第3話 近隣証言
聞き込みを始めたのは、翌日の午後だった。
まずは、202号室──田所真理子が住んでいた部屋の隣から。
インターホンを押すと、30代くらいの女性が出てきた。エプロンをつけていて、在宅ワークをしているのかもしれない。
「すみません、不動産関係の者なんですが、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」
彼女は少し警戒した様子だったが、名刺を見せると、ドアを開けてくれた。
「隣の203号室についてなんですが……」
「ああ、空いてる部屋ですね」
「はい。以前、田所真理子さんという方が住んでいたと記録にあるんですが、覚えていらっしゃいますか」
彼女は首を傾げた。
「田所……さん?」
「2020年の4月から、翌年の3月まで。約1年間です」
彼女は、しばらく考え込んだ。
「……人は、住んでました」
「覚えていらっしゃるんですね」
「ええ、まあ……でも」
彼女は言葉を濁した。
「でも?」
「顔とか、名前とか……はっきり思い出せないんです」
私はメモを取りながら尋ねた。
「どんな方でしたか」
「それが……」
彼女は困ったように笑った。
「静かな人、だったと思います。挨拶はしたような気がするんですけど……何を話したかは、覚えてなくて」
「トラブルはありましたか」
「いえ、全然。むしろ、物音ひとつしない人でした」
「物音ひとつ?」
「ええ。壁が薄いんで、普通は生活音が聞こえるんですけど……あの人の部屋からは、ほとんど何も聞こえなかったんです」
彼女は、少し不思議そうに付け加えた。
「だから逆に、本当に住んでたのかなって、時々思ったくらいで」
私は次の質問をした。
「最後に見かけたのは、いつ頃ですか」
彼女は、また首を傾げた。
「……分からないです。気づいたら、いなくなってた感じで」
「引っ越しの様子は?」
「見てません」
「荷物を運び出す音とかも?」
「聞こえませんでした」
私は視線を上げた。
「ある日突然、いなくなった?」
「そう、ですね……」
彼女は不安そうに笑った。
「変ですよね。でも本当に、そんな感じだったんです」
私は彼女に礼を言って、次の部屋へ向かった。
1階の101号室の隣、102号室には、高齢の男性が住んでいた。
「203号室?ああ、あの部屋ね」
彼はすぐに反応した。
「何かご存知ですか」
「いや、詳しくは知らないけど……人は住んでたよ」
「どんな方でしたか」
「女の人。若かったと思う。でも、顔はよく覚えてない」
「会ったことは?」
「ゴミ出しの時に、何度か」
「話はしましたか」
「挨拶くらいは。でも……」
彼は腕を組んだ。
「なんて言うか、印象に残らない人だったんだよな」
「印象に残らない?」
「ああ。いい人でも悪い人でもなく、ただ……そこにいた、って感じ」
私は質問を変えた。
「何か、変わったことはありませんでしたか」
「変わったこと?」
「はい。騒音とか、トラブルとか」
彼は少し考えてから、首を振った。
「特には。ただ……」
「ただ?」
「夜中に、変な音がしたことはあったな」
私は手を止めた。
「変な音?」
「何かを引きずるような音。ゴトゴト、ゴトゴトって」
「それは、203号室から?」
「いや、どこから聞こえたかは分からない。でも、あの頃だったと思う」
「頻繁に?」
「いや、数回だけ。それも、途中で止んだ」
彼は窓の外を見た。
「気にはなったけど、まあ、引っ越しの準備でもしてるのかと思ってた」
私はメモに書き込んだ。
・夜中に何かを引きずる音
・数回のみ、途中で止む
「その音は、いつ頃でしたか」
「2021年の……2月、3月くらいかな」
田所真理子が退去する直前だ。
「ありがとうございます」
私は次の住人へと向かった。
204号室、205号室、そして1階の住人たち。
全員に同じ質問をした。
そして、全員が同じような反応を示した。
「人は住んでた」
「でも、詳しくは覚えてない」
「静かな人だった」
「気づいたら、いなくなってた」
誰も、田所真理子という名前を覚えていなかった。
誰も、彼女の顔を明確に思い出せなかった。
でも、全員が「確かに誰かが住んでいた」と証言した。
そして、何人かが「夜中の音」について触れた。
「何かを引きずるような音」
「ゴトゴト、ゴトゴトという音」
「数回聞こえて、止んだ」
私は、コーポ青葉の前に立ち、メモを見返した。
おかしい。
1年間同じ建物に住んでいた人間を、誰も覚えていないなんてことがあるだろうか。
挨拶をした、ゴミ出しで会った、生活音が聞こえなかった──
断片的な記憶はある。
でも、それが「田所真理子」という一人の人間として、誰の中にも像を結んでいない。
まるで、彼女だけが現実から少しずれた場所にいたかのように。
私は203号室の窓を見上げた。
2階、奥から二番目。
誰もいない部屋。
でも、確かに誰かが住んでいた部屋。
そして、誰かが消えた部屋。
私はもう一度、矢崎に電話をかけた。
「近隣への聞き込みを終えました」
「何か、分かりましたか」
「皆さん、人が住んでいたことは認識しています。でも、誰も詳しく覚えていない」
矢崎は黙った。
「それと……夜中に、音が聞こえたという証言がいくつかありました」
「音?」
「何かを引きずるような音です。2021年の2月から3月、退去直前の時期に」
電話の向こうで、矢崎が息を呑む気配がした。
「……それは」
「何かご存知ですか」
矢崎は、しばらく黙ってから答えた。
「管理会社の記録を、もう一度確認してみます」
「何かあるんですか」
「分かりません。でも……確認します」
電話は、そこで切れた。
私は、建物の前に立ったまま、203号室を見上げた。
カーテンのない窓。
暗い室内。
そこに、田所真理子は確かに1年間住んでいた。
でも今、彼女の存在は誰の記憶にも明確には残っていない。
ただ、「音」だけが記憶されている。
何かを引きずる音。
ゴトゴト、ゴトゴト。
それは、何の音だったのか。
そして──
それは、誰が立てた音だったのか。




