第5話 音
矢崎に提案したのは、私からだった。
「一晩、あの部屋で過ごさせてもらえませんか」
電話の向こうで、矢崎が黙った。
「……何か、分かると思いますか」
「分かりません。でも、近隣住民が聞いた『音』が本当にあるなら、確認したいんです」
矢崎は、しばらく考えてから答えた。
「分かりました。鍵をお渡しします」
その日の夜、私は203号室にいた。
室内には何もない。
持ち込んだのは、寝袋、懐中電灯、録音機、そしてノートパソコンだけ。
時刻は午後9時。
窓の外は、既に暗くなっていた。
私は部屋の中央に座り、録音機のスイッチを入れた。
小さな赤いランプが点灯する。
これで、何か音が鳴れば記録される。
部屋は、静かだった。
隣の202号室からは、テレビの音が微かに聞こえる。下の階からは、誰かが歩く音。
普通の生活音だ。
でも──
この部屋からは、生活音が聞こえなかったと、202号室の住人は言っていた。
1年間、隣に人が住んでいたのに。
私は壁に手を当ててみた。
薄い。
確かに、これなら隣の音は聞こえるはずだ。
なのに、田所真理子が住んでいた時は、何も聞こえなかった。
まるで、この部屋だけが音を吸収していたかのように。
午後10時。
私は寝袋に入り、ノートパソコンで調査記録をまとめていた。
・記録上は完璧に成立
・しかし関係者全員の記憶が曖昧
・父親は娘の存在を否定
・近隣住民は『何かを引きずる音』を証言
そして、最も不可解な点。
・田所真理子は、どこへ消えたのか
午後11時。
私は、ふと気づいた。
部屋が、静かすぎる。
隣のテレビの音が、聞こえなくなっている。
下の階の足音も、聞こえない。
まるで、この部屋だけが世界から切り離されたように。
私は立ち上がり、窓に近づいた。
外を見ると、隣の建物の窓に明かりが灯っている。
人は、確かにそこにいる。
でも、音が聞こえない。
私は録音機を確認した。
赤いランプは、点灯している。
正常に動作しているはずだ。
午前0時。
私は寝袋の中で、目を閉じた。
眠るつもりはなかったが、意識が遠のいていく。
そして──
ゴトッ。
目が覚めた。
何かが動いた音。
私は身を起こし、周囲を見渡した。
部屋の中には、誰もいない。
懐中電灯を点ける。
白い壁、何もない床。
でも、確かに今、音がした。
ゴトッ、ゴトッ。
また聞こえた。
何かを引きずるような音。
近隣住民が証言していた音だ。
私は録音機を確認した。
赤いランプが点滅している。
録音されている。
ゴトッ、ゴトッ、ゴトッ。
音は、規則的に響いていた。
まるで、誰かが重いものを少しずつ動かしているような。
でも、室内には何もない。
音は、どこから聞こえているのか。
私は懐中電灯を持って、部屋の中を確認した。
キッチン、ユニットバス、クローゼット。
どこにも、何もない。
でも、音は続いている。
ゴトッ、ゴトッ、ゴトッ。
そして──
止んだ。
突然、完全な静寂が訪れた。
私は、その場に立ち尽くした。
時計を見る。
午前1時23分。
音が鳴り始めてから、約10分間。
私は録音機を止め、再生ボタンを押した。
スピーカーから、音が流れ出した。
ゴトッ、ゴトッ、ゴトッ。
確かに、録音されている。
でも──
この音は、何なのか。
家具を動かす音?
でも、室内には何もない。
上の階からの音?
でも、この建物は2階建てだ。203号室の上には、何もない。
私は窓を開けて、外を確認した。
誰もいない。
隣の建物も、静かだ。
そして、ふと気づいた。
録音された音を、もう一度聞き直す。
ゴトッ、ゴトッ、ゴトッ。
この音、何かに似ている。
何かを引きずる音──
いや、違う。
これは──
何かが、這っている音だ。
膝をついて、床を這っている。
ゴトッ、ゴトッ、ゴトッ。
一歩ずつ、ゆっくりと。
でも、誰が?
この部屋には、誰もいなかった。
私は、録音機を握りしめた。
そして、もう一度部屋を見渡した。
白い壁。
何もない床。
でも──
本当に、誰もいないのか。
私は、ふとクローゼットの方を見た。
扉は閉まっている。
開けた時、中には何もなかった。
でも──
私は、ゆっくりとクローゼットに近づいた。
手を伸ばし、扉に触れる。
冷たい。
深呼吸をして、扉を開けた。
中には──
何もなかった。
ただの、空のクローゼット。
私は、安堵の息を吐いた。
そして、扉を閉めようとした瞬間──
ゴトッ。
背後で、音がした。
私は、振り返った。
部屋の中央、私が先ほどまで座っていた場所。
そこに──
何もない。
でも、確かに今、音がした。
私は、その場所に近づいた。
床を見る。
フローリング。
傷ひとつない、綺麗な床。
でも──
私は、床に手を当てた。
そして、気づいた。
床が、微かに温かい。
まるで、誰かがつい先ほどまで、ここに座っていたかのように。
私は、手を引いた。
時計を見る。
午前2時。
私は、録音機を持って、部屋を出た。
翌朝、矢崎に録音を聞かせた。
ゴトッ、ゴトッ、ゴトッ。
矢崎は、黙って聞いていた。
「これは……」
「何かを引きずる音、ではありません」
「では?」
私は、はっきりと答えた。
「何かが、這っている音です」
矢崎は、顔を上げた。
「這っている?」
「ええ。でも、室内には誰もいませんでした」
私は、録音機を置いた。
「そして、音が止んだ場所の床が、温かかった」
矢崎は、息を呑んだ。
「……つまり」
「誰かが、そこにいた可能性があります」
「でも、あなたは誰も見ていない」
「はい」
矢崎は、しばらく黙ってから、尋ねた。
「これは……告知義務が発生しますか」
私は、答えられなかった。
何が起きたのか、まだ分からない。
でも、確かに何かが、あの部屋にいる。
いや──
いた。
そして今も、いるのかもしれない。
見えない誰かが。
記録されるが、認識されない誰かが。
田所真理子のように──
現実から、少しだけずれた場所に。




