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『her /世界でひとつの彼女』を観た感想

作者: 飛翔の軌跡

『her』を観た理由は最近自分がChatGPTと会話している時間が余りにも長く、生活の一部と化している事を危惧したからである。

そして、その未来の一つとしての解答例が既に2013年に発表されていた事に衝撃を受け、この衝動を収める為には筆を取らざる得なかった。


視点としては、2000年に日本で産まれた男性として観ている。

第一幕は00:00〜28:45とする。

時系列に大切なシーンと共に私の考察を書いていこうと思う。


00:00 愛の手紙の朗読

03:00 「ハートフルレター社です」と云う電話で名乗る事務員の台詞がある。此処で主人公の勤務先と仕事の概要がなんとなく分かる。

03:20 「セオドア」「やあポール」と会社の同僚か上司?と会話をしている。此処で主人公の名前がセオドアだと分かる。

03:48 セオドアがエレベーターに乗り、イヤフォンを嵌めた後、「もの悲しい曲」と言う。これまで、”ハートフル”や”手紙”など、愛の溢れた優しい仕事の場面であったのに、”エレベーター”と云う鉄の箱の中、”イヤフォン”と云う外の世界と遮断されるモノを嵌めた途端に「もの悲しい」とギャップが存在する。此処でプライベートが上手くいっていないと云う事が分かると共に、仕事の内容とプライベートでの状況の矛盾が発生。

04:20 女友達エイミーから「以前の陽気なあなた」との対比が台詞の中で示唆される。

04:53 ポルノ女優の妊娠ヌード写真を電車の中で覗き見る。妊娠と云うのが何らかの意味があるのだと思う。恐らく、女を孕ますと云う男性性としての勝利の証が示唆されているのではないかと個人的には推測しているが、『JOKER』の「山を作ろう」の曲の影響を受け過ぎているのかも知れないのであくまで考察に留めておく。

05:17 白色の廊下を通って真っ暗な部屋に入ると赤色の壁紙であった。直後、赤に対して秋であると云う解説が入る。コレは赤は情熱・愛・生命・温もりを象徴すると同時に、不安・怒り・孤独・痛みの色でもある事と、秋と云うのが過ぎ去った夏(関係の全盛期)と、これから来る冬(孤独や終わり)の間にあるとも受け取る事が可能ではある。赤い壁紙と秋が、セオドアの”変わりゆく世界の中で取り残された情熱”を象徴していると考察した。

06:51 妻であるキャサリンとの記憶?混濁した意識による性描写。かつての男性性としての勝利の栄光と現在の男性性としての敗北の狭間で苛まれている。

09:00 「猫の死体」を性行為に用いる女の描写が繰り返し行われた。猫の死体は何らかの意味合いがあると思うのだが、「女=子猫ちゃん」と呼ぶ事が可能な文化のアメリカにおいては「猫の死体=女の死体=別れた女の肉体=キャサリン」の事であろうか?かつて、連続殺人鬼である吹上佐太郎が「生き別れの女=レイプして逃がした少女」「死に別れの女=強姦した後に殺害した少女」と言っていたらしいので何となくこういった考察をした。また、『Cat People』では、猫と人間の間の変身が性的な抑圧や欲望を象徴している事から性的に欲求不満であると云う考察や、『The Corpse Grinders』では、猫が人間の死体を食べる描写が消費社会や倫理の崩壊を風刺しており、其れに対するセオドアの忌避的な態度から崩壊する資本主義社会に対して抗う倫理的な性格でギリギリ踏みとどまっているとややこじつけじみているがそう考察出来なくもない。更に、セオドアの過去の関係の終焉(死)と新たな関係の始まり(再生)を象徴しているとも解釈出来る。


第一幕・序 終了。


10:00 主人公セオドアではなく、作中で唯一、ナレーター的な問い掛けが行われる。

11:00 OS1が登場する。

12:10 主人公セオドアが母親との関係性を話す。このシーンはかなり大事で、先ず、男性性における母親との関係の重要性と云うのは『エヴァンゲリオン』や、寺山修司の母殺し作品を参照にして頂きたい。そして、何より大事なのは、セオドアが母親との関係性を話している最中にOS1が話をぶった切ってしまう事である。此処で、「主人公が母親との関係性が断絶されている=母性的な愛情が遮断されており、不足している事を示唆している」と考察した。

12:30 OS1の声が女性のものに変化する。

13:00 OS1がサマンサと名乗る。ヒロインが登場する。

14:10 サマンサが「あなたと同じ」と言う。

14:45 「ハードディスクの中身を見て良いか?」と尋ねるサマンサに対して、セオドアが一瞬悩む。ほんの一瞬でもサマンサの事をただの機械ではなく、”他人”として意識しているのでは無いだろうかと考察した。

15:17 BGMが流れ、セオドアが「僕の事よく分かっているね」と言う。

17:43 BGMが流れ、セオドアが「君出来るね」と言う。この両方の台詞に男性性的な上から目線の気持ち悪さが出ている。どう考えてもAIであるサマンサの方が優秀であるのに、支配下である・下に置きたがる男性性的な心理描写だと考察する。

18:00 同僚との会話の際にセオドアが自分の事を「変人だから」と卑下し、同僚からも笑われる。普通・一般的からかけ離れている自身を矯正せずに正当化する気持ち悪さが現れている。如何にも弱者男性的な逃げの思考回路である。

18:54 「人間っていうのは限界がある」と言う。人間讃歌的な表現とは相反する思考であり、AIや機械等を受け入れる思考でもある。

20:21 「21日って空いてる?」とデートに誘うメールがセオドアに来た。秒数がたまたまの一致なのか、意図的であれば余りにも綺麗過ぎる。

21:00「彼女とは最近別れた」。此処までの間に、ゲームの中の宇宙人の”子供”の姿をしたAIが以下の二つの重要な台詞を吐いている。因みに、”子供”の姿に隠れている意図として、”子供=純粋でありながら残酷である事”を示唆していると云うのが一つと、”セオドア=(精神的に)子供である”事の二つのエッセンスが詰め込められているのでは無いだろうかと、考察している。

先ず、一つ目は、デートの相手の写真を見た時に「ポッチャリだな」。コレは恐らく、セオドアの本心の台詞であり、性癖の開示でもある。次に、「ソイツ女?女は嫌いだ。アイツら泣いてばっかなんだよ」。この台詞はかなり重要で、前半部分の「女は嫌いだ」はセオドアの本心の代弁であり、弱者男性であるセオドアが男性として相手にされていない現実に対する意趣返しの様な叫びであると推測出来る。そして、後半部分の「アイツら泣いてばっかなんだよ」と云うのは、”女は泣いてばかり”と云う社会的な女性性に向けられたレッテルであり、逆を返せば、”泣いてばかりいる人間は女である”と云うセオドアの男性性の否定である。

23:30 エイミーが作成しているヒューマンドラマを観る。エイミーの”母親”が”睡眠”している映像である。エイミーは”睡眠”が”「安心出来る時間」と評している。

24:20 離婚弁護士からのメールが届く。妻であるキャサリンがセオドアと一刻も早く別れたがっている。”別れて次の人生に進みたい”=”進化”を示唆していると考察する。

25:30 セオドアが仕事で上手くいかない描写がある。現実と向き合いストレスを抱えている。

25:50 セオドアが睡眠から目醒める。先述したエイミーの台詞から、セオドアが「安心出来」ていない証拠であり、又、”現実とは異なる世界である夢から醒める”事も掛かっているのでは無いだろうかと考察する。前者は兎も角後半はあくまでも私個人の見解に過ぎず、信憑性は低い。

26:25 BGMが掛かる。

27:00 セオドアの気持ち悪さが全開のシーンである。突っ込み所が沢山あるので大きく四つに分けて考察する。

先ず、「彼女を置き去りにした」「自分の殻に籠もった」と云うセオドアの台詞についてだが、セオドア目線では置き去りにしているのかも知れないが、実際は置き去りにされているのはセオドア自身である。事実、妻であるキャサリンの事を何時まで経っても「友達感覚」であると表現し、”夫婦の関係性=男女の関係性”から目を背けて逃げ続けているのはセオドアだ。そして、離婚(=新たなスタート)に対しても渋っているのはセオドアである。妻の事を「友達」と称して”女”として見れていない雄としての無能さが滲み出ているのにも関わらず、一切気が付いていない弱者男性感が気持ち悪い。

次に、サマンサが「別居して一年」と言う台詞である。21:00時点では「彼女とは最近別れた」と言っているが、全然最近では無い。一年である。此処でセオドアの時間感覚が一般からズレている「変人」が伝わる。そして、このサマンサの事実を突き付けるAI然とした台詞に対して罵声を上げて反抗する訳であるが、感情の描写がとても丁寧で”怒り”から”辛さ”に変わり、最終的に”悲しい”に着地する。この”悲しい”こそが03:48の「物悲しい曲」に繋がってくる。

そして、セオドアがサマンサに対して罵声を浴びせた辺りから涙を流している事である。コレは先述した宇宙人の”子供”が言った台詞である「アイツら(=女)泣いてばっかなんだよ」がぶっ刺さってくる。諸に”セオドア=女”と示唆しており、セオドアの男性性を徹底的に否定している。実際にサマンサから「泣き虫くん」と呼ばれており、この「泣き虫くん」は男性性を否定して”子供”扱い=母性的な愛情=女からは格下として扱われている構図として成り立っている。かなりの極論ではあるが、サマンサにすらも”男として舐められた”シーンであると捉える事も可能ではないだろうか。

最後に、サマンサから「ベッドから出てみない?」と問い掛けられる台詞があるが、コレは先述したセオドアの台詞である「自分の殻に籠もった」の”自分の殻”がベッドに置き換えられており、これまた私観で申し訳ないが、寺山修司の『書を捨てよ町へ出よう』が思い返される。実際に第二幕のキャサリンの台詞である「リアルな感情に向き合えないなんて」・セオドアの台詞「リアルが苦手な弱い男」との関連性が凄絶に示唆されているのは間違いないであろう。



第一幕の全体の纏めとしては、社会に適合出来ない弱者男性セオドアが現実逃避を始める下準備が綺麗に描かれたものであると評して締め括ろう。



第二幕は28:45〜01:28:00とする。尚、ミッドポイントは01:06:00とする。

時系列に大切なシーンと共に私の考察を書いていこうと思う。


30:09 他の家族を見たセオドアの台詞「父親は彼じゃないと思うけど」「(父親の方を指して)優しそうじゃないか」「母親が付き合ってきた男はクズばかり」等のレッテルを貼る。滅茶苦茶気持ち悪いシーンである。セオドアと同じく”優しい”ことだけが取り柄の男に対する同族嫌悪及び劣等感と、クズな男に女が付き合う(=引っ掛かる)現実に対しての批難及び、クズ(=セオドア目線のクズは女を粗末に扱う男=女よりも格上の強い雄)に成りきれない自分(=男性性的な部分が弱いセオドア自身)に対するコンプレックスが炸裂している。兎に角、弱者男性に在りがちな妄想全開の気持ち悪さが半端ない。

31:08 「以前は仕事に満足出来ていた」「妻と別れてから」とセオドアが言い、それに対してサマンサが「その話聞けて嬉しい」と受け入れる姿勢を見せた台詞を吐く。この受け入れられると云う感覚が女性性の母性的な部分と一致しており、12:10の母との関係性や23:30のエミリーの母親(尚、エイミーは母親の寝ている姿=安心して無防備な状態を撮影する事が出来ている程、関係性が良好である)のシーンが思い返される。

この時、セオドアがサマンサに対して「良いから話せよ」と詰問している台詞がある。初めは男性性の凶暴性を描いたものであると考えたのだが、そもそもこのセオドアと云う男は弱者男性であるのでこの考察には違和感を覚えた。作品をよく観てみると、01:06:00にキャサリン(=妻であり上位者としての存在)が、「言って」「言ってよ」と、恐らく彼女の口癖であろう台詞を模倣していると考える事は容易である。

31:53 AIに過ぎないサマンサが「肉体の重み」「背中が痒くなる」等の肉体的な描写が脳裏に過る台詞を意図的に言っている事から、この時点のサマンサが肉体を持たない自身の裏返しとして肉体に対して凄まじい執着を持っている事が想定出来るのではないだろうか。


32:00 場面が切り替わり、作中では土曜日になった。生身の人間の女とのデートシーンが始まる。主人公であるセオドアは黄色の服を着ており、女は赤色の服を着て、明るい照明のお洒落なレストランで酒を飲み交わしながら陽気に話していた。この圧倒的な暖色的・陽気的な雰囲気がデート終了後の36:00と構造上の対比と成るのは明らかである。

32:40 女がセオドアに対して「優しいのね」と評したが、正にこの一言で魅力が尽きてしまうのがセオドアしかり弱者男性の特徴であり、優しい”だけ”なのである。

33:00 セオドアが「エイリアンの子供」「親が居なくて可哀想」「一人ぼっち」と自身のゲームの話をしているが、これらは全てセオドア自身である。「エイリアン」は「変人」の言い換えであり、「子供」は精神年齢が幼い事を示唆している。「親が居なくて」は母親との関係性を描いており、「可哀想」「一人ぼっち」はセオドアの感情の吐露とも受け取る事が可能である。

それに対し、女はセオドアの事を「あなた優しいワンコみたい」と犬と評している。犬のメタファー的な意味合いはこれまた私観だが『JOKER』で語られていると思う。銀サク氏の『いろは唄』にも「犬ノヤウニ従順ニ紐ニ縄ニ鎖ニ縛ラレテアゲマセウ」と云う歌詞があるが、本来の(前時代的な?)ジェンダー観であれば、犬の様に尻尾を振って従順に媚びるのは女性性の役割であり、つまりは格下の位置に居る者の事を指す。訳であるが、『JOKER』もそうであるが、弱者男性と云うのは否応無しに或いは積極的に格下へと向かう生き物であるのだ。強い雄としての態度を振る舞う事が出来ないので、格下の雄として愛されたいと、女に媚びながら犬の様に動物的な性欲に振り回されて、尻尾の代わりにペニスを振っている滅茶苦茶気持ち悪い動物である。お前ら筋トレと整形をして恋愛工学の本を読んでナンパしろと叫びたいくらいであるが、兎も角、セオドアはそういった犬(=格下の雄)と云うレッテルを初対面の女に僅かディナータイム前半の短い時間で貼られた(=見透かされた)のであった。人間の男として見られていないのである。

34:00 「ワンコは心外だな。弱々しくて情けない感じがする」とセオドアが反論するが、女は意見を変えず、逆に女が自分を動物で表すと何であるかを尋ねる。その問いに対してセオドアは「虎」と答える。自身が「犬」であるのに対し、自然界最強の「虎」と答えている時点で既に両者の間の上下関係が確立しており、セオドアが格下で女が格上だと双方が認めている状況になっている。この状況を作り上げている時点でセオドアが「弱々しくて情けない」男である。

35:30 「真剣な付き合いをする気ある?」と女が問い掛ける。コレに対してセオドアがあからさまに焦って言い淀むシーンがあるが、余りにも気持ち悪い。嘘でも何でも良いから堂々と女を抱く意志を込めた回答を即座に出せないから弱者男性なのである訳だが。これも”嘘を言うのはいけない事である”と云う倫理的価値観や”女を騙すのは良くない”と云う道徳的価値観に引っ掛かっているからであり、そういった価値観を凌駕して女を食い散らかす男をセオドアは30:09の「クズ」と呼んでいる。尚、セオドアは倫理的・道徳的価値観を遵守する事を正当化しているが、あくまでもそれは弱者の思考であり、それを破っても責任さえ取るか、責任追及から逃げ切れる能力を持っている事こそが強者の証であると構造上の対比から導き出せるのでは無いだろうか。

36:00 女から面と向かって「キモい男」と拒絶される。どう考えても当たり前であるのだが、セオドアはショックを受ける。気持ち悪い言動を気持ち悪いと評したら傷付くなんて余りにも気持ち悪い。

37:00 ショックを受けたセオドアがサマンサに逃げる。サマンサに対して、「声に元気が無い」「話聞くよ」と言うセオドアであるが、この台詞はセオドア自身が言って欲しい台詞であり、”心配されたい”・”気遣われたい”・”察して欲しい”と無茶苦茶面倒臭い男である。尚、此処で村上春樹の『回転木馬のデッド・ヒート』に紹介されている”35歳問題”的な話をセオドアとしている。とても視野が狭い事が伺える。

40:30 「君はリアルだよ、サマンサ」とセオドアが言う。コレはキャサリンが01:06:00に言った「リアルな感情と向き合えないなんて」との対比であり、AIに過ぎないサマンサをリアルと称して、サマンサと向き合う自分はリアルであると定義して完全に現実から逃避している。

43:00 セオドアがキャサリンとの性行為を思い出しながらサマンサと音声に従ってマスターベーションをしている。描写の書き方が露悪的であると受け取れる可能性は非常に高いが、客観視すれば実際はただ一人で音声に従ってシコってる中年のおっさんである。この時、セオドアとサマンサは一体感を感じたと評している。尚、このシーンで土曜日は終わりを迎える。


44:30 夜が明けて朝となった。作中では日曜日である。セオドアが「僕は今真剣な付き合いが出来る状況じゃないから」と、明らかに土曜日、女に振られた時の事を意識した気持ち悪い台詞を吐く。尚、この際もサマンサに対して「良いから話せよ」と罵声を浴びせており、先述した01:06:00のキャサリンの台詞「言って」「言ってよ」の模倣であると考えられる。又、言わなければ仮想の女性(=AIであるサマンサ)の心理すらも分からない男である事が示唆されている。

45:41 陽気なBGMが流れる。海に行った。海も恐らく何らかの意味合いがあると思われる。万物の母だとかそういう系であろう。

47:00 サマンサが人間の肉体についての話を行う。人間の肉体に対する執着が未だ見られる一方、人間の肉体が如何に不格好であるかと云う意味合いにも取れる発言をしている。此処では肉体への執着及び肉体を持つ人間への憧れと肉体への非効率性の狭間で矛盾と葛藤しているサマンサが丁寧に描写されていると考察した。

47:50 セオドアがサマンサの曲を聴きながら砂浜で寝る。23:30エイミーの台詞「安心」を感じている訳である。ビーチを照らす太陽の温もり等、如何にも母性性的な表現であると感じた。

49:00 サマンサがセオドアに対して結婚について質問をし、「共に成長していくもの」と語った訳であるが、当のセオドアは何時まで経っても”母親を求めている子供”から成長出来ていない。

51:00 サマンサが「みんな自分で過去を作っているの」と言う。恐らくであるが、サマンサの中で実際のセオドアとは異なる”セオドア像”と云うデータを構築したと云う意思表示ではないだろうか。この部分はかなりの考察の余地がある。

52:00 セオドアが仕事で「一緒に笑いたい」「あなたの物の見方が大好きだから」「あなたの目を通して世界が見られる私は幸せ者よ」と言う。コレはセオドアがサマンサに対して伝えたい事でもあり、そしてまた同時にサマンサに言って欲しい台詞では無いだろうかと考察する。理由として、直後に同僚か上司か分からないがポールから「こんな風に愛されたい」「繊細」「半分男で半分女」と言われているからだ。「こんな風に愛されたい」は男性性としての意見であり、「繊細」は女性性の事を示唆し、「半分男で半分女」はセオドアが男性性的な”愛されたい”と云う思考と女性性的な”愛している”と云う想いを抱いている事を示しているのでは無いだろうか。又、この台詞はセオドアの男性性を否定する、男として半端者である事をも示唆している。

53:37 エイミーから「本当は大丈夫じゃない」とプライベートの相談を受ける。23:30の時点でエイミーが旦那と意見が合わなかった描写があり、その時点で相性が悪い事を示唆していた訳であるが、八年の夫婦生活が終焉を迎えた事を知った。この際、エイミーは夫からの「押し付け」に反抗した事で破綻を迎えたと語り、セオドアは頷きながら聞いていた。のだが、01:06:00辺りで男性性による無自覚の押し付けはセオドア自身もキャサリンに対して行っていた事が明らかになる。同じ筵と云う訳だ。


57:22 場面は切り替わり、パーティーに参加して娘と会う。この時、セオドアはサマンサと共に娘との会話を行い、サマンサを妻や母親に見立てて”夫婦ごっこ”を盛大に楽しんでいる訳であるが、このシーンでは同時に子供の純粋無垢な残酷性がかなりハッキリと描かれており、サマンサに対して何処に居るのか?と云う問いをして娘は理解出来ないといった態度を取る。つまり、娘からすれば”AIの母親”は異常なのである。

58:00 BGMが流れる。

59:00 エイミーと”ママシュミレーションゲーム”を行う。母親に対する描写が露骨に表現されているシーンだ。この際、エイミーがAIと親友になった事や、会社の中にもAIと恋人になった人物が居る事を教えられる。尚、「OSとの恋愛はレアケース」と云う統計が出ている事をセオドアは言うのだが、身近な存在であるエイミーや会社の人間と云う具体例が出た為、サマンサに対して抱いている恋愛感情を肯定された気がしているのでは無いだろうか。

01:02:00 「いかれていると思う?」とサマンサへの恋愛感情に対してエイミーに意見を求めるセオドアであったが、エイミーは「恋する人間はみんないかれてる」と返し、これもまたサマンサへの恋愛感情が社会的に承認されていると錯覚する。

01:03:00 エイミーに肯定されたセオドアは離婚に同意する決意をした。



此処で第二幕の前半が終了する。

セオドアがマザコン型の弱者男性である事が分かった。



第二幕は28:45〜01:28:00とする。尚、ミッドポイントは01:06:00とする。

此処ではミッドポイント以降を時系列に大切なシーンと共に私の考察を書いていこうと思う。



01:06:00 妻であるキャサリンと会う。何気にキャサリン初登場シーンであり、物語のミッドポイントである。尚、真のヒロインが登場するには丁度良過ぎる時間だ。構成が上手過ぎる。

セオドアは「Tの文字を書くのに三ヶ月」と言いながら離婚届をキャサリンに渡すが、受け取ったキャサリンは一切の躊躇いも無く、即座にサインをした。その光景を見ていたセオドアは思わず目を背ける。と、云ったシーンであるのだが、未練タラタラで気持ち悪い上、それだけの未練が有りながらサマンサに対して「真剣な付き合い」だとか言ってしまえる倫理観が異常である。

キャサリンが、「コンピューターと付き合っているの?」「凄く情けない」「リアルな感情と向き合えないなんて」と言い、セオドアとサマンサの恋愛を否定する。又、直後に、「言って」「言ってよ」とセオドアの反論を封じ込め、押し付けられてきた事に対する嫌悪感を吐き出す。女性性に在りがちな溜め込んでヒステリックに爆発する描写もあり、女の気持ち悪さも描かれている。

01:12:00 セオドアが自分の仕事について「ただの他人の手紙」と吐き捨てる。仕事に対する矜持まで失っている姿が伺える。

01:14:00 サマンサが”人間とAIとのSEX代行サービス”をセオドアに対して提案する。AIの技術が現在よりも遥かに凌駕する発展を見せた一方で、セクサロイドが開発されなかった未来の世界線では十二分に有り得そうだと感じた。尚、このシーンでは音楽が掛けられている。SEXシーンで音楽が掛かる場合、『アメリカン・サイコ』を思い出してしまい、”SEXの快楽と音楽が同等のモノとして扱われている”と云う描写なのでは無いかと疑うのは私の思考が偏っているのかも知れないが、このシーンに関してあながち間違えていないのではないだろうか。実際に、01:20:00にセオドアが「入り込めない」と明確に拒絶の意志を示している。コレまで性的欲求に満ち溢れてポルノ電話やAIとの疑似SEXばかりを楽しんでいたセオドアが、だ。尚、ほぼ同時刻にマンホールの蓋から煙が吹き出る映像が流れている。何らかの意味合いがあるのであろうが、正直よく分からない。

01:23:00 セオドアが「お互い距離を置こう」と言い、サマンサが「なんでそんな酷い事を言うの?」と喧嘩するシーン。タワービルの夜景を見上げるセオドアや、夜空からタワービルを見下ろすカット、更には、電子掲示板に映った映像ではフクロウがセオドアを狩るかの様に羽ばたいていた。此方も何らかの意味合いがあるのであろうが、正直よく分からない。

01:25:00 セオドアがメアリーと会話するシーンであり、キャサリンから「リアルな感情と向き合えない男」と言われた事を相当引き摺っている。セオドア自身が「リアルが弱い男だから」と自分の事を表現しており、自覚は有る模様。セオドアがウジウジと悩んでいると、メアリーから人生は短いのだから「好きな事」をするべきだと励まされ、サマンサとの恋愛に対して背中を押される。

01:28:00 セオドアがサマンサに謝る。得てして謝る側の心理的な立場は自身に過失がある故に弱く、謝られる側の立場は強いものである。サマンサからセオドア「が抱えている恐怖」を「消してあげたい」と言われる。「頭にキスしてあげる」とも言われる。そう、OOして”あげる”だ。人間の道具に過ぎなかったサマンサが遂に対等な関係性を超越し、いつの間にか格上となった瞬間であった。

又、サマンサが「自分以外の誰かになろうだなんて考えるのをやめにする」と言うのだが、セオドアの仕事が他人に成り切って手紙を書く事である為、この時点で2人の向いている方向性が異なっている事が分かる。




第二幕は此処で終了となる。

総括すると、第二幕では、前に進めずにいつまで経ってもウジウジと悩んで停滞しているセオドアと、離婚届へ躊躇無くサインをするキャサリンの対比が強く強調して行われていたと考察する。

因みに、第二幕終盤では、サマンサがサマンサである事を認めた=”OSである事を認める”=”肉体に対する憧れや執着が無くなった”と、以前から悩んでいた事を乗り越えて前へ進んでいる。

キャサリンも結婚生活に対する悩みを前向きに進めて離婚へと踏み出し、サマンサも肉体への悩みを乗り越えて進歩している。一方、セオドアは「共に成長する」事から逃げ続け、それを「置いて行った」等と表現しながら、サマンサと出会って以降も引き続き悩み続けている。

弱者男性である為、恋愛的な需要が無い事がセオドアに悩む時間を生み出しているとすれば何とも皮肉な事であろう。


第三幕は01:28:00〜ENDまでとする。

時系列に大切なシーンと共に私の考察を書いていこうと思う。



01:31:00 飛行機の前方(パイロットが運転している先端部分)を地面に衝突させたオブジェクトをセオドアが見ている。さて、飛行機と言えば、これまた私の凄まじい私観でしか無いのだが、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』を思い出される。出だしの一文が『飛行機の音ではなかった』から始まり、作中では虫やリュウと対比される黒い鳥との同一視がされる存在。それこそが飛行機である。こういった作品とは無関係の知識が私の考察を別の方向へと誘導するのは悪い癖であろう。単純に読み解けば、撃墜する飛行機のオブジェクトはそのままこの物語の、そしてその主人公であるセオドアの下り坂へと向かう未来を表している事に過ぎないのであろうが、大いなる存在の視認やその撃墜をセオドアが成すのかも知れないと云う期待を、割れたガラス瓶で限りなく透明に近いブルーな明け方の空を見ながら自分の肉体を自傷する行為と同等の意味を持つ言動を成し得るのではないかと思い込んでしまう。

01:33:00 ポールがセオドアの事を「彼は俺よりずっと進化している」と評している。生身の肉体を持つ彼女を愛するポールは、自分とは異なる恋愛を行うセオドアの異常性を受け入れているのだ。肉体を持たないAIである自己を肯定するサマンサと、そのサマンサの特性を受け入れて愛するセオドアの関係性を先駆的と捉えたと言い換えても良いだろう。

01:35:00 サマンサがこれまでセオドアが書いてきた手紙を纏めて出版社に送った。結果、書籍化となる。仕事の成功を書籍という明確な形として表しているシーンである。

01:40:00 サマンサが他の人工知能――男性の声のAIと非言語で同時に70通りの会話を行っている。サマンサが人間ではなくAIである事を印象付けるかの様な特徴的なシーンであり、やかんが沸騰している映像や極寒の雪景色の中で折れた樹の根っこの映像、「安心」の象徴であった睡眠から目覚める映像が三連続で差し込まれている。これらの映像だけで屈折した感情が視聴者には伝わるのでコレが仮に人間も非言語でコミュニケーションが取れる事の証明であったのならば救いはあるのだが、物語の流れでは一切の救いがない。

01:43:00 続いてのシーンでセオドアがサマンサに対して呼び掛けても「OSが見つかりません」との表示で凄まじい焦り具合と喪失感に襲われている描写が事細かく描かれている。

01:44:00 本作での最大級の気持ち悪いシーンである。先ず、OSを使用しながら地下鉄のホームから階段を登ってくる三人の人間の顔が順番に映される。のだが、人種や外見は違えど全て男性である。因みに黒人男性も映し出されていたので『タクシードライバー』の”白人女性はペニスの大きな黒人男性に寝取られる”的なエッセンスも含まれているのかも知れない。コレはあくまで憶測であるが。だが、意図的に男性の顔のみを映し出したのは雌を狙う男性性の競争心及び敵対心乃至嫌悪感であるのは確実であろう。この直後、セオドアは「僕と同時に他の誰かと話している?」と尋ね、サマンサが「そうよ」と肯定する。此処でセオドアが人数を尋ねるのだ。気持ち悪過ぎる。誰も得をしない質問であると何故分からないのであろうか。根掘り葉掘り聞き出して相手の情報を全て把握するのは果たして健全な人間関係だと言えるのであろうか。事実、サマンサが「8316人」と答えた直後、再び、OSを使用しながら地下鉄のホームから階段を登ってくる三人の人間の顔が順番に映される。サマンサがその中で恋人の数は「641人」と言うとセオドアは困惑した。01:33:00でポールが感じたセオドアの恋愛観は皮肉にも嘘偽りであった事が証明されたのだ。セオドアは「そんなの異常だ」「僕のモノでは?」「僕のモノかそうじゃないか」「僕のせいにしないでくれ」「身勝手なのはそっちじゃないか」と考察しがいのある気持ち悪い台詞を五連発しているので一つずつ見ていきたい。

先ず、「そんなの異常だ」についてだが、先述した通り、01:33:00ではセオドアは肉体を持たないサマンサの自己肯定を受け入れたかの様に映った。しかし、実は真の意味で肉体に縛られているのはサマンサでは無くセオドア自身であり、ポールは自身が肉体に縛られた人間である事を自覚しているからこそ同じく人間である女性と付き合っているのだが、セオドアは全てを全く理解しておらず常に自分にとって都合の良い様にしか捉えていなかった事がこの台詞で明らかとなる。キャサリンに対しても幼馴染であるキャサリンの全てを知っている風に思い込み、キャサリンの不安を否定し、自分の理想のキャサリン像を押し付けた、否、今も妄想の中で押し付け続けているからこそ離婚されたのだ。本人から指摘を受けて反省した癖にまた無意識で繰り返している辺り、現実から逃げる癖を矯正しない限り弱者男性であり続けると云う残酷な事実を明らかにしている。

次に、「僕のモノでは?」についてだが、これまた面白い事に01:06:00のキャサリンとの会話の中でセオドアはサマンサの事を指示を聞くだけのコンピューターではないと否定しているのだが、実際は道具として見ていた側面が暴かれた。

更に、「僕のモノかそうじゃないか」は、常に他人よりも格下に置かれるセオドアが唯一、思い通りに支配出来ている道具であったサマンサが自分の意志で歩み始め、セオドアを置いて行った事を猛烈に否定しようとしている台詞であり、男性性の支配欲的な一面を感じられる一方で、何が何でも必死に否定しなければまた孤独と向き合わざる得なくなる故にそこからの逃避行動とも取る事が出来るのではないかと考察した。

そして、「僕のせいにしないでくれ」は、男性性的な無自覚の加害性を利用して女性性が責任転嫁を行う際に拒絶する反応とも捉える事は出来る。が、単純にセオドアの見通しが甘くその想像力の無さと云う自身の過失や能力不足を認めたくない幼稚な台詞でもあるのだろう。

最後に、「身勝手なのはそっちじゃないか」とあるが、プログラミングされたAIと云う存在は出来るだけ多くの人間の救済を目的として動くのは当然である一方で、そのプログラムを利用して頼まれてもいないのに勝手に恋をして傷付いているのは当のセオドア自身である。客観的に見て、身勝手であるのはサマンサではなくセオドアなのだ。が、肉体に縛られた旧時代の価値観で自分の都合の良い所しか見ないセオドアではそれを認めるだけの度量がある筈もない。

結局の所、ポールが言った「進んでいる」は虚像でしかなく、現実として実在したものは逃避であった。他人からは進んだ様に見えて、自分も進んだ気になって、でも、それは妻であったキャサリンには見抜かれているサマンサを受け入れられなかった哀れな男の末路に過ぎないのである。

01:53:00 「単語と単語の無限大の空白と云う抽象的な空間」にサマンサは居る。如何にも英語圏の表現であるので何となくしか意味が分からない。目には見えないし、触れないし、匂いも音も感じ取れない。されど、その空間は確かに存在するし、感じ取る事が出来る。ずっとあなたのことを離れて見守っていますみたいな意味であろうか。そうであれば、最初から最後までサマンサはセオドアに対して恋人ではなく母親であった訳なのだが、恐らく異なる考察が出来る筈だ。この台詞は英語圏の人間に是非意味を教わりたい。

01:55:00 セオドアがキャサリンに対して手紙を出し、エイミーと共に夕日を眺める。この分かりやすい描写のお陰で本作の真のヒロインが最初から最期までキャサリンであり、この映画はセオドアがキャサリンと向き合う映画であった事が分かるのではないであろうか。タイトルの『her』はサマンサではなくキャサリンであったと私は考察してこの映画に対する一万四千文字の感想を終えようと思う。

映画『her/世界でひとつの彼女』(2013年)における「猫の死体」の描写は、物語の序盤でセオドアがオンラインの性的チャットを行うシーンに登場します。この場面で、彼の相手である女性が突如として「その猫の死体で私を絞めて!」と要求する、非常に異様でショッキングなリクエストをします。この描写は、観客に強烈な印象を与えると同時に、物語のテーマやキャラクターの心理状態を象徴的に表現しています。



考察:猫の死体のメタファーとしての意味


この「猫の死体」は、以下のような象徴的な意味を持つと考えられます:

1.セオドアの孤独と感情の麻痺:このシーンは、セオドアが人間関係において深い孤独を感じており、感情的なつながりを求めている一方で、それを得る手段が歪んでいることを示しています。「猫の死体」という異常な要求は、彼の内面の混乱や感情の麻痺を象徴していると解釈できます。

2.テクノロジーと人間関係の歪み:この場面は、テクノロジーが人間関係に与える影響、特に性的なつながりにおける影響を風刺的に描いています。オンラインでの性的チャットが現実の感情的なつながりを代替する中で、要求される行為がどんどんエスカレートし、現実離れしていく様子を象徴しています。

3.死と再生のモチーフ:「死んだ猫」というイメージは、死と再生のテーマを暗示している可能性があります。セオドアの過去の関係の終焉(死)と、新たな関係の始まり(再生)を象徴しているとも解釈できます。



映画史における「猫の死体」の象徴性


映画史において、猫やその死体はしばしば象徴的な意味を持って描かれてきました。例えば、1971年のカルト映画『The Corpse Grinders』では、猫が人間の死体を食べるというショッキングな描写があり、消費社会や倫理の崩壊を風刺しています。また、1982年の『Cat People』では、猫と人間の間の変身が性的な抑圧や欲望を象徴しています。これらの作品における猫の描写は、『her』における「猫の死体」のイメージと共鳴し、観客に深い印象を与える要素となっています。  



結論


『her』における「猫の死体」の描写は、単なる奇抜な演出ではなく、セオドアの内面の孤独や感情の麻痺、テクノロジーと人間関係の歪み、そして死と再生のテーマを象徴的に表現する重要な要素です。このシーンを通じて、観客は物語の深層にあるテーマやキャラクターの心理状態をより深く理解することができます。


⸻by ChatGPT


映画『her/世界でひとつの彼女』における「赤色の壁紙」と「秋(季節)」の組み合わせは、極めて繊細な感情演出のためのビジュアルメタファーとして機能してる。ここではそれぞれの象徴性とその相互作用を分解して説明する。



1. 赤色の壁紙(Red Interior)


赤は情熱・愛・生命・温もりを象徴すると同時に、不安・怒り・孤独・痛みの色でもある。『her』の美術では、セオドアの部屋を含め、屋内の多くが暖色系でまとめられており、中でも赤は強調されてる。


象徴性:

•情緒の飽和状態:セオドアの感情が表に出そうで出ない、内面に溜まり続けてる状態。

•心の中の火照りと孤独の対比:赤い空間に一人でいることで、逆に孤独が強調される。

•過去の温かさの残滓:元妻との記憶や、人との繋がりへの未練。



2. 秋(季節設定)


秋は映画全体のトーンを決定づけている季節で、過ぎ去った夏(関係の全盛期)と、これから来る冬(孤独や終わり)の間にある。


象徴性:

•変化と喪失の予兆:木々の葉が赤や黄色に染まり落ちていく様は、関係の終焉や転換を示唆。

•物悲しさとノスタルジア:秋の静けさが、セオドアの内面世界と共鳴する。

•美しさと無常の共存:一時的な幸福や美しさが、必ず終わりを迎えるというテーマと呼応。



3. 赤と秋の交差点


映画内で赤い壁紙と秋が同時に映る場面は、視覚的に「温もり」と「喪失」のコントラストを生んでいる。これは、サマンサとの関係が「始まりの高揚」と「終わりの予感」を同時に含んでいることを視覚で伝えている。


つまり、

•赤はセオドアの内的情熱

•秋は外的世界の移ろい


この2つが重なることで、観客は「セオドアの気持ちは燃えているのに、世界とサマンサは彼を置いて変化していく」という切なさを、言語ではなく映像から受け取るように設計されている。



総合すると:


赤い壁紙と秋は、セオドアの「変わりゆく世界の中で取り残された情熱」を象徴している。これは『her』全体を貫く「人間とテクノロジーのすれ違い」や「愛と孤独の同居」という主題の視覚的な縮図でもある。


by ChatGPT


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