05
リンが名前をつけた翌日から、フィリは小さなフィンの肩や頭にのって着いて歩き、家事や手伝いの片手間で魔法を教えていた。
「今まで使ってきたのは物を浮かせることと動かすことぐらいか?」
「うん。魔法ってなにが出来るのか分からないし……」
この二つはたまたま出来たから使ってるのだと、フィンは恥ずかしそうにもじもじと言った。
「魔法はそれこそなんでも出来る。細かいコントロールが可能になれば座ったまま指だけで料理も出来るし、空を飛ぶことだって出来る。出来ないのは傷を回復させたり、死者を生き返らせたりといった体に働きかけることぐらいだ」
「魔法ってそんなに万能なんだね」
編み物をしながら見守っていたリンが思わず言うと、フィリはその長い首を大きく沈めて頷いた。
「魔法で契約書を作って、絶対に破られることのない約束をすることも出来る。王族はそうやって戦争に使った魔法使いたちが自分たちに仇なすのを防いでいる」
「王族……つまり、魔法使いである第二王子さまがその約束を結んだってこと?」
「ああ。国王や皇太子たちがなにより恐れているのが、その強大な力が自身に向くことがないかということだ。だから戦争が終わり次第、第二王子に命じて国が把握しているすべての魔法使いに契約を結ばせた。決して魔法を使ってこの国の害になることはしないと」
本当は自由に魔法を使用することすら禁じたかったが、それでは魔法使いが絶対に応じないと説得されて王たちは渋々やめたのだと、フィリは呆れた声でつけ加える。
そしてドラゴンの小さな口は、「魔法使いとの契約はだまし討ちのようなものだった」とも言った。嫌悪や皮肉が混じった声だ。どこか自嘲的にも聞こえた。
リンは思わず向かいで頬杖をつくフィンを見た。目が合うと、姉たちの話を半分ぐらいしか理解できてないような、でもちょっぴり不安な顔で笑ってくる。子ども特有の細い髪をそっと撫で、リンは心配そうに眉をひそめた。
「フィンも大きくなったら国と契約を結ばないといけない?」
「いや。国に見つからなければしなくても済む。だが、ずっとこの国に住むつもりなら、無用な疑いを避けるために契約結をんだほうが面倒は減るだろうな」
「そうよね……」
まるで罪を犯した囚人のようだ、とリンは思った。
生まれ持った力のせいで恐れられ、制約で縛られなければ自由になれない。リンはこれからこの国で大きくなっていくフィンのことを思う。そして、そんな契約を結ばされたほかの魔法使いたちを思う。そして――。
「第二王子さまは、仲間であるほかの魔法使いから恨まれたりしてないのかしら……」
以前に頭を過ったぽつりと一人で立ち尽くす第二王子の幻影が、再びリンの脳裏に浮かんだ。血を分けた王族からも疎まれ、しかも同じ力を持つ魔法使いからも恨まれていたら……それなら、その人の居場所はどこにあるのだろう。
フィリはリンの言葉に驚いているようだったが、すぐに動揺を抑えて答える。
「そりゃ恨まれてはいるだろう。だが、魔法使いは個人主義だ。人と関わることなく生きてきた者たちだから、仲間などという意識ははなからない」
だから恨まれたところで痛くも痒くもないと?
そう思ったけれど、リンは訊けなかった。あまりにフィリがなんとも思っていない顔で言うから、そう思う自分のほうが異質な気がして口が重かったのだ。
どこか気まずい沈黙が横たわった。不意に、それまで静かに話を聞いていたフィンが手を上げてからフィリに訊ねた。
「なんでも出来るって言うけど、じゃあお皿を洗ったり、洗濯をしたりも出来る?」
「ああ。出来る」
途端、フィンはキラキラした目で「出来るようになりたい!」と身を乗り出した。
「そんなことに魔法を使っちゃっていいの?」
絵本や空想が好きだから、てっきり空を飛んでみたり水の上を歩きたいなんて言うかと思っていた。
「だって冬は水が冷たいでしょ? お姉ちゃん、前に痛いって言ってたもん」
だから手を使わずに洗い物を済ませたいのだと、フィンは意気揚々に鼻を鳴らした。
弟のその優しさにリンは感激した。身を乗り出し、向かいに座っているフィンの頬を両手で包んでぐりぐりと額を合わせた。
「もう~! フィンてばそんなこと言って~。なんて優しい子なのかしら!」
「お姉ちゃん、目がぐらぐらするよお」
きゃーとフィンは喜ぶ悲鳴をあげる。
しばらくして手を離すと、フィンは乱れた髪に「もう、ぐちゃぐちゃだよ」と言いつつも、くふくふと笑っていて嬉しそうだ。
姉弟の和やかな雰囲気に魅入るように、フィリは二人のことをまじまじと見ていた。
そして、リンが身を乗り出したことで机の上に置かれた編みかけの物に目をとめ、「それはなんだ?」と訊ねる。
「街に持って行くならこのサイズは小さいだろう。子どもだって着れないぞ」
訝しむフィリに、リンはふふっと不敵な笑みで編みかけのカーディガンを広げて見せた。
「実はね、これは売り物じゃなくてフィリのよ」
「……俺の?」
ええ、とリンは満足げに大きく頷いた。
「冬は寒いし、最初はセーターにしようと思ったの。でも、フィリは羽根があるでしょ? だから、着脱しやすいようにボタンをつけて前開きにしようと思って」
小さいから今日か明日には完成できそうよ。
得意げにニコニコしたリンに、フィリはパカッと口を開けて言葉をなくしていた。
しばらくして、まだ状況をハッキリ受け止められてない半分ぼんやりした頭で、「俺はドラゴンだし寒くないが?」と反論したが、姉と同じようにニコニコ顔のフィンが、
「良かったね、フィリ。僕たちとお揃いだね」
と小さい手でこれまた小さなドラゴンの頭を撫でるから、フィリはそれ以上なにも言えず、やがてこくりとなにかを飲み下すように頷いた。
その夜。フィンが寝室で寝息を立て、周囲の森も夜の静けさでシンとし始めたころ。
リンはダイニングテーブルで眠い目をこすり、まだ編み物を続けていた。
「あともうちょっと……うん。ここが終われば、もう……完成……」
しょぼしょぼの目をこすっては欠伸をし、それを何度か繰り返す内にリンは船を漕ぎ始めた。くわっと一際大きな欠伸をしたあと、リンはとうとう眠気に耐えきれずにテーブルに突っ伏すように寝てしまった。
すやすやとリンが寝息を立て始めると、室内を淡く照らしていた蝋燭の火が独りでに大きく揺れて不自然にふっと途切れた。暗くなった室内には、白い月光だけが差しこむ。
と、窓枠の形に切り取られた白い光に、突如人影が現れた。成人した女性のリンよりもスラリと大きい男の影だ。
男は暗闇の中で足音を忍ばせてリンに近づくと、壊れ物を扱うようにそろりとその細い体を抱き上げた。
両手の塞がった男が寝室に足を向ければ、扉が音もなく開いて静かに迎え入れる。
空いたベッドに、男は花に触れるような慎重さでリンを下ろした。そのまま布団をかけようとして――。
「……う、うぅん……見て、フィリ」
唸るようなリンの声に、驚いた男の手が止まる。
「これで……あなたも寒くないでしょう……?」
ハッキリ聞こえたのはその言葉ぐらいで、リンはふにゃっと笑ってすぐにまた寝入ってしまう。
男はすぐに布団をかけてやったけれど、そのあともしばらく眠るリンのことを見下ろしていた。
そうして最後に一言だけぽつりと言ったのだ。
「バカだな。ドラゴンに服を作るなんて」
ほとんど眠った意識の中で、リンはその言葉を耳にした。
誰がバカよ、と思ったが、その声がおかしそうに笑いを含んだ温かいものだったから、悪い気はせずにそのまま心地よい夢の世界に旅立ったのだ。