つながるいのち(改訂版)
第一章つながるいのち
澪が赤ちゃんを見たのは点滴のささったままの日だった。体は軽く、心は重かった。
新生児室の前で立ち止まると、ガラス越しに並ぶ保育器の中でひとりだけ大きな声で泣く赤ちゃんがいた。
顔を真っ赤にして、胸いっぱいにたくさんの空気を吸い込んでいる。
「苦しくないかな」
澪は思わずつぶやいた。
自分は息をするのに精一杯なのに、この子は泣くほどの力を持っている。
その日から、澪は毎日そこに来た。
赤ちゃんが泣いている日も、眠っている日も、ミルクを飲んでいる日も。
ある日、看護婦が言った。
「この子ね、お母さんが少し体調が悪くて、面会にあまり来られないの」
澪は胸がチクリとした。
理由は違うが、「両親がそばにいられない」辛さを彼女は知っていた。
澪はガラスにそっと手を当てた。
触れることはできない。
名前も知らない。
「この子は将来どんな子になるのかな?」
赤ちゃんの無限大の可能性を秘めた未来を推測する澪は、屈託のない少女の顔へ戻っていた。
数週間後、澪は赤ちゃんの名前を知った。
「朝霧 幸一」
「幸せいっぱいの子に育って欲しい」両親が、愛情を込めてつけた素敵な名前だということを看護婦が教えてくれた。
澪は、「いっぱい幸せになるんだよ」とすやすや眠る赤ちゃんに、最後の言葉を残した。澪は、少しずつ、病状もよくなり、いよいよ退院できることになった。ガラス越しに澪は微笑んだ。
その瞬間、赤ちゃんがふっと目を開けた。
澪と、目が合ったような気がした。
ただの偶然かもしれない。
けれど、澪は、その一瞬を生涯忘れなかった。
第二章 光と陰
澪の退院してからの日々は、申し分のないくらいとまではいかないかもしれないが、恵まれていた。友逹こそできなかったものの、クラスメイトは優しく接してくれた。
二週間にいっぺんの外来を除いては、一見すると、他の子と変わらない日常を送っているようにみえた。
澪はせっせと紙に人の絵を描き、人形を作り、はさみで切り取り「紙人形」を制作する。沢山の人形を作り出し、妹と架空の世界で遊んでいた。それは、家族だったり、病院の物語であったり、他愛もない友逹関係だったり、はたまた異性関係であったり、思い通りにいかない現実を非現実空間で達成することで、心のバランスを保っていた。
また、過食も止まらなかった。
――食べてしまっている。
澪は頭のどこかでそう思いながら、手を止めることができなかった。
退院して、食べ物を隠してトイレに捨てることはしなくなった。
「前よりは、良くなっている」
大人たちはそう言った。
けれど、夜になると、体の奥から何かがせり上がってくる。
空腹ではない。
寂しさなのか。埋められない気持ちが澪を過食に走らせた。
名前をつけられない感覚だった。
冷蔵庫を閉めても、また開ける。
引き出しを探り、クッキーの袋を見つける。
食べながら、澪は赤ちゃんのことを思い出した。
あの、新生児室で泣いていた子。
息をするために、全身を使って泣いていた。
「生きるって、こういうことなのかな」
声には出さず、心の中でつぶやく。
自分は、生きるために食べているのか。
それとも、生きているふりをするために食べているのか。
ふと、手が止まった。
テーブルの上に散らばった包装紙と、空になった皿。
その光景を見て、胸の奥がじんわりと痛んだ。
「……また、やっちゃった」
責める声は小さく、疲れていた。
泣くほどの力も、もう残っていなかった。
澪はコップ一杯の水を飲み、静かに後片付けをした。
台所を元の暗さに戻し、布団へ戻る。
布団の中で、天井を見つめる。
昼間は、ちゃんと笑えた。
病院では、前を向いているふりもできた。
でも、夜は違う。
誰にも見られていない夜だけが、本当の自分を連れてくる。
「怖い。怖い。大人になるって、きっと今より完璧で強い私にならないといけないんだ」
答えは出ないまま、澪は目を閉じた。
胸の奥に残る重さを抱えたまま、それでも、明日は来ると知りながら。
そんな澪の唯一のは救いだったのは、月に2回の金曜日の外来だった。
「精神科と小児科でタッグを組んで診ます」医師ははじめこそそう言った。
実現されることはなかったが、外来後に病棟で良くしてくれた看護婦さんに会うことは、ドキドキしながらも、嬉しかった。
「澪ちゃん!元気?学校はどう?」
スポーティな眼鏡をかけた主任が澪の姿をすぐにみつけるとそう尋ねた。
澪は、「楽しいよ」まんざら、嘘でもなかった。心配かけまいと澪なりの心遣いでもあった。
「澪ちゃんのことだから、きっと勉強バリバリやっているんだろうな」主任が、微笑む。澪もうっすら少しずつ笑顔を浮かべる。
「分からないところは、友逹や先生に聞くといいね」
主任は、そう言うと、「そういえば鈴木さん、澪ちゃんが元気にしていることを聞いて、喜んでいたよ」
鈴木さん。まだ新米の看護婦さんだったが、特に澪のことを気にかけてくれたひとりだ。
そう、鈴木さんは、産婦人科の看護婦さんに駆け寄って、澪のことを話して、赤ちゃんの面会を頼んでくれた人だ。
また、夜勤で忙しくて約束していた日に来れなくてごめんね。と可愛いぞうの絵柄を書いたメモを澪のために書いてくれた。
「まだ葛藤してしまうのかな。大丈夫。澪ちゃんの周りには、たくさんの人がいて、特にお母さんお父さんはいつもそばにいて、澪ちゃんの話を聞いてくれるからね」
鈴木さんは、今日、非番だったが、主任から、託された手紙にはそう記されていた。澪は、ここに来ると、人々の優しさに触れることで、息を何とか吸うことができた。
「風邪引かないようにね」
他の看護婦さんも澪の姿をみつけると、そう声をかけてくれた。
澪は、はにかみながら、「はい」と答えて、小児病棟を後にした。
そして、決まって産婦人科の病棟をちらっと廊下からのぞくのである。
「あの子、たしか幸一君。きっと今頃、お父さんとお母さんとお家で幸せな時間を過ごしているんだろうな」
澪は、そう思うと何だか心がすうっと軽くなり、そして、明るくなるのである。不思議だった。
第三章 未来へ
それから三十年後。
朝霧は、患者のカルテを閉じる前に、いつもひと呼吸置く。
人の心は、急いで扱うものではないとどこかで知っている。
彼は知らない。
自分が生まれた時、毎日見守ってくれた心優しい少女がいたことを。
朝霧には、「人の心の苦しみに寄り添いたい気持ち」は口に出して言わないものの、物心ついた頃から、ずっと胸の奥にあった。
第四章 挫折
朝霧は医学生だった頃、一度だけ、白衣を脱ごうと思ったことがある。
それは、自殺未遂を繰り返す患者の怪我の縫合をするといったときだ。患者は取り乱し、「あんたなんかに私の苦しみが、わかるはずない」といい放った。
人の苦しみに向き合うことが、思っていた以上に自分を削る行為だと、その日、はじめて実感した。
家に帰ると、無口な父が台所で湯呑みにお茶を注いでいた。
テレビの音だけが、部屋を満たしている。
朝霧は、ぽつりと言った。
「……医者、向いてないかもしれない」
父はすぐには答えなかった。
少し間を置いて、湯呑みを置き、こちらを見ずに言った。
「そうか」
それだけだった。
沈黙が続いたあと、父は低い声で、短く言った。
「お前の人生だ。お前の思うようにすればいい」
その言葉は突き放すようでいて、不思議と冷たくなかった。
選ぶことも、迷うことも、引き受けろと言われた気がした。
その夜、朝霧は自分に問い直した。
辞めたいのか。
それとも、怖いだけなのか。
布団の中で目を閉じたとき、なぜか思い出したのは、
理由の分からない「やさしい視線」だった。
声も、顔も浮かばない。
ただ、生きていることを静かに許されたような感覚だけが、胸に残った。
翌朝、彼は何も結論を出せないまま、白衣に袖を通していた。それでも、患者に寄り添い、いのちを救うのが医者の使命だと朝霧は、どこかで思っていた。
第五章 知る日
朝霧は、ある日古いカルテの整理を頼まれて、地下書庫にいた。
懐かしい紙の匂いと、冷たい空気。
そこには、もう、使われなくなった病棟の記録が眠る場所だった。
ふと、段ボールのひとつに「新生児病棟・関連資料」とか書かれている箱をみつけた。
なぜか、朝霧の手がとまった。
何気なく中を開けると、看護記録の束の間に、一枚の写真が挟まっていた。
ガラス越しに新生児をみつめる、痩せこけた少女の横顔。
写真の裏には、鉛筆で短く、小さな字でこう書かれていた。
「澪さん、毎日朝霧くんを見に来てくれてありがとう。あなたの存在が、きっとこの子の力になります」
「…朝霧、くん?」
その名前は、自分だ。
彼は資料室を出て、当時を知る人を探した。
白髪のベテラン看護師は写真を見ると、すぐにうなずいた。ネームプレートには「鈴木」と書いてある。
「覚えているわ。澪ちゃんだったかしら? たしか摂食障害で入院していた子ね」
朝霧は何も言えなかった。
「赤ちゃんにね。よく、話しかけていたのよ。声には出さなかったけれど、毎日、同じ時間に来て、同じ場所に立って」
看護師は、少し間を置いて続けた。
「あなたが笑っているとき、屈託のない笑顔で彼女は微笑み、あなたが、眠っているときは安心したみたいに病室へ戻る足取りも軽やかだった」
その夜、彼は資料室で見た写真を思い出し、なかなか寝付くことができなかった。
自分が選んだ職業、苦しむ人の話を聞き、絡まった糸をほどいていく。
それは、才能でも使命感でもなく、かつて「生きることを見守ってくれていた少女がいたこと」の名残かもしれない。
朝霧は、初めて澪のカルテを読んだ。
衝撃的だった。
「退院後、断続的な通院を続けるも、治療の半ばで突然亡くなる」
カルテの、ページを閉じたとき、彼は初めて声に出して言った。
「ありがとう」
第六章 糸
翌日、朝霧の診察室に摂食障害の患者が静かに入ってきた。
朝霧はいつもより、ゆっくりと椅子に座った。少し指先が震えていた。澪のことと重ねてしまっていた。―いけない。目の前のクライアントに集中しなければ―
「あなたが、ここに来たことには意味があります。例え、今は分からなくても」
患者はきょとんとした思案顔で、朝霧をみつめる。
「時間はかかります。体重を減らすことは、今あなたが努力して手に入れた勲章となっているのでしょう。それを、手放して生きることは、大変なことだと私も思います。誰も、努力して得たものを捨てて生きて行く作業は、容易ではありませんよね。私と一緒に絡まった糸を、少しずつほぐしていきましょう」
患者は、朝霧の言葉に驚いていたが、こくりと僅かにうなずいた。
診察室の窓からの陽が、「未来」を照らしているような穏やかな春の日だった。
朝霧は、「彼女の生きること」を静かに見守る決意をした。
かつての澪が、そうしてくれたように…。
澪がガラス越しに残した言葉を、彼自身の声で、世界に返す瞬間だった。
澪が残したものは、言葉でも血縁でもない。
「あなたは生きていていい」という視線だった。
その視線は、三十年の時を越えて、今日も誰かを診る手となっている。
続章 診察室にて
診察室のドアが、控えめな音を立てて閉まった。
若い女性は、椅子の端に浅く腰かけ、両手を膝の上で固く組んでいる。指先が、わずかに白くなっていた。
朝霧は、その様子を見て、すぐに言葉を差し出さなかった。
沈黙は、怖いものではない。
そう教えてくれた誰かが、確かにいた。
「……今日は、どうでしたか」
やがて朝霧が静かに問いかけると、彼女は一瞬、視線を泳がせ、それから小さく息を吸った。
「……食べてしまいました」 責めるような声ではなかったが、どこか、報告書のような言い方だった。
「全部、じゃないです。でも……食べました」
朝霧は、うなずいた。
「そうですか」 それだけ言って、パソコンの画面から向きなおった。
彼女は、驚いたように顔を上げた。 叱られる準備をしていた目だった。
「“食べたこと”について、今、どんな気持ちですか」
「……怖いです」 間を置かずに、言葉が出た。 「太るのも、元に戻るのも。せっかく、ここまで頑張ったのにって……」
朝霧は、ゆっくりと息を吐いた。
「それは、とても自然な感覚だと思います」 彼女の目を、真正面から見る。 「あなたは、必死に生き延びてきた。その方法が“食べないこと”だっただけです」
彼女の肩が、わずかに震えた。
「でも……それでも、食べてしまう自分が、嫌で……」
「食べたあなたも、食べられなかったあなたも、どちらも“生きようとしている”同じ人です」
言葉が、診察室の空気にゆっくりと落ちていく。
彼女は、しばらく黙っていたが、やがてぽつりとこぼした。 「……先生は、どうして、そんな言い方ができるんですか」
朝霧は、一瞬だけ、答えに迷った。 だが、嘘をつく気にはなれなかった。
「昔」 静かに、言葉を選ぶ。 「生きることが、とても苦しかった人を、僕は知っています」 「その人は、何も教えてはくれなかった。ただ……見守っていた」
「見守る、だけで?」
「ええ」 朝霧は、微笑んだ。 「でも、それが、誰かの人生を支えることもある」
彼女は、涙をこぼさなかった。 ただ、肩の力が、すっと抜けた。
「……じゃあ」 小さな声で言う。 「今日、食べた私も……ここにいていいですか」
朝霧は、迷わず答えた。
「もちろんです」 「あなたは、ここに来ただけで、もう十分、勇気を使っています」
診察室の窓から、午後の光が差し込む。
それは、かつて新生児室のガラス越しに注いでいた光と、どこか似ていた。
朝霧は、心の中でそっと、ひとつの名前を呼んだ。
——澪。
そして、目の前の彼女に、同じ視線を向け続けた。
生きることを、急がせない視線を。
糸は、まだ絡まっている。
けれど、ほどく手は、確かにここにあった。
続章 診察室にて
診察室のドアが閉まる音は、いつもと同じだった。 彼女は椅子の端に腰をかけ、視線を落としたまま言った。
「……食べてしまいました」
責める声ではなかった。ただ、事実を置くような言い方だった。 朝霧は、すぐに評価しなかった。
「食べたあと、どんな気持ちでしたか」
「怖いです。太るのも、戻るのも」
朝霧はうなずく。 「それは、あなたが生き延びるために守ってきた感覚ですね」
彼女の肩が、少しだけ下がった。
---
数回の診察を重ねる中で、彼女は少しずつ言葉を増やしていった。
「いい子でいないと、居場所がなくなる気がして」 「痩せていると、ちゃんとしていられる気がするんです」
朝霧は、それを否定しなかった。 「それは、あなたを守ってきた方法です」
守ってきたものと、失ってきたもの。 その両方を並べて考える時間が、診察室に積み重なっていった。
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ある日、彼女は言った。
「職場の先輩に、話しました。食べるのが怖いって」
「どうでしたか」
「引かれませんでした。それが……逆に、怖くて」
朝霧は静かに答えた。 「信頼は、安心ではなく“仮説”です。傷つく可能性も含めての選択です」
彼女は、少し考えてからうなずいた。
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季節が巡る頃、彼女は以前より背もたれに体を預けて座っていた。
「最近……“消えたい”より、“一人じゃないかも”が先に来ます」
朝霧は答えた。 「それは、あなたの世界に戻ってこられる道が増えたということです」
---
診察の終わり際、彼女は尋ねた。
「先生が、どうしてこの仕事をしているのか……聞いてもいいですか」
朝霧は、澪の話をした。 生きることに必死だった少女が、ガラス越しに見守っていたこと。
「彼女は、何かを成し遂げたわけじゃありません。ただ、生きて、見ていた」
彼女は、静かに涙をにじませた。
「……それで、いいんですね」
「ええ。それで、十分だった」
---
帰り際、彼女は小さく言った。
「強くなるより……消えないで、ここにいるほうを選びます」
それは宣言ではなく、選択だった。
朝霧は、その背中を見送りながら思った。 澪は、物語になった。 そして今、彼女は、自分自身の物語を生きている。
糸は、まだ完全にはほどけていない。 けれど、絡まり続けるだけの糸では、もうなかった。
続章
彼女は、以前より少しだけ、自分の気持ちをさらけだすようにになっていた。
「私この前、自分の気持ちをやっといえました」
朝霧は、パソコンを打つ手を止めた。
「それは、どんな場面でしたか」
「残業、頼まれて」 「前なら、何も言わずに引き受けてたと思います」
「どうして、今回は言えたんでしょう」
彼女は、少し考える。
「……断っても、嫌われないかもしれないって」 「前に、話を聞いてもらえたから」
——この人なら、大丈夫かもしれない。
「結果は、どうでしたか」
「普通でした」 彼女は、少し驚いたように言った。 「“分かったよ”って、それだけ」
朝霧は、うなずく。
「それは、とても大事な経験です」
彼女は、首を傾げる。
「大事、ですか?」
「はい」 「世界が、あなたを必ず傷つけるわけではない、と知ったからです」
彼女は、ゆっくり息を吐いた。
別の日。
彼女は、診察室に入るなり言った。
「先生、昨日……」 言葉を選ぶ。 「全部、守れなかったです」
朝霧は、静かに聞いた。
「何が、起きましたか」
「食べすぎました」 「止められなくて……でも」
「でも」
「……先輩に、メッセージしました」 「“今、ちょっとつらいです”って」
朝霧の目が、わずかに揺れた。
「返事は」
「“無理しなくていいよ”って」 「それだけなのに……」 彼女は、胸に手を当てる。 「少し、落ち着きました」
さらに、少し時間が経った頃。
彼女は、こう言った。
「最近……食べる前に」 「“これで嫌われるわけじゃない”って、思い出せる瞬間が増えました」
朝霧は、穏やかに返す。
「それは、あなたが“痩せていない自分”にも、居場所を作り始めた、ということです」
彼女は、目を伏せたまま、うなずいた。
「……まだ、怖いです」 「でも、ひとりで耐える時間は、短くなりました」
診察室の光は、柔らかく、変わらない。
「回復って」 朝霧は、静かに言った。 「前の自分に戻ることではありません」 「“頼れる自分”を、増やすことです」
彼女は、小さく笑った。
「手すり、みたいですね」
「ええ」 「つまずかなくなるわけじゃない」 「でも、落ちにくくなる」
彼女は、立ち上がるとき、ほんの一瞬、ためらってから言った。
「……先生」 「信頼するって……こわいことだと思ってました」 「弱みを見せる分、自分の評価がが低くなるって」
朝霧は、首を振る。
「いいえ」 「実際、あなたが、あなたのままで立てる場所が、増えます」
ドアを出るとき、彼女の背中は、以前より少しだけ、まっすぐだった。
症状は、まだある。
怖さも、消えてはいない。
けれど、
信頼は、彼女の世界に“戻ってこられる道”なのだ。
続章 引き継がれたもの
その日は、診察の終わり際だった。
彼女は、いつものように立ち上がりかけて、ふと足を止めた。
「先生」 少し迷ってから、言った。 「……先生が、どうしてこの仕事をしてるのか」 「前に、“昔、苦しかった人を知っている”って言いましたよね」
朝霧は、一瞬だけ、息を置いた。
「ええ」
「……その人のこと」 「聞いても、いいですか」
問いは、軽かった。 けれど、そこにある信頼は、確かだった。
朝霧は、静かに語り始めた。
「彼女は、僕が生まれたとき、同じ病院にいました」 「摂食障害で入院していた、年上の女の子です」
彼女の指が、膝の上で止まる。
「新生児室の前で」 朝霧は続けた。 「毎日、ガラス越しに僕を見ていたそうです」 「名前も知らず、触れることもできないまま」
「……どうして」
「彼女自身が」 朝霧は、言葉を選んだ。 「生きることに、必死だったからです」
彼女は、何も言わなかった。 ただ、聞いていた。
「彼女は、後に亡くなりました」 「でも」 朝霧は、まっすぐに言った。 「彼女がくれた“見守る視線”が、今の僕を作っています」
診察室の空気が、静かに変わった。
「……それって」 彼女は、慎重に言った。 「彼女は、救われたんでしょうか」
朝霧は、すぐには答えなかった。
「分かりません」 「でも」 少し微笑む。 「生きている間、誰かの命を、確かに支えた」
彼女は、目を伏せた。
「……私」 小さな声で言う。 「ずっと、意味のある生き方をしなきゃって、思ってました」 「役に立たないと、生きちゃいけない気がして」
朝霧は、うなずく。
「彼女は」 静かに言う。 「何かを“成し遂げた”わけじゃありません」 「ただ、生きて、見ていた」
彼女の目に、涙がにじんだ。
「……それで、いいんですか」
「ええ」 朝霧は、はっきり言った。 「それで、十分だった」
数日後。
彼女は、診察室に入るなり言った。
「先生」 「……あの人のこと、考えてました」
「澪さんですね」
彼女は、驚いたように顔を上げ、うなずいた。
「私」 言葉を探す。 「もし……もし、私が今、誰かに見られてるだけだとしても」 「それって……無駄じゃないのかもしれないって」
朝霧は、微笑んだ。
「そう思えたんですね」
「はい」 「強くなろう、って思うと、苦しいけど」 「……生き続けよう、なら」 少しだけ、肩の力を抜く。 「できる気がします」
それは、決意というより、選択だった。
さらに、季節が巡る。
彼女は、ある日、こう言った。
「先生」 「私、澪さんみたいに……」 言葉を切り替える。 「誰かを支えたい、とは、まだ思えません」
朝霧は、首を振った。
「それで、いいんです」
「でも」 彼女は、ゆっくり続けた。 「……誰かのそばに、立っていられる自分でいたいとは、思います」
朝霧は、深く、うなずいた。
「それは」 「とても、強い生き方です」
彼女は、窓の外を見た。 春の光が、静かに差している。
「私」 小さく、しかし確かに言った。 「ちゃんと、生きます」 「消えないで、ここに居続けるほうを、選びます」
その言葉は、宣言ではなかった。 誰かに聞かせるためでもない。
自分に向けて、結ばれた約束だった。
朝霧は、その背中を見送りながら、胸の奥で思った。
澪は、物語になった。
そして今、
彼女は、自分自身の物語を、生き始めている。
エピローグ
夕方の診察室は、昼とは違う静けさをたたえていた。
窓の外では、街路樹の影がゆっくりと伸びている。
ガラス越しに注ぐその光は、かつて新生児室を照らしていたものと、どこか重なっていた。
朝霧は、心の中でそっとつぶやく。
——澪。
あなたが遺したものは、今も、生きている。
それは言葉でも、教えでもない。
「生きていていい」という、ただ一つの視線。
物語は終わらない。
――生きていていい。
急がなくていい。
ここにいていい。
誰かに教えられた言葉ではない。
ただ、視線として、確かに受け取ったもの。
それは、今も彼の中で息をしている。
そして、今日もまた、別の誰かへと、そっと手渡されていく。
糸は、ほどけきってはいない。
けれど、もう、ひとりで引きちぎられることもない。
生きることは、完成するものではない。
つながりながら、続いていくものだ。
朝霧は、静かに立ち上がり、次の診察の準備をした。
今日もまた、誰かの「生きる側」に、椅子を置くために。




