第1話 「善意は金を燃やす」
本作は、断罪された悪役令嬢が泣かずに国を立て直す物語です。
ざまぁはあります。
溺愛もあります。
ですがそれだけでは終わりません。
「悪役令嬢が王妃にならなかったら?」
そんなお話です。
夜明け前の王城は、静かだ。
人々がまだ夢の底にいる時間、石造りの回廊には冷たい空気が満ちている。窓の外では白み始めた空が薄く広がり、遠くの塔の先端だけが朝焼けに染まっていた。
その静寂の中心に、リゼリア・アストレイアはいた。
王城北棟、会計監査室。
机の上に積み上げられた帳簿の山。その一冊を閉じ、彼女は静かに息を吐く。
「……予算超過、前年比一七%増」
低く落ち着いた声が、無人の室内に溶ける。
王太子主導の新規慈善政策――聖女ミレイユを中心とした施療院拡充計画。その支出報告書だ。
紙の上には、美しい数字が並んでいる。救われた孤児の数。治療を受けた民の人数。寄付金の増加率。
だが、リゼリアの視線はそこにはない。
彼女が見ているのは、その裏だ。
「補助金は来年度さらに倍。恒常支出化……。軍備費を圧迫。地方インフラ予算は凍結」
指先で、静かに数字をなぞる。
五年後の予測欄に目を落とし、淡々と書き込む。
――国庫準備金、枯渇。
善意は、美しい。
だが、善意は金を燃やす。
燃やしたあとの灰を片付ける者がいなければ、国は崩れる。
「お嬢様」
扉の外から控えめな声がした。
「入りなさい、アンネリーゼ」
侍女が音もなく入室する。淡い灰色の髪をきちんとまとめた、無駄のない立ち姿の女性だ。
「また徹夜ですか」
「いいえ。仮眠は取りました」
「椅子に座ったまま三十分を仮眠とは呼びません」
淡々と返す侍女に、リゼリアはわずかに唇を緩めた。
「報告を」
「王太子殿下、本日午前に施療院を視察なさいます。午後は公開式典の打ち合わせだそうです」
「公開式典?」
「ええ。“民に希望を示す発表”と」
リゼリアの手が一瞬だけ止まる。
だがすぐに、再び羽根ペンを走らせた。
「……希望は、帳簿に載らないわ」
「載せるのが、お嬢様の役目です」
アンネリーゼの声には皮肉も憐れみもない。ただ事実だけがある。
リゼリアは立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
城下町の屋根が朝日に照らされ始めている。
あの下で暮らす人々は、今日も聖女に感謝するだろう。
病が癒えたと。奇跡だと。
彼女は聖女を憎んではいない。
むしろ、羨ましいとすら思う。
祈るだけで、笑顔が返ってくるのだから。
「お嬢様」
「なに」
「……お顔が」
「冷たいかしら?」
振り返らずに問う。
侍女は少しだけ間を置いた。
「ええ」
「そう」
リゼリアは窓に映る自分を見る。
整った顔立ち。感情を押し殺した瞳。完璧に結い上げた金の髪。
王都ではこう呼ばれている。
――冷酷令嬢。
民の人気を削り、貴族の浪費を断ち、王太子の夢に水を差す女。
「嫌われるのは慣れているわ」
「慣れてはいけません」
「なぜ?」
「人は孤独になると、判断を誤ります」
アンネリーゼの言葉は鋭い。
だが、リゼリアは微笑んだ。
「私は数字を信じている。数字は裏切らない」
「人は裏切ります」
「……そうね」
小さく認める。
数字は冷酷だ。だが公平だ。
人は優しい。だが移ろう。
それでも、この国を守るには。
「善意だけでは足りない」
ぽつりと零す。
五年後、いや三年後かもしれない。国庫は底をつく。
そのとき、民は誰を責めるのだろう。
聖女か。王太子か。
きっと違う。
責められるのは、数字を黙って見ていた者だ。
だから。
「私が嫌われれば済むなら、それでいいわ」
アンネリーゼは何も言わなかった。
沈黙のまま、新しい帳簿を机に置く。
「本日の追加報告です。聖女団体の寄付金内訳」
リゼリアはそれを受け取り、ページをめくる。
寄付総額は増えている。
だが、管理費の比率も増えている。
「……妙ね」
指が止まる。
細かな支出の中に、見慣れぬ商会名。
金額は小さい。だが回数が多い。
積み重なれば、無視できない。
「アンネリーゼ。この商会の素性を調べて」
「承知しました」
侍女はすぐに動く。
リゼリアは椅子に腰を下ろし、静かに目を閉じた。
この違和感が、ただの杞憂であればいい。
だが、もし違うなら。
善意は利用されている。
そして利用された善意は、国を焼く。
扉の外が騒がしくなる。
遠くから聞こえる歓声。
どうやら王太子と聖女が中庭に現れたらしい。
窓越しに見下ろせば、民衆が集まっている。
光に包まれた聖女が微笑み、王太子がその手を取る。
歓声が、波のように広がる。
眩しい光景だ。
リゼリアはしばらくそれを見つめ、やがて視線を落とした。
机の上の帳簿へ。
未来は、歓声では守れない。
必要なのは、計算だ。
「……善意は金を燃やす」
だが。
それでも。
彼女はほんの一瞬だけ、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
もし、あの輪の中に立てたなら。
もし、ただ笑うだけで許されるなら。
そんな自分を、想像して。
すぐに打ち消す。
「無意味ね」
羽根ペンを取り、数字を書き込む。
冷たいと呼ばれてもいい。
悪役と囁かれてもいい。
五年後、この国が立っているなら。
それでいい。
朝日が完全に昇り、会計室に光が差し込む。
金色の光が帳簿の上を照らす。
リゼリアは顔を上げた。
その瞳には、迷いはない。
ただ、静かな決意だけがあった。
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