エピローグ
魔法使いの通う学園は今や大陸のあちこちに点在し、その中でも特別広大な敷地と大勢の生徒や教員が在籍しているのが、王都にほど近い魔法学園である。
そこは大陸で初めて建設された魔法使いのための教育機関で、三百年を超える歴史ある建物は趣深い。古くから所属する経験豊富な教職員たちによってより高度な学びを得ることが出来ると噂されるため、魔法使いたちが一度は憧れる学園だ。
魔法を使った実技訓練も行うために学園には広大な敷地が用意されているが、その片隅に高い生け垣で四方を囲うように区切られた小さなスペースがあった。
真っ白な丸テーブルと椅子だけが用意されたその一角で、一人の男が優雅にティーカップに口をつける。
紅茶を味わうように閉じていた瞳が開くと、特徴的な深い赤が顔を出す。
と、突如男の向かいの空間がいびつに歪み、もう一人同じ年頃の若い青年が姿を現した。
長い黒髪を後ろでまとめた青年は、紅茶を飲む男を橙の瞳で認めると「またここにいたんだね、ユシウス義兄さん」と、勝手に向かい側に腰掛ける。
「フィン、お前はまた勝手に会議を抜け出してきたな」
「そういう義兄さんだって参加してないじゃないか」
「いつまでも古い人間が居座るのは若い芽を摘むことになる。俺はほとんど引退した身だ」
まだ三十にも届かないような見かけで、ユシウスは赤い瞳を伏せつつため息をついた。
「それを言うなら僕だって古い人間でしょ。なんせ第一期生だからね」
ふんと鼻を鳴らすフィンの姿に呆れたユシウスだったが、今日がなんの日であるかを思い出して口うるさく言うことは控えた。
「あ、今日はオレンジのパウンドケーキだ! 一個もらうね」
「おい、勝手に食べるな」
「どうせ僕が来るって分かってたから一本丸々残してたんでしょう?」
「……はあ、俺にも切り分けろよ」
「はいはい。任せておいて」
どこから出したのか皿を並べたフィンは、ご機嫌な様子で輪切りのオレンジを使ったパウンドケーキを切り分けていく。
その間にユシウスは仕方がないとばかりにフィンの分もカップを出して紅茶を淹れてやった。と、二人の和やかな空間に慌ただしく一人の青年が駆け込んで来た。
生徒用のローブを羽織った青年は、二人の姿に「見つけた!」と息も荒く突撃してくる。
「ユシウス理事長、それにフィン教授も! 助けてください、研究室でマシナ教授が暴れてるんです!」
「あいつは一体いくつになれば落ち着きを覚えるんだ?」
「あはは、会ったときからずっとそうだったし……今さら無理じゃない?」
頭を抱えるユシウスと笑い飛ばすフィンに、生徒は急き立てるように「このままじゃ研究棟が消し飛びます!」と青い顔で言う。
けれど、フィンは焦りなんて微塵も見せず、むしろ面白そうに笑ったままふと視線を外へ向けた。
「それならオレンジを一つ持って行くといいよ」
「オレンジですか?」
「そう。ちょうど今が旬だから学園内にたくさんあるだろ?」
「たしかにありますけど……」
そんなことであの癇癪が治まるのか? とばかりに訝る生徒の瞳に、フィンはおかしそうに声を立てて笑った。
マシナは学園の建設当初からいる問題児で、今は教師として在籍している。一度カッとなった彼を止めることができるのはただ一人の女性を除いていないので、フィンたちは基本被害を被らないように避難するのが常だった。
しかし、今の季節は幸運にも冬だ。ちょうどオレンジの盛りのとき――また、一年に一度の今日であれば話は変わってくる。
さすがに問題児のマシナといえど、慕っていた女性の命日に、しかも思い出を想起させるオレンジを持ち出されたら大人しくなるだろう。
これで助言は終わりだと言いたげに、フィンは切り分けたパウンドケーキをさらに持りつけて一つはユシウスへと差しだした。
オレンジの橙を目にしたユシウスの目が柔らかくほころぶのを見て、フィンは彼と同じように懐かしい気持ちに襲われた。
「そういえば、なんで学園の中ってこんなにオレンジの木がたくさんあるんですか? 古株の先生たちもみんなオレンジ好きですよね」
もしかしてオレンジを食べると魔力が上がるとか……!?
新たな発見とばかりに目を輝かせた生徒に、フィンは微苦笑して首を振った。
「そんな効果はないよ。ただ――」
「ただ?」
「僕たちみたいな昔からここにいる魔法使いにとって、オレンジは愛を思い出させてくれるものなんだよ」
「愛、ですか?」
途端にうさんくさいものを見るように歪んだ生徒の目に、フィンはニコリと笑み、ユシウスはどこか自慢げに静かに口角を上げた。
「そう、愛だよ。言っておくけど、愛って一番強い魔法だからね」
――私が使えるたった一つの魔法よ。
言いながら、フィンの脳裏には遠い昔の姉の声が重なった。それはきっと目の前のユシウスも同じだろう。
懐かしむような温かい眼差しの中に淋しさを含んだその表情は、きっと今のフィンと同じものだ。
「ほら、早く行かないとそろそろマシナが研究室の一つや二つ壊しちゃうんじゃない?」
「あ! そうでした! 本当にオレンジを持って行きますからね!?」
「大丈夫。オレンジを見ればたちまち子犬みたいにクンクン泣き出すよ」
それはそれで面倒なことになるのだが、最後の台詞は生徒には届かなかったみたいだ。
あっという間に生徒の姿は消え、再び二人の間に静かな沈黙が横たわる。
フィンもようやくパウンドケーキを口に運ぶ。しっとりした生地とオレンジのシロップ煮の甘さがよく合う。
「ふふ、姉さんを思い出すような甘さですね」
「……そうだな」
頷いて紅茶を飲むユシウスを、フィンは気づかれぬように観察した。
ほんの二百年前、妻を失ったばかりのユシウスの憔悴具合はそれはもうひどいものだったが、今ではずいぶん落ち着いて見える。
けれど、どうしたってリンのことを想わずにはいられないのだろう。
生け垣によって意図的に作られたこの狭いスペースが、はるか昔に住んでいた小屋と同じ広さだと知るフィンは、ここに入り浸るユシウスの心情を思い、遠いところに行ってしまった姉を思う。
(姉さん。姉さんの愛情が今の僕たちを生かしてくれているけど、それでもやっぱり淋しいよ)
怯えられることも恐れられることもなくなった世界は、たしかにとても住みやすく居心地がいい。けれど、心にはぽっかり穴が空いたようだ。
不意に虚しさを覚えたフィンやユシウスたちの元に、どこからかオレンジの甘酸っぱい匂いが風に乗って運ばれてきた。反射的に思い出される一人の女性の姿に、心の穴が勝手にじんわりとした温かさで埋められていく。
姉が生涯をかけて注いでくれた愛情は、今も新鮮な温もりを与え続けてくれていた。
ふと顔を上げれば、計ったようにユシウスもフィンを見ていて、二人はつい笑ってしまった。
こうして今日も、愛情をつめこまれた魔法使いたちは、淋しくも穏やかな日常を過ごしていくのだった。
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