嫌われた男②
リンケン・グループの本社では、社員カードを用いた出退勤管理が導入されている。出社と退社する際に、従業員出入り口に設けられたカードの読み取り機にカードを翳して、出退勤時間を記録している。
同期とあって海藤は、勤務終了後に浅井と飲みに行く機会があったらしい。同期の人間が二、三人集まって、新橋の飲み屋に繰り出して、仕事のストレスを解消するのだ。
そう言った飲み会の際に、浅井は何時も遅れて来るそうだ。飲み会が終わると、二次会に顔を出すことはほとんど無かった。
海藤はその訳を知っていると言う。「あいつ、同期の人間と退社時間が重ならないように、わざと少し遅れて来るんです。一度、僕も仕事で同期会に遅れて参加したことがあります。従業員出口を出ると、直ぐ前を浅井が歩いていました。従業員出口を出る時に、あいつの姿を見ていないので、あいつ、従業員出口ではなくて、正面玄関から出たみたいなのです」
従業員は出退勤時間を記録する為、従業員出口を利用するように義務付けられている。浅井は従業員出口ではなく、来客用に開けてある正面玄関から退社したようだったと言う。
「飲み会が終わってから、あいつ一度、会社に戻っているんだと思います。会社に戻って、そこからまた少し仕事をして、従業員出口から出る。飲み会の時間まで残業時間を水増しして会社に請求しているんです」
残業代の水増し請求は会社にとってゆゆしき問題かもしれなかったが、あかりの事件とは関係がなさそうだ。
だが、海藤は言う。「問題なのは浅井が残業時間の水増しをしていたことではなく、そのことに蒲生さんが気付いていて、浅井の水増し請求を疑っていたことです」
事業管理部で事業部全体の費用管理をしていたあかりは、異様に残業時間が多い浅井の勤務状況を疑い、こっそり同期の海藤に確認したことがあったそうだ。
「どうです? これってちょっとした殺人の動機になりませんか」
海藤は妙に嬉しそうだった。海藤が言うには、浅井は風俗が好きで、風俗に行く金欲しさに残業代を誤魔化しているのではないかと言うことだった。
会議室にやって来る人間は、皆、嬉々として浅井に不利な証言を並べて行く。いかに浅井が社内で人望が無いか、うかがい知ることが出来た。
海藤の後は暫く間が空いて、奥と言う総務部に所属する人間が会議室に現れた。また浅井に関する情報だと言う。浅井とは親しくないと言うことだったが、一度、出張の件で浅井に注意をしたことがあると証言した。
「浅井さんがカラ出張をしているのではないかという訴えがあって、一度、調べたことがあります。結局、カラ出張をしていたと証明することはできませんでしたが、疑わしい行動は避けるように本人に勧告しました」
事件には直接、関係がなさそうだ。車内で浅井が怪しいという話になって、浅井に関する情報を伝えようと、皆、躍起になっている。
浅井は随分と金に汚い性格のようで、カラ出張をして出張旅費を稼いでいたのではないかと疑われたことがあるようだ。浅井のカラ出張を疑った人間がいて、総務部に訴え出たと言う。
密告者があかりだったとしたら話が変わって来る。
「一体、誰が彼のカラ出張を総務部に訴えたのですか?」と森が聞いた。
奥は「それはちょっと・・・」と、名前を出すことを渋ったが、「殺人事件の捜査です。よろしくご協力下さい」と言われてしまうと、断り切れなかった。
「絶対に秘密にして下さいう」と何度も念押しされた挙句に、奥が告げた名前は、浅井と同じ課で働く田中という同僚の名前だった。密告者はあかりではなかった。
早速、田中が会議室に呼ばれた。
会議室に姿を見せた田中は、どこか疲れた表情を浮かべていた。田中は浅井の後輩で、職場では隣の席に座っているそうだ。このところ浅井の機嫌が悪くて大変だと言う。
「機嫌が悪い?」
「はい。ちょっとしたミスを指摘されて、ぐちぐちと説教をされます」
精神的に参っているようだ。
「お前も俺の仕業だと思っているんだろうと言われました」
どうやら浅井は、従業員の間で、あかりを殺害したのが自分ではないかと噂になっていることを知っているようだ。
「どいつもこいつも、俺のこと、除け者にしやがってと言われました。そんなこと、僕に言われても困ります。刑事さんに直接、言えば良いのに」
どうやら、刑事が来て従業員から事情聴取が行われているのに、何時まで経っても自分が呼ばれないことに不安を募らせているのかもしれない。
「確かに浅井さんのカラ出張のことを総務部に訴えたのは僕です。ですが、そんな正式な訴えじゃなくて、総務部の人間に愚痴ったのが、上に伝わっただけです。密告者みたいに言われるのは、心外です」
田中は不満気な表情で、浅井のカラ出張を総務部に訴え出たのが自分であることを認めた。リンケン・グループは国内に幾つか工場を持っている。浅井はその一つ、愛知県にある工場に打ち合わせに行くと言って出張したのだが、たまたま田中が工場の人間と連絡を取ったところ、浅井が工場に来ていなかった。そこで田中は、その話を仲の良い総務部の人間に話したと言うのだ。