第9話 調査中断
矢崎からメールが届いたのは、募集開始の前日だった。
件名は「資料返却のお願い」。
本文は、極めて事務的だった。
> お世話になっております。
> 先日の調査、誠にありがとうございました。
> つきましては、調査時にお渡しした資料一式をご返却いただけますでしょうか。
> また、調査で取得されたデータ(録音、写真等)につきましても、削除をお願いできればと存じます。
> 何卒よろしくお願いいたします。
私は、画面を見つめた。
資料の返却は、理解できる。
でも、データの削除まで──
これは、明らかに証拠の隠滅だった。
私は、返信を書いた。
> 承知しました。
> 資料は明日お返しします。
> ただし、データの削除については、少し考えさせてください。
送信してから10分後、電話が鳴った。
矢崎だった。
「すみません、急に」
「いえ」
彼は、少し躊躇ってから続けた。
「データの件ですが……これは会社からの正式な要請なんです」
「法的な根拠はありますか」
「いえ、ありませんが……」
矢崎は、言葉を選んだ。
「お願い、という形です」
「断ったら?」
「……困ります」
彼の声は、疲れていた。
「正直に言います。上からかなり圧力がかかっているんです」
「圧力?」
「この件を、なかったことにしたいんです。会社は」
私は、黙った。
矢崎は、続けた。
「募集を開始する以上、過去の調査記録は残したくない。もし後で問題になった時、『調査はしたが、異常は見つからなかった』という立場を取りたいんです」
「でも、異常はあった」
「証明できないんです」
矢崎の声が、掠れた。
「法務が言うには、『主観的な判断に基づく調査結果は、法的効力を持たない』と」
私は、深呼吸をした。
「分かりました。データは削除します」
「……本当にいいんですか」
「いいえ。良くありません」
私は、はっきりと言った。
「でも、矢崎さんの立場も分かります。これ以上、あなたを困らせたくない」
矢崎は、しばらく黙っていた。
「……ありがとうございます」
そして、彼は小さく付け加えた。
「すみません。本当に、すみません」
電話は、そこで切れた。
翌日、私はエリアプランニングのオフィスに資料を返却しに行った。
受付で矢崎を呼び出してもらうと、彼はすぐに降りてきた。
「お待ちしておりました」
私は、封筒に入れた資料を渡した。
「すべて、ここに」
「ありがとうございます」
矢崎は、封筒を受け取った。
そして、小声で尋ねた。
「データは……」
「削除しました」
私は、嘘をついた。
実際には、バックアップを取ってある。
でも、それを言う必要はなかった。
矢崎は、安堵したように息を吐いた。
「ありがとうございます」
私は、次の質問をした。
「募集は、明日からですか」
「はい」
「内見の予約は?」
矢崎は、少し躊躇ってから答えた。
「……既に3件、入っています」
私は、目を見開いた。
「もう?」
「ええ。家賃が安いので」
矢崎は、苦しそうに続けた。
「立地も良いですし、リフォーム済みですから」
「告知事項は?」
「ありません」
彼は、俯いた。
「法的には、告知すべき事項が存在しないので」
私は、黙った。
矢崎は、さらに続けた。
「備考欄には……『詳細はお問い合わせください』とだけ記載しています」
「詳細?」
「はい。でも、実際に問い合わせが来ても……何も答えられることはありません」
彼は、顔を上げた。
「これで、いいんでしょうか」
私は、答えられなかった。
良くない。
でも、どうすることもできない。
私は、最後の質問をした。
「もし、契約が決まったら……教えてもらえますか」
矢崎は、少し考えてから頷いた。
「……個人的に、お伝えします」
「ありがとうございます」
私たちは、握手を交わした。
そして、私はオフィスを出た。
その日の夜、私は自宅で録音データを聞き直していた。
ゴトッ、ゴトッ、ゴトッ。
何度聞いても、不気味な音だった。
誰かが這っている音。
いや──
出られなくなった誰かが、必死に這っている音。
私は、データを保存した。
削除したと言ったが、実際には外付けハードディスクに移しただけだ。
これが、唯一の証拠だった。
でも──
これを、どう使えばいいのか。
私は、パソコンを閉じた。
そして、窓の外を見た。
杉並区の方角を、ぼんやりと見つめる。
あの部屋は、今日も静かにそこにあるのだろう。
誰も住んでいない部屋。
でも、確かに誰かが──3人が、そこに残されている部屋。
そして明日から、また新しい誰かが内見に来る。
家賃が安い。
立地が良い。
リフォーム済み。
条件は、完璧だ。
誰かが、契約するだろう。
そして──
1年後、その人も消えるのだろうか。
私は、目を閉じた。
翌週、矢崎から連絡があった。
「内見が終わりました」
「契約は?」
「……1件、申し込みがありました」
私の心臓が、跳ねた。
「誰ですか」
「20代の女性です。派遣社員の方で」
矢崎は、言葉を切った。
「田所さんと、似た属性の方です」
私は、唇を噛んだ。
「止められませんか」
「どうやって?」
矢崎の声は、諦めに満ちていた。
「『この部屋に住むと消えます』と言うんですか」
私は、何も言えなかった。
矢崎は、続けた。
「審査は来週です。おそらく、通ります」
「入居は?」
「来月の初めを予定しています」
私は、深呼吸をした。
「その人に……何か伝えることはできませんか」
「何を?」
「せめて……『過去に入居者がいたこと』くらい」
矢崎は、黙った。
しばらくして、彼は答えた。
「……考えてみます」
そして、電話は切れた。
その夜、私はもう一度コーポ青葉を訪れた。
建物の前に立ち、203号室を見上げる。
窓には、「募集中」の貼り紙がまだ貼ってあった。
でも、来週にはそれも剥がされるだろう。
新しい入居者が決まったのだから。
私は、建物の入り口に近づいた。
そして──
階段を上り、203号室の前に立った。
ドアは、静かに閉まっている。
私は、ドアに手を当てた。
冷たい。
でも、中には──
確かに、誰かがいる気がした。
見えない誰かが。
記録されるが、認識されない誰かが。
私は、ドアに向かって小さく呟いた。
「すみません」
何に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。
ただ──
何もできなかったことへの、謝罪。
私は、階段を降りた。
そして、建物を出ようとした時──
背後で、音がした。
ゴトッ。
私は、振り返った。
2階、203号室の方。
でも、何も見えない。
ただ──
暗い窓が、こちらを見つめていた。
私は、足早にその場を離れた。
翌日、矢崎から最後のメールが届いた。
件名は「ご報告」。
> お世話になっております。
> 先日の物件ですが、契約が確定いたしました。
> 入居は来月5日を予定しております。
> 長らくお世話になり、ありがとうございました。
> 今後、この件についてのご連絡は控えさせていただきます。
> 何卒ご理解のほど、よろしくお願いいたします。
私は、画面を見つめた。
「今後、この件についてのご連絡は控えさせていただきます」
つまり──
調査は、完全に終了した。
そして、会社としては「なかったこと」にされた。
私は、返信を書いた。
> 承知しました。
> お疲れ様でした。
送信してから、私はすべての資料をフォルダにまとめた。
「コーポ青葉203号室_調査記録」
そして、そのフォルダを、外付けハードディスクに保存した。
いつか、これが必要になる日が来るかもしれない。
あるいは──
永遠に、日の目を見ないかもしれない。
私は、パソコンを閉じた。
調査は、終わった。
でも──
何も解決していなかった。




