奥で、何かが崩れる音がした。
だが、涙は出ない。
泣く資格はない。
選ばれなかったのは、感情を示さなかった自分だ。
そう理解している。
城門へ向かう途中、聞き慣れた声が低く響いた。
「見事でした」
振り向かずとも分かる。
カイル。
「見世物としては、でしょう」
「いいえ」
彼は隣に並ぶ。
「誇りとして」
リゼリアは足を止めない。
「私は、不要とされたのです」
「違う」
即答。
「あなたは、都合が悪かった」
その言葉に、わずかに救われそうになる。
だが、すぐに押し戻す。
「どちらでも同じです」
「同じではない」
城門が近づく。
外には、隣国の紋章を掲げた馬車。
「迎えに来ました」
カイルの声は静かだ。
「契約の提案を」
リゼリアは立ち止まり、初めて彼を見る。
「私は追放された身です」
「価値は失っていない」
迷いのない瞳。
「あなたの数字は、まだ必要とされている」
どこで。
「我が国で」
胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
敗北の直後に差し出される手。
甘い。
だが。
逃げではない。
選択だ。
リゼリアは城を振り返る。
光の中に立つ二人は、もう見えない。
「……条件があります」
カイルの口元がわずかに上がる。
「伺いましょう」
「私の試算を、決して軽んじないこと」
「約束します」
「そして」
一瞬、迷う。
「私に、選択権を」
カイルは深く頷いた。
「あなたの人生は、あなたが決める」
その言葉に、初めて胸の奥の痛みが少し和らぐ。
リゼリアは馬車へ向かう。
背後で城門が閉まる音がした。
それは終わりの音であり。
始まりの音でもあった。




