第4話 記録の不一致
矢崎から連絡が来たのは、聞き込みから二日後だった。
「お時間ありますか。管理会社の記録を確認したんですが……一度、お見せしたいものがあります」
私たちは、エリアプランニングのオフィスで会った。
会議室に通されると、矢崎はテーブルの上に数枚の書類を広げた。
「これが、2020年4月から2021年3月までの、203号室に関する記録です」
私は書類を見た。
入居申込書、契約書、家賃の入金記録、退去通知、鍵の返却確認書──すべてが揃っていた。
「完璧ですね」
「ええ。契約上は、何の問題もありません」
矢崎は、その中から一枚を取り出した。
「でも、これを見てください」
それは、管理会社の業務日報だった。
2021年2月27日の記録。
> 物件名: コーポ青葉
> 対応内容: 203号室、近隣からの騒音に関する問い合わせ対応
> 詳細:102号室住人より、夜間の物音について連絡あり。当該部屋に電話連絡を試みるも不通。翌日訪問予定。
私は顔を上げた。
「騒音の苦情があったんですか」
「はい。でも……」
矢崎は次のページをめくった。
2月28日の記録。
> 物件名: コーポ青葉
> 対応内容: 203号室訪問
> 詳細: インターホン応答なし。ドア越しに呼びかけるも反応なし。緊急連絡先に電話するも繋がらず。後日再訪問予定。
「誰もいなかった?」
「記録上は、そうなっています」
矢崎は、さらにページをめくった。
3月1日。
> 物件名: コーポ青葉
> 対応内容: 203号室再訪問
> 詳細:本日も応答なし。ただし郵便受けに郵便物の蓄積は見られず。室内に生活の気配あり。契約者本人からメールにて『問題ありません』との返信あり。対応完了。
私は矢崎を見た。
「メールで返信があった?」
「はい。このメールです」
彼はスマートフォンを取り出し、画面を見せた。
> 件名:Re: ご訪問の件
> お世話になっております。
> ご心配をおかけして申し訳ございません。
> 特に問題はありませんので、ご安心ください。
> 田所真理子
文面は、極めて簡潔だった。
「これで、対応は終了したんですか」
「はい。本人から『問題ない』と返信があったので、それ以上の対応は行いませんでした」
私はメモを取った。
「この後、騒音の苦情は?」
「ありません。3月以降、一切の連絡はなくなりました」
矢崎は、書類をまとめながら続けた。
「それで……警察にも確認を取ったんです」
「何か分かりましたか」
「事件性のある通報記録は、ありませんでした」
「救急は?」
「そちらも確認しました。2020年4月から2021年3月の間、コーポ青葉からの出動要請は一件もありません」
私は腕を組んだ。
「つまり、公的な記録では何も起きていない」
「はい」
「でも、近隣住民は音を聞いている」
「はい」
「そして、管理会社には騒音の苦情が入っている」
矢崎は頷いた。
「全部が、ギリギリ成立しているんです」
「ギリギリ?」
「騒音があった──でも、本人は『問題ない』と返信した。だから対応は完了」
矢崎は、書類を指差した。
「事故や事件があった──でも、警察も救急も記録がない。だから『何もなかった』」
「契約も正常に終了している」
「はい。退去通知も、鍵の返却も、すべて記録通り」
矢崎は、深く息を吐いた。
「でも、誰も田所真理子のことを覚えていない。彼女がどんな人だったか、どこへ行ったのか、誰も知らない」
私は、書類を見つめた。
完璧な記録。
完璧な手続き。
でも、その中心にいたはずの人間が、誰の記憶にも残っていない。
「矢崎さん」
「はい」
「田所さんの緊急連絡先は?」
矢崎は、契約書のコピーを取り出した。
> 緊急連絡先: 田所健一(父)
> 電話番号:090-XXXX-XXXX
「連絡を取りましたか」
「はい。でも……」
矢崎は言葉を濁した。
「繋がらなかったんですか」
「いえ、繋がりました」
「では?」
矢崎は、困惑したように眉をひそめた。
「『田所真理子という娘はいない』と言われました」
私は目を見開いた。
「いない?」
「はい。何かの間違いではないか、と」
「でも、契約書には……」
「記載されています。本人確認も行っています。保証人としての書類も、すべて揃っています」
矢崎は、書類の束を指差した。
「でも、本人は『そんな娘はいない』と」
私は黙り込んだ。
記録は完璧に揃っている。
契約は成立している。
でも、当事者たちの記憶が、すべて曖昧になっている。
「もう一つ、確認したいことがあります」
「何でしょう」
「田所さんの派遣会社、連絡先を教えていただけますか」
矢崎は頷き、メモを渡してくれた。
その日の午後、私は派遣会社に電話をかけた。
人事部に繋がり、田所真理子という人物について尋ねた。
「少々お待ちください」
保留音が流れた。
数分後、担当者が戻ってきた。
「お待たせしました。田所真理子さんですが……記録を確認したところ、2019年10月から2021年4月まで、当社に登録がありました」
「契約は?」
「2020年4月から2021年3月まで、都内の企業に派遣されていた記録があります」
「その後は?」
「契約満了です。本人の希望で、更新はされませんでした」
「現在の連絡先は?」
「申し訳ございません。個人情報のため、お答えできません」
「では、在籍していたことは確かですね」
「はい。記録上は、確かに」
私は礼を言って、電話を切った。
記録上は、確かに。
すべてが「記録上は」成立している。
でも、現実には誰も彼女を覚えていない。
私は、もう一度コーポ青葉へ向かった。
夕暮れ時、建物の前に立つ。
203号室の窓を見上げた。
誰もいない部屋。
でも、確かに誰かが住んでいた部屋。
そして、誰かが消えた部屋。
私は、ふと思った。
もし、田所真理子が本当に存在していたなら──
彼女は今、どこにいるのか。
もし、彼女が最初から存在していなかったなら──
この完璧な記録は、何のために作られたのか。
そして。
夜中に響いた「音」は、誰が立てたのか。
建物の中から、誰かが出てきた。
202号室の住人だ。
彼女は私に気づき、会釈した。
「また、来てたんですね」
「ええ。少し調べ物を」
彼女は、203号室の方を見た。
「あの部屋、誰か決まったんですか」
「いえ、まだです」
「そうですか……」
彼女は、少し不安そうに付け加えた。
「早く、誰か入ればいいんですけどね」
「なぜですか」
彼女は、小さく笑った。
「なんか……空いてると、落ち着かなくて」
「?」
「あの部屋、誰もいないはずなのに、時々……」
彼女は言葉を止めた。
「時々?」
「……いえ、気のせいです」
そう言って、彼女は足早に去っていった。
私は、もう一度203号室を見上げた。
暗い窓。
何もない部屋。
でも──
本当に、何もないのか。




