第6話 前入居者
録音された音を何度も聞き直した。
ゴトッ、ゴトッ、ゴトッ。
規則的な、何かが這う音。
でも、この音を立てていたのは誰なのか。
そして──田所真理子は、今どこにいるのか。
私は、もう一度派遣会社に連絡を取った。
「以前お問い合わせいただいた田所真理子さんの件ですが……」
担当者の声が、少し躊躇いがちになった。
「実は、当社でも少し調べまして」
「何か分かりましたか」
「契約満了後、本人からの連絡が一切ないんです」
「更新の意思確認は?」
「メールで行いました。『更新しない』という返信はありました。でも……」
担当者は、言葉を選ぶように続けた。
「その後、源泉徴収票を送付したんですが、返送されてきたんです」
「返送?」
「はい。『宛所に尋ねあたりません』と書かれて」
私は、メモを取った。
「送付先は?」
「契約書に記載されていた住所です。コーポ青葉203号室」
「でも、その時にはもう退去していたはずでは?」
「ええ。だから転居先を確認しようとしたんですが……本人と連絡が取れなくて」
担当者は、ため息をついた。
「結局、源泉徴収票は未送付のままです」
私は、次の質問をした。
「派遣先の企業には、確認されましたか」
「はい。そちらでも、田所さんの記憶が曖昧だと」
「曖昧?」
「『確かに派遣社員がいた』とは言うんですが、誰も詳しく覚えていないんです。デスクの場所、担当していた業務、全部記録には残っているんですが……」
担当者の声が、少し不安げになった。
「人事の方も、不思議がっていました。1年間働いていた人のことを、誰も覚えていないなんて」
私は電話を切り、次に矢崎に連絡した。
「田所さんの住民票、取得できませんか」
「個人情報保護の関係で難しいですが……契約時の本人確認資料なら、コピーがあります」
「見せていただけますか」
その日の午後、私は再びエリアプランニングのオフィスにいた。
矢崎が持ってきたのは、運転免許証のコピーだった。
氏名:田所真理子
生年月日:平成4年6月15日
住所: 東京都杉並区荻窪○-○-○ コーポ青葉203号室
顔写真も、確かに写っている。
20代後半の女性。
普通の、どこにでもいそうな顔立ち。
でも──
私は、この顔を覚えられなかった。
今見ているのに、目を離すと印象が消えていく。
「この免許証、有効期限は?」
矢崎が確認した。
「2024年6月まで、となっていますね」
「では、まだ有効なはずです」
私は、警察に問い合わせることにした。
運転免許証の照会には、正式な手続きが必要だ。
しかし、行方不明の可能性がある人物の調査として、警察に協力を依頼することはできる。
私は所轄の警察署を訪ねた。
生活安全課の窓口で、事情を説明する。
「田所真理子さんという方の所在を探しているんですが……」
担当の警察官は、端末で検索を始めた。
「少々お待ちください」
数分後。
「……田所真理子さん、平成4年6月15日生まれの方ですね」
「はい」
「運転免許証の記録はありますが……」
警察官は、画面を見つめたまま黙った。
「何か?」
「記録が、不完全なんです」
「不完全?」
「住所変更の履歴が、途中で途切れています。2021年3月以降、更新記録がないんです」
「失効したということですか」
「いえ、失効の記録もありません。ただ……消えているんです」
警察官は、困惑した表情で続けた。
「システム上のエラーかもしれませんが……こういうケースは、初めて見ました」
私は、次の質問をした。
「失踪届は出ていますか」
「確認します」
また、端末を操作する音。
「……出ていません」
「では、事件や事故の記録は?」
「ありません」
警察官は、私を見た。
「この方、本当に行方不明なんですか」
私は、答えられなかった。
行方不明なのか。
それとも──
最初から、いなかったのか。
私は、コーポ青葉に戻った。
もう一度、近隣住民に話を聞く必要があると思った。
まず訪ねたのは、102号室の高齢男性。
「以前お話を伺った者ですが、もう少し詳しく教えていただけませんか」
「ああ、どうぞ」
彼は、私を部屋に招き入れた。
「田所さんのこと、何か思い出されましたか」
彼は、首を傾げた。
「いや……やっぱり、よく思い出せないんだよな」
「最後に見かけたのは、いつ頃ですか」
「それが……覚えてないんだ」
彼は、困ったように笑った。
「でも、確かに住んでたんだよ。ゴミ出しの時に会ったし」
「どんな様子でしたか」
「普通だったよ。挨拶して、それだけ」
「声は?」
「……思い出せない」
「背格好は?」
「……分からない」
彼は、頭を抱えた。
「変だな。確かに会ったはずなのに、何も思い出せない」
私は、次の質問をした。
「田所さんが引っ越す時、業者は来ましたか」
「いや、見てない」
「荷物を運び出す音は?」
「聞いてない」
「では、いつの間にかいなくなっていた?」
「そう……気づいたら、空室になってた」
彼は、窓の外を見た。
「まるで、最初からいなかったみたいに」
私は、203号室の前に立った。
鍵を開け、中に入る。
昼間の部屋は、明るく静かだった。
でも、この部屋で確かに「音」が鳴った。
誰かが這う音。
そして、誰もいないはずの床が、温かかった。
私は、床に座った。
田所真理子は、ここで1年間暮らした。
でも、誰も彼女のことを覚えていない。
契約は成立し、家賃も支払われ、退去も正常に処理された。
でも──
彼女は、どこへ消えたのか。
私は、ふと気づいた。
彼女は「失踪した」わけではない。
「死亡した」わけでもない。
記録上は、正常に退去している。
でも、その後の足取りが、完全に消えている。
まるで──
契約が終わった瞬間に、存在が消滅したかのように。
私は、矢崎に電話をかけた。
「退去時の立会いは、誰が行いましたか」
「管理会社の担当者です」
「その方に、話を聞けますか」
「確認してみます」
数時間後、矢崎から連絡があった。
「立会いをした担当者ですが……」
「はい」
「当日のことを、ほとんど覚えていないそうです」
私は、予想していた答えだった。
「鍵は返却されていますか」
「はい。郵便受けに入っていました」
「本人とは会っていない?」
「会っていません」
私は、深呼吸をした。
そして、尋ねた。
「矢崎さん、これは本当に『退去』だったんでしょうか」
電話の向こうで、矢崎が黙った。
「……どういう意味ですか」
「田所真理子という人物は、本当にこの部屋から『出て行った』んでしょうか」
「では、どこへ?」
私は、203号室を見渡した。
「もしかしたら──」
私は、言葉を選んだ。
「彼女は、まだここにいるのかもしれません」
矢崎の呼吸が、止まった。
「でも、誰も見えない。誰も覚えていない。ただ、音だけが記録される」
私は、床に手を当てた。
「この部屋に、彼女の存在が……溶けているんです」
そして、私は気づいた。
あの「這う音」。
あれは──
出ようとして、出られなかった音だったのではないか。




