第10話(最終話) 告知事項
新しい募集ページが公開されたのは、契約確定から3日後だった。
私は、不動産情報サイトでコーポ青葉を検索した。
203号室の情報が、すぐに表示された。
【成約済み】コーポ青葉 203号室
所在地:東京都杉並区荻窪○-○-○
家賃: 63,000円(管理費込)
間取り:1K(25㎡)
築年数:18年
設備:リフォーム済・バストイレ別・フローリング
そして、ページの最下部。
備考欄に、一文だけ記載されていた。
※詳細はお問い合わせください
私は、画面を見つめた。
「詳細はお問い合わせください」
でも、問い合わせても、何も答えられることはない。
なぜなら、告知すべき「事項」が存在しないから。
法的には。
私は、ブラウザを閉じた。
それから1ヶ月が経った。
新しい入居者は、予定通り入居したのだろうか。
矢崎からの連絡は、一切なかった。
私も、連絡を取ろうとは思わなかった。
この件は、「終わった」ことになっている。
でも──
本当に、終わったのだろうか。
私は、時々夜中に目が覚めた。
そして、あの音を思い出す。
ゴトッ、ゴトッ、ゴトッ。
誰かが這っている音。
出られない誰かが、必死に這っている音。
2ヶ月後、私は別の仕事で杉並区を訪れた。
そして──何かに引き寄せられるように、コーポ青葉へ向かった。
建物の前に立つ。
変わらない外観。
変わらない静けさ。
私は、2階を見上げた。
203号室の窓。
カーテンが、かかっていた。
白いレースのカーテン。
誰かが、住んでいる。
新しい入居者が。
私は、建物に近づいた。
そして、階段を上ろうとした時──
下の階から、誰かが出てきた。
102号室の、あの高齢男性だった。
「ああ、あなたは……」
彼は、私を覚えていた。
「以前、取材に来た方ですね」
「はい。その節は、ありがとうございました」
私は、何気なく尋ねた。
「203号室、新しい方が入られたんですね」
「ええ」
彼は、2階を見上げた。
「1ヶ月くらい前かな」
「どんな方ですか」
「さあ……」
彼は、首を傾げた。
「まだ、ちゃんと会ったことがないんですよ」
私は、胸騒ぎを覚えた。
「会ったことが?」
「ええ。挨拶くらいはしたと思うんですけど……顔を、よく覚えてなくて」
彼は、困ったように笑った。
「最近、物忘れが激しくてね」
私は、何も言えなかった。
また、始まっている。
また──
誰かが、消えようとしている。
「生活音は聞こえますか」
「いや……静かな人みたいですね」
彼は、何でもないように答えた。
「物音ひとつしないんですよ」
私は、唇を噛んだ。
田所真理子の時と、同じだ。
すべてが、繰り返されている。
「夜中、変な音とかは……」
「ああ」
彼は、思い出したように言った。
「そういえば、最近また聞こえるんですよ」
「音が?」
「ええ。何かを引きずるような音」
彼は、首を傾げた。
「でも、すぐ止むんですけどね」
私は、何も言えなかった。
彼は、ゴミ袋を持って歩き出した。
「じゃあ、私はこれで」
「あ、はい……」
私は、彼を見送った。
そして、もう一度203号室を見上げた。
白いカーテンが、微かに揺れていた。
窓は閉まっているのに。
私は、建物の前に立ち尽くした。
どうすればいいのか、分からなかった。
矢崎に連絡すべきか。
でも、何と言えばいいのか。
「また、同じことが起きています」
そう言ったところで、何が変わるのか。
私は、鞄からノートパソコンを取り出した。
そして、建物の前のベンチに座り、画面を開いた。
これまでの記録を、もう一度読み返す。
そして──
新しい文章を書き始めた。
これは、告知義務外の物件についての記録である。
事故は起きていない。
事件も起きていない。
死亡者もいない。
でも――
確かに、誰かが消えている。
記録には残るが、記憶には残らない。
存在したが、存在しなかったことになる。
それは、事故なのか。
それとも──
最初から、"なかったこと"にされた部屋なのか。
私は、キーボードを打ち続けた。
この記録を、誰が読むかは分からない。
おそらく、誰も読まない。
でも──
書かなければならない。
誰かが、知らなければならない。
この部屋のことを。
消えていく人たちのことを。
私は、文章を書き終えた。
そして、ファイルを保存した。
「コーポ青葉203号室_最終報告」
画面を閉じようとした時──
ピンポーン。
チャイムの音が聞こえた。
私は、顔を上げた。
音は──
2階、203号室から聞こえていた。
誰かが、インターホンを押している。
でも、周囲には誰もいない。
私は、立ち上がった。
そして、階段を上った。
203号室の前。
ドアの前に、誰もいない。
でも、確かに今、チャイムが鳴った。
私は、ドアを見つめた。
そして──
ゆっくりと、手を伸ばした。
ドアノブに触れる。
冷たい。
でも、中から──
微かに、何かが聞こえる気がした。
ゴト……
私は、手を引いた。
そして、一歩後ずさった。
ドアの向こうに、誰かがいる。
新しい入居者が。
でも──
その人は、もう誰にも見えなくなりつつある。
記憶から、消えつつある。
そして、いずれ──
完全に、消える。
この部屋に、溶けていく。
私は、階段を降りた。
建物を出て、もう一度203号室を見上げた。
白いカーテンが、揺れていた。
そして──
窓の内側に、何かの影が見えた気がした。
でも、目を凝らしても、何も見えなかった。
私は、その場を離れた。
それから数ヶ月後。
私は、矢崎から一通のメールを受け取った。
件名は、何もなかった。
本文には、一行だけ。
> 203号室、また空室になりました。
添付ファイルはなかった。
説明もなかった。
ただ──
その一文だけ。
私は、返信を書こうとした。
でも、何を書けばいいのか分からなかった。
結局、私は何も書かずに、メールを閉じた。
そして──
外付けハードディスクを開いた。
「コーポ青葉203号室_調査記録」
その中に、新しいフォルダを作った。
「第4の入居者」
まだ、中身は空だった。
でも、いずれ──
また、誰かがそこに入るだろう。
そして、消えるだろう。
記録には残るが、記憶には残らない形で。
今、この原稿を書いている。
コーポ青葉の前で。
203号室の窓は、また「募集中」の貼り紙がされている。
家賃は、相場より2万円安い。
立地は良い。
リフォーム済み。
条件は、完璧だ。
そして──
備考欄には、今日も同じ一文が書かれているのだろう。
※詳細はお問い合わせください
でも、誰も問い合わせない。
いや──
問い合わせても、何も答えられることはない。
なぜなら、告知すべき「事項」が存在しないから。
法的には。
私は、この原稿を保存する。
そして、パソコンを閉じる。
立ち上がろうとした時──
ピンポーン。
また、チャイムが鳴った。
203号室から。
私は、振り返った。
2階、暗い窓。
誰が、押したのか。
誰が──
いや。
私は、それを書かない。
書いてはいけない。
なぜなら──
【記録終了】
【補足資料】
コーポ青葉203号室 入居記録(判明分)
2014年4月〜2015年3月: 山田健太(仮名) → 退去後、行方不明
2017年10月〜2018年9月: 佐藤麻衣(仮名) → 退去後、行方不明
2020年4月〜2021年3月: 田所真理子 → 退去後、行方不明
2024年5月〜2024年11月: 氏名不明 → 退去後、行方不明
現在:空室(募集中)
告知事項: なし
備考:※詳細はお問い合わせください
【この記録を読んでいるあなたへ】
もし、あなたが今、部屋探しをしているなら。
もし、条件の良い物件を見つけたなら。
備考欄を、確認してください。
そこに、こう書かれていたら──
※詳細はお問い合わせください**
問い合わせてください。
そして、こう尋ねてください。
「この部屋で、過去に何があったんですか」
もし、答えられないなら。
もし、「特にありません」と言われたなら。
その部屋には、入らないでください。
なぜなら──
あなたも、消えるかもしれないから。
記録には残るが、記憶には残らない形で。




