第2話 「王太子は笑っている」
午前の謁見室は、光に満ちていた。
高い天井から差し込む陽光が大理石の床に反射し、白く眩しい。壁には歴代国王の肖像画が並び、その視線が静かに空間を見下ろしている。
その中央に、王太子エドガーは立っていた。
金糸の刺繍が施された青の正装。柔らかな栗色の髪。誰に向けても分け隔てなく微笑む、その表情。
民が愛する王子の顔だ。
「リゼリア、来てくれて嬉しいよ」
彼はそう言って、軽やかに歩み寄った。
リゼリアは優雅に一礼する。
「お呼びとあれば」
「堅いな。幼い頃からの仲だろう?」
「公務の場ですので」
淡々とした返答に、エドガーは苦笑する。
その笑顔が、今日も完璧だとリゼリアは思う。
――だからこそ、危うい。
「今日は施療院の追加予算についてだ」
彼は窓辺へ歩き、外を見下ろした。
中庭では、聖女ミレイユが子どもたちに囲まれている。
「見ただろう? あの笑顔を。彼女が来てから、民の不安は確実に減っている」
「数字上では、そう見えます」
「また数字だ」
エドガーは振り返り、少しだけ眉を寄せた。
「君はいつもそれだ。帳簿、試算、将来予測。大切なのは“今”だろう?」
リゼリアは一歩も引かない。
「“今”のために“未来”を削るのは、政治ではありません」
「未来は、民が希望を持てば自ずと拓ける」
「希望では借金は返せません」
空気が変わる。
側近たちが息を呑む気配。
エドガーはしばらく無言で彼女を見つめ、やがて柔らかく笑った。
「君は、本当に変わらないな」
その声には、懐かしさと――わずかな失望。
「幼い頃からそうだ。私は剣の稽古を抜け出して町へ行きたがったが、君は図書室で財政史を読んでいた」
「必要な知識でした」
「楽しくはなかっただろう?」
「……楽しい必要はありません」
エドガーは近づき、声を潜める。
「リゼリア。私は、王になる」
「存じております」
「そのとき、民に愛される王でありたい」
「ならば、なおさら財政は健全でなければ」
「またそれだ」
彼は小さく首を振る。
「民は数字を見ない。見るのは、王の姿だ」
リゼリアは静かに息を吸う。
「姿は、飢えを満たしません」
「だが心は満たす」
「空腹の心は長くは持ちません」
言葉が、刃のように交差する。
どちらも間違っていない。
だが、噛み合わない。
エドガーはやがて、視線を逸らした。
「君は冷たいと言われている」
それは、報告ではなく確認だった。
「承知しております」
「気にならないのか?」
「事実ではありませんので」
「だが、そう見えている」
彼の声は、どこか疲れていた。
「私は……君に、民と同じ目線で立ってほしい」
「私は、国と同じ目線で立っております」
沈黙。
遠くで鐘が鳴る。
エドガーはゆっくりと背を向けた。
「午後、公開式典を行う」
「……発表の内容を伺っても?」
「まだ言えない」
「国家予算に関わる案件でしたら、事前協議が必要です」
「必要ない」
きっぱりとした否定。
「これは、王太子としての決断だ」
その言葉が、静かに落ちる。
リゼリアは胸の奥に小さな違和感を覚えた。
だが顔には出さない。
「承知いたしました」
形式通りに頭を下げる。
その姿を見て、エドガーは一瞬だけ何かを言いかけた。
だが、やめた。
「……君は、いつも正しい」
低く呟く。
「だが、正しさだけでは国は動かない」
リゼリアは目を上げた。
「動かないのではなく、動かし方が違うのです」
「どう違う?」
「静かに、崩れないように動かすのです」
彼は、わずかに笑う。
「私は、もっと大きく動かしたい」
その瞳には、情熱がある。
眩しいほどに。
リゼリアは理解している。
彼は民を愛している。
だからこそ危うい。
「……ご武運を」
それ以上は言わない。
言っても届かないと、知っている。
謁見室を出ると、回廊の空気がひやりと冷たい。
アンネリーゼが待っていた。
「いかがでしたか」
「午後に“重大な発表”があるそうよ」
「嫌な予感がします」
「私も」
短い会話。
だが、その裏で思考は走る。
公開式典。
事前協議なし。
予算関係の可能性。
そして、民衆人気。
――まさか。
リゼリアは足を止める。
窓の外、中庭の歓声が再び上がる。
聖女ミレイユが手を振り、王太子が微笑む。
完璧な光景。
その隣に、自分はいない。
それでいい、と何度も思った。
だが、今日の空気は違う。
「アンネリーゼ」
「はい」
「施療院予算、最終試算を今日中にまとめて」
「……断罪に備えてですか」
その言葉に、リゼリアは目を細める。
「まだ決まったわけではない」
「ですが、可能性は高い」
侍女の声は冷静だ。
リゼリアは小さく息を吐く。
「もしそうなら」
言葉を選ぶ。
「私は、逃げない」
「お嬢様」
「逃げれば、冷酷令嬢のまま終わる」
ゆっくりと歩き出す。
「ならば、最後まで悪役でいい」
胸の奥が、わずかに痛む。
それでも。
数字は嘘をつかない。
真実は、いずれ露わになる。
そう信じている。
――だが。
人は、真実より物語を愛する。
そのことを、彼女はまだ知らなかった。




