第70話 疲れた時は温泉だー!!
箱根ギルドから徒歩数分。
その温泉宿は、豊かな緑を背負った白い巨大な建物で、老舗ならではの品格を漂わせていた。
近代的なホテルの機能美を持ちながらも、どこかクラシックな温かみを感じさせるその佇まいは、まさに箱根の玄関口を象徴する風景だろう。
「高いから普段はあんまり来ないところだけど、たまの贅沢にはもってこいだよね」
「あたし、先月箱根に来たばかりだったから、ずっと温泉に入りたいなって思ってたんだ」
灯里ちゃんを先導にして、俺たちは特徴的な朱色の橋を渡っていく。
道中、ここは映えスポットだからと発言した碧依の提案を受け、三人で自撮りをしたあと、件の温泉宿へと入場した。
ここは宿として大変有名な場所ではあるが、予約不要の日帰り温泉としても地元民に愛されている温泉施設だ。
「ほ、本当に行くの……? やっぱり私はこのまま帰ろうかなって」
俺の両腕は、前を歩く二人にガッチリと固められており、抜け出す隙がない。
ここを逃せば次はないと判断し、一縷の望みをかけて抗議を入れるが、同時に振り返った二人の笑顔には有無を言わせぬ圧があった。
「そんな汗だくで帰るなんて絶対にダメって言ったよね?」
「そうだよ。あたしもお風呂入って汗流したいし、一緒に行こ?」
最後の抵抗虚しく、受付を済ませた俺たちは脱衣所へと入っていった。
(薄目だ。ギリギリまで目を細めろ)
暖簾をくぐった先の脱衣所内で、俺はせめてもの配慮として、できるだけ目を開けないように行動する。
「へ〜。土曜日でも結構空いてるんだね」
軽く見渡したが、碧依の言う通りお客さんの姿は疎らに見える程度だ。
というのも、ここの日帰り温泉はお昼の12時から開放されるため、まだ人が少ないのだろう。現在時刻は15時30分を少し過ぎたところだ。
バクバク鳴り響いている鼓動を抑え込みながらも、空いているロッカーに到達した俺は、自分の服に手をかける。
(二人の着替えを見るわけにはいかないぞ! 全力で脱ぐんだ!)
クワッと目を見開いた俺は、文字通り全ての服を一瞬の動作で脱ぎ切った。
何とか間に合ったようで、横を見れば、二人が自分の服に手をかけたところだった。
「わ、私先に入ってるね! 2人はゆっくりでいいからね!?」
「え、ティアちゃんもう脱いだの!?」
「気合い入ってるね〜」
服を脱ぐのにゆっくりも速いもあるか分からないが、混乱している俺はそれだけ言い残して、ささっと脱衣所の扉を抜けた先のお風呂場へと足を踏み入れた。
「……おお!」
扉を抜けた先は、まさに絶景と呼べるだろう。
内湯は、大きなガラス窓から箱根の山々の新緑が目に飛び込んでくる開放的な造りだ。
ヒタヒタと目を細めながら歩いて行くと、奥にもう一つの扉を発見する。
「おおおおおお!」
その扉を開けた先は、露天風呂へと繋がっていた。
一歩踏み出せば、それこそ箱根の山々全てを全身で感じることができる、野趣あふれる空間になっていた。
耳を澄ませば、あちらこちらで鳴く鳥の声が響き渡り、山から抜ける風は心地良く肌を撫でていく。
まさに箱根の山々を独り占めした気分にテンションが否応なしに上がってしまう。
何を隠そう、実は俺自身もここに来るのは初めてだった。
「ティアちゃん。もう外に出てたんだね」
「うん。実は私も初めてだったか――」
初めての絶景にすっかり目を奪われていた俺は、背後から聞こえてくる灯里ちゃんの声に、思わず振り向いてしまった。
「ティアちゃん、どうしたの?」
「……う、ううん! なんでもないよ!」
そんな灯里ちゃんには、しっかりとバスタオルが全身を隠すように巻かれていた。
急いで目を逸らした俺は、ホッと安堵する。
(――あ、危なかった! バスタオル様ありがとうございます!)
「あ〜、2人ともこっちにいたんだね。中にいないから探しちゃったよ」
バスタオル様に感謝を捧げていると、今度は碧依がやってくるように外湯へと繋がる扉を開けてきた。
「あ、碧依ちゃん遅かった…………ね……」
すっかり油断しきった俺の目に飛び込んできた妹は、一糸まとわぬ姿だった。
俺は首を限界まで捻って、殴られたかのような勢いで後ろを振り向いた。
「うぇえ!? ティ、ティアちゃん! いま凄い首の曲がり方したけど、大丈夫!?」
「だだだだだ、大丈夫だよ!?」
碧依が心配するようにこちらにやってきたが、俺は手でそれを制した。
(灯里ちゃんがバスタオル姿だったから、完全に油断してた……すまん、碧依)
生まれたままの姿の妹を見てしまったことを、心の中でひたすら謝り続けた。
だが、碧依には悪いけどまだ家族で良かった。
これが灯里ちゃんの裸だったらそれこそ切腹ものだろう。
(――うん。やっぱり碧依でも切腹ものかもしれない)
いくら家族でも年頃の女の子のあられもない姿だ。
墓場まで追加で持っていく案件が増えてしまったと、空を見上げて黄昏る。
「ティアちゃん。入らないの?」
「気持ちいいよ〜」
箱根の綺麗な空を無心で眺めていた俺に、二人の声が耳に入る。
あまりの衝撃にすっかり悟りのようなものを開いた俺は、まるで不浄の全てを洗い流すかの如く、ゆっくりと掛け湯をして温泉へと浸かる。
「ふぅ〜。落ち着くねぇ……ああ、抜け出していく。疲れも、後悔も、この世の全てが……」
「ふふ、そうだね。疲れたときに気軽に温泉に入れるのは、私たちの特権だよね」
「これが本場の温泉なんだ。すごく気持ちいいし、景色も最高だよ」
箱根の山々に抱かれながら、三人揃って幸せのため息をこぼしていく。
さらりとしたやわらかな泉質の箱根湯本温泉は、美肌効果が高い単純アルカリ泉だ。
というのは、看板に立てられていた文章から抜粋しているが、実際にとてもさらさらして気持ちがいい。
どれだけゆっくりしていたのだろうか。碧依がサウナに行くと言い残してしばらく経ったあと、ふと、灯里ちゃんがこちらに顔を向けてきた。
「ティアちゃん……今日は本当にありがとう」
悟りを開いたとはいえ、しっかり目を閉じ、彼女の方を見ないように努めている。
「ううん。……私の方こそ、色々と驚いちゃったでしょ?」
きっと怖がらせてしまっただろう。
今回、俺は怒りに任せて、これまで隠してきた魔法少女としての力を惜しみなく使ってしまった。
「う〜ん……確かに驚いたけど、ティアちゃんが正体を隠してたのはずっと前から気づいていたし、あんまりかな? ――あ、でも、あの衣装はやっぱり凄く可愛かったよ!」
だが、そんな俺の告白に灯里ちゃんは、さもありなんと頷く気配を見せた。
「……へ? ずっと前からって、いつから?」
「ティアちゃんにパワーレベリングしてもらった時からだよ? だってあの時見せてくれたステータスには、スキル無しって表示されてたのに、次の瞬間には生活魔法のライトを使っちゃうんだもん」
素っ頓狂な声を出す俺を余所に、彼女は笑いを堪えるかのようにクスクスと声を漏らしながら続ける。
「最初は見落としたのかな? って思ったんだけど、ティアちゃんと出会った時の配信を見返して気づいたの。あの時も格好いいスキルをいっぱい使ってたよね?」
「……あ、確かに」
今まで隠していた気でいたが、とんだ独り相撲だったようだ。
恥ずかしさで頭を掻いていると、サウナから碧依が戻ってきた。
「ねぇねぇ2人とも、あっちになんか凄そうな集団がいたよ」
「凄そうな集団って?」
内湯から露天風呂へと繋がる扉を開けながら、開口一番によく分からないことを言う妹。
灯里ちゃんが聞き返すと、碧依は少し鼻息を荒くしながらこちらの湯船へと入ってきた。
「うん、なんか凄くお金持ちっぽい感じだった! あと可愛かった!」
そのすぐあとだった。
ずっと目を閉じていたせいか、少し鋭敏になったようで、遠くの方から誰かがやって来た気配を感じ取る。
露天風呂へと続く扉が開いたかと思えば、誰かの息を呑んだ声が聞こえてきた。
「――へっ!? ……ほ、ほ、本物ですのー!?」
「お、お嬢様!?」
「メーデー! メーデー! こちら温泉メイド班! お嬢様が突然鼻血を噴き出して倒れられてしまいました! 大至急病院の手配を! ――繰り返します……」
一体何事かと、状況を把握するためにほんの少しだけ薄目に戻す。
そこには、金髪の小さな女の子が、ホワイトブリムを付けた複数人の女性に抱えられ、急いで運ばれていく様子が繰り広げられていた。
集団がドタドタと脱衣所に駆け込んでいき、最後尾の女性がこちらに向かってペコリと一礼して消えていった。
「び、びっくりしたね。ティアちゃん」
「うん。本当、なんだったんだろう――ね」
どうやら俺はつくづく学習しないようで、今の光景に同意するために顔を灯里ちゃんの方へ向けてしまった。
振り返った先に待っていた光景は、ぷかぷかと湯面に揺られる灯里ちゃんの凶悪で巨大な物質体。
湯船にバスタオルを巻いて入るなんてマナー違反を、この礼儀正しい彼女が犯すはずもなく。
灯里ちゃんの白く綺麗で、かつ華奢な身体から、唯一自己主張の激しいその膨らみの先端を、しっかりと目に焼き付けてしまった。
「…………あ」
そんな俺の意識は、ついに限界を迎えた。
「ティ、ティアちゃーん!?」
「えええ!? ティアちゃんも鼻血出して倒れちゃったよ!? ここ、そんな効能でもあるの!?」
(ごめんね……灯里ちゃん。温泉も……血で汚してしまったことを謝らないと……)
二人の叫び声を最後に、俺の意識はここで途切れた。
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