07
朝食を終えると、リンは街に向かう準備を始める。
「そろそろ雪が降るだろうから食料を多めに買ってくる。いつもより少し遅れると思うから、昼食は二人で先に食べちゃってね」
普段通りマントを羽織りながら言うと、フィンは淋しいのか少し不満そうにしつつも頷いた。
その隣でふわふわと飛んでいたフィリが、不意に「俺も行く」とぽつりと言う。
「魔法があればお前が重たい荷物を持たなくてもすむだろ」
「そんなこと気にしなくていいのよ。それに、いつもフィンを一人で残していくのが心配だったの。むしろ残ってくれると嬉しいわ」
「ね?」と首を傾げてお願いすれば、フィリは迷いつつも渋々とばかりに頷いた。
玄関先でフードを被って屈むと、それを合図にフィンが駆けよってリンの首に抱きつく。
「行ってくるね、フィン」
「うん。お姉ちゃん、気をつけてね」
リンは離れ際にそっと弟の頬にキスをして立ち上がった。すると、二人のやり取りに驚いたようにきょとりと瞬くフィリが目にとまった。
(そういえばフィリが来てからは出かけるのは初めてだっけ……)
「フィリも。行ってきます」
フィンにしたように、そっとドラゴンの小さな鼻先にキスをする。途端、ぶわりと羽根が逆立つように広がって硬直したフィリは、そのまま地面に落ちそうになって慌てて体勢を整える。
「な、なにを……!?」
「ふふ。言ったでしょ。同じ家で暮らすんだから家族だって。家族はこうして挨拶するのよ」
あんまりな動揺っぷりに、フィンとリンはクスクスと笑ってしまう。笑いの冷めやらぬうちに、リンは手を振って家を出た。
「これぐらいあれば大丈夫かな……」
薪の準備はしてあるし、収穫した野菜は乾燥させて家に蓄えてある。
さすがに獣を狩ることは出来ないから街では干し肉を多めに買った。
(うん。ひとまず大丈夫そう)
オグウェスは北部のように雪で数ヶ月行き来が滞るような場所でもない。例え雪が降っても一週間も経てば余裕で外に出られるようになる。
路地の隅でバスケットの中を一つ一つ確認しながら、リンは「よし」と意気込む。さあ帰ろうかと顔を上げたところで、ふと近くにあった果物店が目についた。
「オレンジ……」
雪が降ると家にこもることになるし、食事も似たようなものになりがちだ。フィンの気分転換にも好きな物を買っていってあげよう。
店先で順番を待っている途中、リンはふと思う。
「フィリにもなにが好きか訊けばよかった……」
フィリは食事はいつも残さず食べているが、好きな物は訊いたことがなかった。
(せっかくなら買って帰ってあげたかったのに……)
いつも魔法で家のことを手伝ってくれるし、フィリのおかげでフィンも随分魔法の扱いが上手くなった。お礼もかねて喜ばせてあげたかったな、と残念に思う。
――フィンは幸せ者だな。お前が姉で。
耳の奥にあの低い囁きが返ってきて、ぽっとリンの頬が薔薇色に染まった。急に速くなった心臓を静めようと深呼吸をしているとき、不意に近くの客の声が耳に届いた。
「王都の騎士団が第二王子の行方を捜して国中駆け回ってるって本当なのか?」
「ああ。やっぱりあれがいないと魔法使いたちがなにしてくるか分からないからな。俺らだっておちおち寝ても居られないさ」
「ちょっと前に隣街に着いたらしい。もうすぐオグウェスにも来るだろうな」
(王子さまに向かって「あれ」なんて失礼な人たち!)
それも全部彼が魔法使いだからなのだろう。そう思うとリンは内心で腹が立って仕方がなかった。
(それにしても、第二王子さまは今どこにいるのかしら)
無事にオレンジを受けとったリンは、そんなことを思った。
聞きかじった話では、魔法使いの彼をどうこうできる人などいないから、自分から出て行ったって話だったけれど――。
薄曇りの空を見上げ、リンは自然とため息が出た。今にも降り出しそうな天気のせいか、それとも冬空の下にいるであろう見たこともない王子のことを憂うからか、リンの心に気鬱がさす。
フィリは魔法使いは孤独だと言っていた。魔法使い同士だったとしてもなれ合わず、一人で生きていくのだと。
(それなら、お城を出た第二王子さまは今一人……?)
一人ぼっちの青年の姿が、フィンの未来を思わされて辛い。
「あっ」
街門に向かう途中、考え事をしていたからか前から来た男を避けきれずにぶつかってしまった。よろけた拍子にフードが落ちてリンの長い茶髪がなびく。
「すみません……!」
振り返り際にリンをじっと見ていた相手の男と目が合い、慌ててフードを被り直して少し早足で門を出た。
(ああ、ビックリした……べつに姿を見られるぐらいは問題ないのに……)
そうそう知り合いになんて会わないはずだし、フードだって万が一の保険だ。けれど、いつだって顔を隠して外出していたから、慣れない状況に緊張してしまったらしい。心臓がドキドキしている。
それに男がまじまじ見てきていたから余計にギクリとしたのだ。
「本当に雪が降りそうだし早く帰ろう……」
お昼の時間はとっくに過ぎてるのでずいぶんとお腹がすいた。日暮れには早いけれど、曇り空のせいか辺りは薄暗い。
雪を警戒してか、街道の人通りは普段よりも少ない。悪天候も相まってその静けさに気味の悪さを覚えたリンは、小走りで森に入ろうとしたところ――。
「えっ……きゃあ!」
急に背後から手を取られて強い力で引っ張られた。よろけて尻餅をつくように崩れ落ちる。慌てて仰ぎ見た先には、街でぶつかった男が好色な笑みを浮かべてリンを見下ろしていた。
「な、なんです急に!」
吠えたところで、男はニヤニヤと嗤うだけだ。そして腕を掴んだまま、座り込んだリンを引きずるように木の陰へと向かい始めた。
ぎょっとして足を踏ん張りつつ腕を振り払おうとするが、どこに隠れていたのかもう一人の男がリンの腰を抱え上げたせいであっけなく身体が浮いてしまう。
「おい、本当に金になりそうなのか?」
「ああ、さっきフードの下を見た。それなりに整った顔だったし、見るからに身寄りのねえ平民の女だ」
金になるって……まさか売られる!?
男たちの会話にリンの血の気が一気に引いた。
冗談じゃない! 家では小さいフィンとフィリが待っているのだ!
必死になって手足をジタバタさせると、不意をつかれた男の腕が緩んで地面に落ちた。尻餅ついた拍子にフードが取れて、真正面から男たちを見上げてしまうとゾクリと恐怖で足が震えた。
「ほお……たしかに悪くないな」
「だろ? どうせなら少し俺たちで楽しんでから売ったって罰は当たらねえんじゃねえか?」
「たしかにここには人も来ねえし……少しぐらいならいいか?」
ジトリと肌を撫でる男の眼差しに、リンの喉が痙攣するように震え始める。
「……っ!」
「あ! 待て!」
「逃げるともっと痛い目をみるぞ!?」
「きゃあ!」
背中を向けて逃げようとしたが、髪や襟元を掴まれて引き倒されそうになる。
強い力で引っ張られた痛みと恐怖で、無意識に涙が浮かんだ。
けれど、ガクガクと震える体でリンは歯を食いしばって恐怖に耐えた。
(ダメよ! フィンとフィリが待ってるんだから!)
手探りで地面に爪を立て、そのまま背後の男たちに砂を浴びせる。男の悲鳴とともに髪を引っ張られていた痛みがなくなり、リンはそのまま駆け出した。
チラリと背後を見ると、運良く顔にかかったのか男たちは目許を擦ってリンへ怒号を上げていた。
すぐに追いかけては来られない様子だったので、リンは頭にある地理を生かして木々を掻い潜って家まで一心不乱に走り続けた。
気づくと男たちの声も気配も消えていたが、それでも恐怖に急き立てられ、リンは枝や小石で傷ついた足を動かし続けた。
ようやく家が目についたとき。玄関先に出した椅子に座って待つフィンと、その膝上で寝そべるフィリを見た瞬間、森から出たリンは崩れ落ちるように地面に座り込んだ。
「あ、お姉ちゃ――どうしたの!?」
リンは髪を振り乱して走ったせいでボサボサだし、何度も地面に転けたせいで服は汚れていた。
男から逃げるときの力で破られたマントは、今は首にかろうじて引っかかっているようなものだ。
フィンはそんなリンの姿を目にすると血相を変えて転げるように駆け寄って抱きついてきた。
「お姉ちゃんどうしたの? なにがあったの?」
心配と不安で涙を浮かべたフィンがリンの腹にぐりぐりと顔を押しつける。反射的にそれを宥めようとしたリンだったが――。
「誰にやられた!」
フィリの吠えるような怒声にビクリと肩が跳ねた。
顔を上げれば、羽根を羽ばたかせて浮かんだフィリは、リンの腕に残った人の爪と思しき引っ掻き傷に目を剥いていた。
怒りのせいでフィリの瞳は縦に瞳孔が開き、赤い瞳が普段よりもいっそう色を濃くして、血のように赤黒くなっていく。
リンでさえ思わず命の危機を感じたほどの怒気だった。それでも、次の瞬間にはフィリの姿に心底安堵してどっと涙が溢れ出た。
ボロボロと大粒の涙を零し始めたリンに、フィリの瞳から瞬きの間に怒りが消えて戸惑いが強くなる。
「リ、リン? べつにお前に怒ったわけではない……俺はただお前をそんなふうにした者が許せなくて……」
途端におろおろしたフィリは、ゆっくり下りてきたと思えばさっきまでの地響きを覚えるような圧倒的な威圧感が消え、弱った顔でリンを見上げた。
「大丈夫だリン。俺がいるから誰もお前には手出しできない……もう怖いことはない」
だから泣き止んでくれ。
ドラゴンの目はちっとも潤んでいないのに、今にも泣き出しそうなほどに弱々しい声だった。
フィリの小さな手がピタリとリンの頬に触れた。爪先には鋭い爪があるのに、リンはちっとも怖くなかった。むしろ、慰めるのに慣れていないそのぎこちない優しさのせいで、じんわりと胸がほぐれていき、リンの涙をいよいよ決壊して勢いを増した。
「お、おい!? どうした?」
「お姉ちゃん、大丈夫?」
困惑するフィリをリンはぎゅっと腕の中に囲った。もう一方の腕ではフィンのことを強く抱きしめる。
両腕に二人の家族を抱えて、リンは母の前でさえしたことがないような大きな声で子どもみたいに泣いた。