覚え書き1205 ハズレスキル「幽体離脱」
「空の空。この世は空。天の下に新しきものは無い。あらゆるものは空と帰する。
……これが戦う民主主義か」
議場の隣の控室のソファでエムオウはいまだ鼻血の滴る鼻をハンカチで押さえながら言った。
「属州トラキアでは農奴制は廃止出来たのに、道半ば、行動も半ば、手段も半ばにして、ためらいながらあくせくして判断を誤り、大陸中に農奴制は残り難民や移民はさまよいつづける」
エムオウは後頭部にある子供の時のけがで親指の先ほどへこんだところをさすりながら言った。
「活動家どもは無償の愛とか隣人愛で活動しているが、そういう価値観を持たない一般民衆は移民や難民という有限の社会資源の分捕り合戦のプレーヤーが増えることを良く思うわけがない。それをヘイトだという奴は頭がおかしい」
エムオウはやや興奮気味に話していたがしゃべり終わるとぐったりとなった。すこし押し黙った後、エムオウは傍らに控える警備員や自分の秘書官たちに言った。
「すこし一人になりたい。退室していただけますか」
彼らが部屋を出て行ったあとこちらに向かってまくし立てた。
「(読み飛ばし可)カネで勇者の称号をもらったくらいでピーピー言うからいつまでもトラキアは資本主義経済が発展できないのだ。大体ブン屋どもが悪い。新聞や出版社どもが抱える頭の悪い経済評論家と称するやつらは株で儲かろうとする連中を引き寄せて雑誌を購読させることが仕事だ。だいたい経済評論家なんて大道芸人のようなものだ。カネ稼ぎのためそこらの大衆にカネを払うに値すると思わせる芸を見せなければならない。星を見るように経済を見て株価占いという芸をおカネに余裕のあるやつのために披露する。だからカネは無いが芸をただ観る時間だけはたんまり余裕のある奴は経済評論家の言うことを真に受けてはいけない。それなのに口だけあって頭の無い奴らが客寄せのスカットする政権批判という芸の一種を真に受けて空っぽの頭らしき容器に入ったそれを真似て口から喚くから当選したい政治家もそいつらに受けることしかしなくなる」
そこまでいってこちらの世界で彼しか見えないチート能力「幽体離脱」を持つ異世界転生者で霊体状態のアタシに言った
「ウエスギさん。いまの箇所は記録しないでください」
「どこからですか。」
「悪口に該当するところは。後世には僕のきれいな事績だけ残したい」
そう話すエムオウは彫りの深い凛々しい顔に鼻血を止めるために鼻の穴に詰め込んだハンカチの先端がぶら下がっているので非常に滑稽に見えた。
エムオウがぶら下がったハンカチを指先ではじいて揺らしているとドアがノックされ、すぐに若い秘書官が入ってきた。エムオウが振り向いた際に鼻からぶら下がった布の先が揺れ、それを見た秘書官は笑いそうになり口を少し抑えた後、言った
「総督。先ほど難民や移民受け入れに関する州法がすべて廃止する内務長官の動議が可決されました」
「まあ官撰議員を総動員しているから通らないわけがないな。わかりました。ありがとう」
秘書官は笑い出すのをこらえながら急いで部屋を出た。
エムオウは懐から手のひら大の時針のみの24時間表示の最新式の懐中時計を取り出した。そして針のさす時間と壁にかかっている時計を見比べた後、懐中時計の裏蓋を耳にあてた
「だめだ。さっきので、壊れたのかな」
懐中時計のねじを少し引っ張って回そうとしたがどうも動かないようで裏蓋を何回か指ではじいた後、あきらめた表情で、アタシの方に向き直りまたしゃべりだした。
「(読み飛ばし可)ここは記録をしてくれ、僕は半年とかからず魔王を倒せた。まさか魔王退治より大陸から農奴制を無くすほうが難しいとは思わなかった。エムオウは言った『魔王を倒した後のエムオウにとって大陸から農奴制を廃止することが最大の課題であった。魔王を倒す以前にエムオウが勇者パーティーにいたとき人さらいの盗賊団のアジトを制圧し当局に引き渡すという依頼を受けた。だが探り当てアジトを急襲すると人さらいではなく逃亡した農奴たちの家族たちだった。彼らが盗んだものは売り飛ばされるはずの自分の娘や息子だった。事情を知ったエムオウはパーティメンバーに強硬に見逃すことを主張したために見逃すことになった。だが彼ら逃亡した農奴の家族たちはのちにほかのパーティーに見つかって子供は買主に、大人たちはもとの領主にもとに返され見せしめの凄惨な懲罰を受けたと聞き、農奴制の廃止を誓った。エムオウが属州トラキアの総督になってまずやったことが自分の統治する属州での農奴制の廃止でこれは強権的(非民主的)に実現できた。だがほかの国の農奴制の廃止は、廃止をすすめる書簡を送ることしかできなかった』」
エムオウはここまでまくしたてたあとアタシに言った
「ところでウエスギさん、昨日、あなたが僕の輝かしい魔王討伐の覚え書きをうっかりとほぼ全部破棄したのは事実かな」
「申し訳ありません。うっかりと全部」
「うっかりと……。頂き女子2.0のウエスギさん。前世外道ゲス女の本来転生すべきでないあなたを幽体離脱の能力があるゆえに、僕の輝かしい事績を記録して後世に残すために特別秘書官に任命したのです。その役目をしっかり果たしてください。まあ、別に正確に再録しなくてもいいですよ。ほしいのは正確だが事実が羅列されたかび臭い歴史書ではなく壮大な大理石の記念碑のような僕を称える「作品」ですから。多少創作しても構わないから立派なものを創り上げるようにしてください」
血が止まったのか鼻に詰めたハンカチを取り出しポケットに入れた。
「こういうところもわざわざ書かなくていいですからね、ウエスギさん。もう元の躰に戻っていいですよ。」
そこでアタシは控室内のロッカーに隠してある本体に戻った。体から10㎞ほどまでなら念力を使って自由に幽体離脱で移動ができる。ロッカーから出るとエムオウはごわごわした黒いフードのついただぶだぶのローブのような黒い修道服を羽織って黒いスカーフで顔のあたりを覆っていた。民衆に嫌われている彼はこれで変装して街中を歩く。
「ウエスギさん。僕はラガド研究所の「鉛の小屋」に寄った後、国営食肉工場にいくので少し休憩したらまた幽体離脱で追いかけてください」
そういってエムオウは隣の議員会館に通じる議会地下室にある秘密通路に向かった。