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告知義務外物件  作者: 菊池まりな


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第7話 事故の正体(未確定)

調査を始めてから、2週間が経っていた。


私の手元には、膨大な記録が集まっていた。


契約書、入金記録、退去通知、近隣住民の証言、録音された音──


すべてが揃っている。


でも、何も分かっていない。


私は、もう一度すべての資料を並べた。


そして、ひとつの仮説を立てた。



翌日、私は矢崎と、コーポ青葉の大家に会うことになった。


大家は60代の男性で、この建物を20年近く所有している。


「田所さん?ああ、確かに入居者にいましたよ」


彼は、あっさりと答えた。


「覚えていらっしゃるんですか」


「ええ、まあ……記録には残ってますからね」


彼の答えは、微妙だった。


「実際にお会いになったことは?」


「入居の時に、一度だけ」


「どんな方でしたか」


大家は、少し考えてから答えた。


「……普通の、若い女性でしたよ」


「顔は覚えていますか」


「いや……正直、あまり」


彼は、少し困ったように笑った。


「おかしいですね。つい3年前のことなのに」


私は、核心に触れた。


「あの部屋で、何か起きましたか」


大家は、表情を変えた。


「何か、とは?」


「事故、事件、あるいは……何か普通じゃないこと」


大家は、黙った。


しばらくの沈黙の後、彼は口を開いた。


「……分からないんです」


「分からない?」


「何が起きたのか。いや、何かが起きたのかどうかも」


彼は、窓の外を見た。


「ただ……あの部屋は、おかしいんです」


「おかしい?」


「人が住むと、消えるんです」


私は、身を乗り出した。


「消える?」


「ええ。正確には……記憶から消える、というべきか」


大家は、ため息をついた。


「実は、田所さんが最初じゃないんです」


私と矢崎は、顔を見合わせた。


「どういうことですか」


「あの部屋、過去にも何度か入居者がいたんですが……」


大家は、ゆっくりと続けた。


「皆、同じなんです。住んでいる間は普通に契約が続いて、家賃も払われる。でも、退去すると……その人のことを、誰も思い出せなくなる」


私は、メモを取り始めた。


「それは、いつからですか」


「10年くらい前からかな。最初は気づかなかった。でも、3人目の時に、おかしいと思ったんです」


「3人?」


「ええ。田所さんを含めて、これまでに3人」


大家は、古いノートを取り出した。


「記録だけは、残しているんです」


ノートには、手書きで入居者の情報が書かれていた。


2014年4月〜2015年3月: 山田健太(仮名)

2017年10月〜2018年9月: 佐藤麻衣(仮名)

2020年4月〜2021年3月: 田所真理子


「この3人とも……」


「ええ。退去後、誰も彼らのことを覚えていない。私も含めて」


大家は、ノートを閉じた。


「でも、契約は正常に終了している。家賃の滞納もない。警察も、救急も、何も記録がない」


「では、事故物件ではない?」


大家は、苦しそうに答えた。


「分からないんです。告知すべき『事故』が、起きたのかどうか」


私は、尋ねた。


「この3人の、その後の足取りは?」


「追えていません。連絡先は分かっていても、誰も応答しない。家族に確認しても……」


「覚えていない?」


「ええ」


大家は、頭を抱えた。


「これは、一体何なんでしょうか」


私は、しばらく黙ってから、答えた。


「おそらく……『事故』は起きていません」


矢崎が、声を上げた。


「では、何が?」


「事故が起きたのではなく……」


私は、言葉を選んだ。


「住んでいた人が、部屋から『出られなくなった』んです」


「出られなくなった?」


「ええ。物理的には退去している。記録上も、契約は終了している。でも……」


私は、203号室を見上げた。


「その人の『存在』が、部屋に残ったまま出られなくなっている」


大家は、息を呑んだ。


「存在が……残る?」


「はい。だから、誰も彼らのことを思い出せない。その人の存在が、この部屋に吸収されてしまっているから」


私は、録音機を取り出した。


「この音を聞いてください」


ゴトッ、ゴトッ、ゴトッ。


大家の顔が、青ざめた。


「これは……」


「何かが這う音です。おそらく、田所さんが……出ようとして、出られなかった音」


矢崎が、震える声で尋ねた。


「では、田所さんは今も……」


「あの部屋に、いるのかもしれません」


私は、はっきりと言った。


「見えない形で。記録されるが、認識されない形で」


大家は、立ち上がった。


「では、どうすればいいんですか」


私は、答えられなかった。


これをどう告知すればいいのか。


「死亡事故」ではない。


「自殺」でもない。


「事件」でもない。


ただ──


人が、部屋から出られなくなっている。


私は、矢崎を見た。


「これは……告知義務が発生しますか」


矢崎は、困惑した表情で首を振った。


「分かりません。法的には……」


彼は、言葉を探した。


「『心理的瑕疵』に該当するのか。でも、何が起きたのか証明できない」


「では、告知しなくてもいい?」


「いえ、それも……」


矢崎は、頭を抱えた。


「何をどう告知すればいいのか、分からないんです」


私は、窓の外を見た。


203号室の窓が見える。


カーテンのない、暗い窓。


そこに──


ふと、何かが動いた気がした。


でも、目を凝らしても、何も見えない。


私は、大家に尋ねた。


「この部屋、今後も募集を続けるんですか」


大家は、長い沈黙の後、答えた。


「……分かりません」


「でも、空室のままでは?」


「空室でいいんです」


大家は、強い口調で言った。


「これ以上、誰かが消えるのは嫌だ」


私は、頷いた。


そして、最後の質問をした。


「もし……次に誰かが入居したら、どうなりますか」


大家は、私を見た。


目には、恐怖が浮かんでいた。


「おそらく……同じことが起きます」


「同じこと?」


「その人も、1年後には……誰も覚えていなくなる」


大家は、窓の外を見た。


「そして、あの部屋に……溶けていく」



その日の夜、私は報告書を書き始めた。


でも、何をどう書けばいいのか分からなかった。


調査結果:


- 事故・事件の記録なし

- 死亡者なし

- 警察・救急の出動記録なし

- 契約は正常に終了


でも──


-前入居者の行方不明

-近隣住民の記憶欠落

-夜間の異常音

-存在の消失


私は、キーボードから手を離した。


これは、事故物件なのか。


それとも──


事故が起きていないから、告知できない物件なのか。


私は、「告知義務」という言葉の意味を、改めて考えた。


告知義務とは、「心理的瑕疵」を借主に伝える義務だ。


でも、「人が消える」ということは、心理的瑕疵に該当するのか。


法律上、どう判断されるのか。


そして──


もし告知したとして、誰が信じるのか。


私は、報告書に一文だけ書いた。


「当該物件について、告知義務の発生有無は、未確定」


そして、括弧書きで付け加えた。


「ただし、新規入居は推奨しない」




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