第2話 物件概要
コーポ青葉は、荻窪駅から徒歩12分の住宅街にあった。
周囲には似たような低層マンションが並び、商店街も近い。決して辺鄙な場所ではない。むしろ、生活には便利な立地だ。
矢崎は建物の前で待っていた。紺のスーツを着た、30代前半くらいの男性。オンラインで見た写真より、少し疲れた印象を受けた。
「お待ちしておりました」
握手を交わし、私たちは建物の中へ入った。
エントランスはない。階段を上がると、すぐに各戸のドアが並んでいる。典型的な築20年弱のアパート構造だ。外壁は多少色褪せているが、管理は行き届いている。
203号室は、2階の奥から二番目。
矢崎が鍵を取り出しながら、簡単に説明を始めた。
「この建物は全8戸です。現在の入居率は……」
彼は一瞬、言葉を濁した。
「6戸。この部屋と、あと一室が空室です」
「もう一室は?」
「1階の101号室です。そちらは設備の老朽化で、リフォーム待ちの状態です」
彼はドアを開けた。
内部は、思ったより綺麗だった。
壁紙は白く、床はフローリング。キッチンは小さいが清潔で、ユニットバスも新しく見える。窓からは隣の建物が見えるが、日当たりは悪くない。
25㎡の1K。
間取りとしては、一人暮らしには十分だ。
「内装は?」
「2年前に一度、全面的にリフォームしています。壁紙、床材、水回りの設備……すべて交換しました」
私はメモを取りながら部屋を見渡した。
「前の入居者が退去してから、リフォームしたんですか」
「はい」
「その入居者について、教えていただけますか」
矢崎は、持っていたファイルを開いた。
「契約者の名前は……田所真理子、当時28歳。職業は派遣社員。2020年4月から2021年3月まで、約1年間の入居でした」
「退去理由は?」
「契約満了です。更新はされませんでした」
「それは、本人の意思で?」
矢崎は少し黙った。
「……記録上は、そうなっています」
私は彼の表情を見た。
「記録上は、ということは?」
「退去の連絡は、本人からメールで届いています。管理会社の記録にも残っています。ただ……」
彼はファイルの中から、一枚の書類を取り出した。
それは、退去通知のコピーだった。
> 件名:契約終了のご連絡
> いつもお世話になっております。
> 来月末をもって、契約を終了させていただきたく存じます。
> 鍵は郵便受けに返却いたします。
> よろしくお願いいたします。
> 田所真理子
文面は、極めて事務的だった。
「これだけですか」
「はい。その後、予定通り鍵が郵便受けに返却され、部屋の確認も済ませました。特に問題はありませんでした」
「敷金の精算は?」
「全額返金しています。振込先の口座情報は、契約時のものを使用しました」
私は書類を見ながら尋ねた。
「田所さんには、その後連絡を取っていますか」
矢崎は首を横に振った。
「取ろうとしました。でも、携帯電話は繋がらず、メールも返信がありません。派遣会社にも確認しましたが、既に契約が終了しているとのことでした」
「それは、いつの話ですか」
「退去から……半年後です」
私は部屋の中央に立ち、もう一度周囲を見渡した。
何もない。
本当に、何も残っていない。
「この部屋、リフォーム後に募集はかけましたか」
「はい。2021年6月から募集を開始しました」
「反応は?」
矢崎は、また少し黙った。
「内見の申し込みは……何件かありました。でも、全員が契約に至りませんでした」
「理由は?」
「分かりません。皆さん、『やっぱり』とだけ仰って、辞退されました」
私は窓に近づいた。
外を見ると、隣の建物との距離は3メートルほど。窓と窓が向かい合っている。
「隣の住人とは、トラブルはありましたか」
「いえ、特には」
「田所さんが住んでいた頃も?」
「……記録には、ありません」
私は矢崎を振り返った。
「記録には、というのは?」
彼は視線を逸らした。
「実は……隣の202号室の住人に、一度話を聞いたんです。田所さんのことを覚えているか、と」
「何と?」
「『誰だっけ』と言われました」
私は眉をひそめた。
「1年間、隣に住んでいた人のことを?」
「はい。その方は、もう5年以上この建物に住んでいます。でも、田所さんのことは全く覚えていないと」
矢崎は、ファイルを閉じた。
「他の住人にも聞きました。でも、誰も詳しく覚えていない。『人は住んでた気がする』とは言うんですが、それ以上は……」
私はメモに書き込んだ。
・隣人が1年間の入居者を覚えていない
・内見者が全員辞退
・家賃が相場より2万円安い
そして、最後にひとつ質問した。
「この家賃設定の理由は?」
矢崎は、はっきりと答えなかった。
「……適正価格だと、判断しています」
「相場より安いですよね」
「ええ、まあ……」
彼は言葉を濁した。
「何か、理由があるんですか」
矢崎は、少しの間黙ってから、ようやく口を開いた。
「正直に言います。この部屋を、早く埋めたいんです」
「なぜですか」
「分からないんです。でも……このままだと、何か、良くない気がして」
彼の声は、微かに震えていた。
「それで、私に調査を依頼した?」
「はい。もし、告知義務が発生するなら、ちゃんと記載します。でも、何もないなら、それを証明してほしいんです」
私は部屋をもう一度見渡した。
白い壁、清潔な床、何も置かれていない空間。
ここに、田所真理子という人間が、確かに1年間住んでいた。
なのに、誰も彼女のことを覚えていない。
記録だけが、淡々と存在を証明している。
「分かりました。調査を続けます」
矢崎は、安堵したように息を吐いた。
「ありがとうございます」
私たちは部屋を出て、鍵を閉めた。
廊下を歩きながら、私は尋ねた。
「近隣の方にも、話を聞いてもいいですか」
「もちろんです。ご協力いただけるかは分かりませんが……」
矢崎は階段を降りながら、付け加えた。
「ひとつだけ、お願いがあります」
「何でしょう」
「もし、何か……普通じゃないことが分かったら、教えてください」
彼は、真剣な目で私を見た。
「私も、知りたいんです。この部屋に、何があったのか」
私は頷いた。
そして、建物の外に出た瞬間──
ふと、後ろを振り返った。
2階の203号室の窓が、見えた。
カーテンのない、暗い窓。
そこに、何かが映っている気がした。
でも、目を凝らしても、何も見えなかった。




