表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
告知義務外物件  作者: 菊池まりな


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/4

第2話 物件概要

コーポ青葉は、荻窪駅から徒歩12分の住宅街にあった。


周囲には似たような低層マンションが並び、商店街も近い。決して辺鄙(へんぴ)な場所ではない。むしろ、生活には便利な立地だ。


矢崎は建物の前で待っていた。紺のスーツを着た、30代前半くらいの男性。オンラインで見た写真より、少し疲れた印象を受けた。


「お待ちしておりました」


握手を交わし、私たちは建物の中へ入った。


エントランスはない。階段を上がると、すぐに各戸のドアが並んでいる。典型的な築20年弱のアパート構造だ。外壁は多少色褪せているが、管理は行き届いている。


203号室は、2階の奥から二番目。


矢崎が鍵を取り出しながら、簡単に説明を始めた。


「この建物は全8戸です。現在の入居率は……」


彼は一瞬、言葉を濁した。


「6戸。この部屋と、あと一室が空室です」


「もう一室は?」


「1階の101号室です。そちらは設備の老朽化で、リフォーム待ちの状態です」


彼はドアを開けた。


内部は、思ったより綺麗だった。


壁紙は白く、床はフローリング。キッチンは小さいが清潔で、ユニットバスも新しく見える。窓からは隣の建物が見えるが、日当たりは悪くない。


25㎡の1K。


間取りとしては、一人暮らしには十分だ。


「内装は?」


「2年前に一度、全面的にリフォームしています。壁紙、床材、水回りの設備……すべて交換しました」


私はメモを取りながら部屋を見渡した。


「前の入居者が退去してから、リフォームしたんですか」


「はい」


「その入居者について、教えていただけますか」


矢崎は、持っていたファイルを開いた。


「契約者の名前は……田所真理子、当時28歳。職業は派遣社員。2020年4月から2021年3月まで、約1年間の入居でした」


「退去理由は?」


「契約満了です。更新はされませんでした」


「それは、本人の意思で?」


矢崎は少し黙った。


「……記録上は、そうなっています」


私は彼の表情を見た。


「記録上は、ということは?」


「退去の連絡は、本人からメールで届いています。管理会社の記録にも残っています。ただ……」


彼はファイルの中から、一枚の書類を取り出した。


それは、退去通知のコピーだった。


> 件名:契約終了のご連絡

> いつもお世話になっております。

> 来月末をもって、契約を終了させていただきたく存じます。

> 鍵は郵便受けに返却いたします。

> よろしくお願いいたします。

> 田所真理子(たどころまりこ)


文面は、極めて事務的だった。


「これだけですか」


「はい。その後、予定通り鍵が郵便受けに返却され、部屋の確認も済ませました。特に問題はありませんでした」


「敷金の精算は?」


「全額返金しています。振込先の口座情報は、契約時のものを使用しました」


私は書類を見ながら尋ねた。


「田所さんには、その後連絡を取っていますか」


矢崎は首を横に振った。


「取ろうとしました。でも、携帯電話は繋がらず、メールも返信がありません。派遣会社にも確認しましたが、既に契約が終了しているとのことでした」


「それは、いつの話ですか」


「退去から……半年後です」


私は部屋の中央に立ち、もう一度周囲を見渡した。


何もない。


本当に、何も残っていない。


「この部屋、リフォーム後に募集はかけましたか」


「はい。2021年6月から募集を開始しました」


「反応は?」


矢崎は、また少し黙った。


「内見の申し込みは……何件かありました。でも、全員が契約に至りませんでした」


「理由は?」


「分かりません。皆さん、『やっぱり』とだけ仰って、辞退されました」


私は窓に近づいた。


外を見ると、隣の建物との距離は3メートルほど。窓と窓が向かい合っている。


「隣の住人とは、トラブルはありましたか」


「いえ、特には」


「田所さんが住んでいた頃も?」


「……記録には、ありません」


私は矢崎を振り返った。


「記録には、というのは?」


彼は視線を逸らした。


「実は……隣の202号室の住人に、一度話を聞いたんです。田所さんのことを覚えているか、と」


「何と?」


「『誰だっけ』と言われました」


私は眉をひそめた。


「1年間、隣に住んでいた人のことを?」


「はい。その方は、もう5年以上この建物に住んでいます。でも、田所さんのことは全く覚えていないと」


矢崎は、ファイルを閉じた。


「他の住人にも聞きました。でも、誰も詳しく覚えていない。『人は住んでた気がする』とは言うんですが、それ以上は……」


私はメモに書き込んだ。


・隣人が1年間の入居者を覚えていない

・内見者が全員辞退

・家賃が相場より2万円安い


そして、最後にひとつ質問した。


「この家賃設定の理由は?」


矢崎は、はっきりと答えなかった。


「……適正価格だと、判断しています」


「相場より安いですよね」


「ええ、まあ……」


彼は言葉を濁した。


「何か、理由があるんですか」


矢崎は、少しの間黙ってから、ようやく口を開いた。


「正直に言います。この部屋を、早く埋めたいんです」


「なぜですか」


「分からないんです。でも……このままだと、何か、良くない気がして」


彼の声は、微かに震えていた。


「それで、私に調査を依頼した?」


「はい。もし、告知義務が発生するなら、ちゃんと記載します。でも、何もないなら、それを証明してほしいんです」


私は部屋をもう一度見渡した。


白い壁、清潔な床、何も置かれていない空間。


ここに、田所真理子という人間が、確かに1年間住んでいた。


なのに、誰も彼女のことを覚えていない。


記録だけが、淡々と存在を証明している。


「分かりました。調査を続けます」


矢崎は、安堵したように息を吐いた。


「ありがとうございます」


私たちは部屋を出て、鍵を閉めた。


廊下を歩きながら、私は尋ねた。


「近隣の方にも、話を聞いてもいいですか」


「もちろんです。ご協力いただけるかは分かりませんが……」


矢崎は階段を降りながら、付け加えた。


「ひとつだけ、お願いがあります」


「何でしょう」


「もし、何か……普通じゃないことが分かったら、教えてください」


彼は、真剣な目で私を見た。


「私も、知りたいんです。この部屋に、何があったのか」


私は頷いた。


そして、建物の外に出た瞬間──


ふと、後ろを振り返った。


2階の203号室の窓が、見えた。


カーテンのない、暗い窓。


そこに、何かが映っている気がした。


でも、目を凝らしても、何も見えなかった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ