九十四 馴れ馴れしい美狐と再会
世界の意志と言えば、世界の縫い目と呼ばれるあの谷に連想する。
修良と幸一は世界の意志と一度「手合わせ」をしたあの谷の奥に戻って、力の痕跡を調べた。
しかし、世界の意志や、神の気配がすべてきれいに消えた。
その代わりに、汚い人間の匂いが鼻に刺さるほど漂っている。
一般の人間が霊気の変化に気付きにくいが、幸一や修良ははっきりと汚れた波動を感じた。
「前に来た時、空気がこんなに汚くなかったのに」
「確かにおかしいね。こんな森の深いところまで人間の匂いが充満している。一体何があったのか」
「過去を再現する術で見てみよう」
幸一は当たり前にように修良に頼んだら、修良から否定な答えをもらった。
「見たことのない過去を再現できる術を使えないよ」
「でも、鬼さんは何か星の位置を計算する陣法で過去を再現したことがあったような気がする……」
「そんなことをやった記憶がないけど?」
修良は怪訝そうに目を少し見開いた。
「……俺の記憶が間違ったのかな」
(いいえ、私が覚えていないだけかもしれない……)
幸一が難しそうに思考している表情を見ると、修良は何処か寂しさを感じ、思いつたことを呑み込んで、話題を逸らした。
「そういえば、ここでの一戦の後、紫苑からなんの報告もなかった。やつの名前こそ、巻物に入れるべきだな」
紫苑とは、幸一に救われた弱弱しい美青年の姿をしている魔物。
この実体の魔が存在しない世界で、珍しく自分の意識と体を持っている。
因縁があって、修良に「神探し」のことを頼まれた(強いられた)。
修良のさっきの言葉を聞いていないのに、天寿国の国境線付近にいる紫苑は理由もなく強く震えた。
「紫苑さんのことはもう勘弁してあげてください。そもそも俺、いや、還初太子が無関係な彼を強引に巻き込んだんだ。彼は魔物でも六歳しかない。あまりいじめないでください」
無力にも幸一は紫苑のために弁解した。
「以前にも言った。彼が幸一と繋がったのは偶然とは思えない。人と人の出会いの根本的な原因は、波動や力の引き合いだ。幸一は神、彼は魔、二人の出会いは単純なわけがない。本当の理由を見つけるのはただ時間の問題だ」
そう言いながら、修良は横目で左側の森の隙間を見た。
「それに、巻物に入れるべきなのは彼だけではないようだな。幸一を狙っている不届き者が多すぎる――」
「不届き者?誰?」
幸一は修良が見ている方向を視線を送ると、そこから聞き覚えのある声が響いた。
「もう幸一、何回も言っただろ、庇うのは逆効果だ」
数玉の赤い炎と共に、珊瑚の姿が現れた。
「珊瑚!」
幸一は嬉しそうに出迎えた。
「どうしてここに……っ!」
幸一の質問がまだ終わっていないのに、珊瑚はいきなり幸一に抱きついた。
「……」
ついでに、挑発するように、顔色がすでに暗くなった修良に微笑みを送った。
「幸一に泣きつくために来たんだ」
「泣きつく!?何があった!?」
「それがしはいじめられた。窓際に追い詰められて、仕事を禁止されたんだ」
「職場いじめ!?誰がそんなことを?」
「大好きな人、いいえ、大好きな妖怪だ」
「……!そ、それは、大変なことじゃないか!」
もし修良に虐められたら……そんなこと、幸一は想像もしたくない。
「だろだろ。そんなやつにいじめられたらやり返しもできない。泣き寝入りしかないんだ」
「……ひどい奴じゃないか。珊瑚はこんなにいい人なのに」
「そうそう、ひどい奴だ。もっと言って。あっ、でも、『いい人』はもうやめてくださいね」
「ふざけた話はそこまでだ。一体何しに来た」
とうとう珊瑚の演技を我慢できず、修良は冷たい顔で止めに入った。
「それがしの話は、いつだって真面目だよ。修良先輩」
珊瑚は大げさな表情を少々収めて、幸一から離れた。
「ここに来る理由の一つは、確かに、幸一に慰めってもらいたいからだ」
「その二つはなんだ」
修良は硬い口調で続きを催促した。
珊瑚も冗談をやめて、真面目に答えた。
「失踪事件だ」
「失踪事件!?」
幸一は目を見開いた。
「お前を動かせる失踪事件はただの失踪事件じゃないだろ?」
修良は目を細めた。
「さすが修良さん、その通りだ」
珊瑚はニコニコに修良の判断を認めた。
「それがしはしばらく仕事禁止だけど、今回のことはちょっと厄介そうだから、放っとけない――
柳蓮県を含めた五十箇所の牢屋に収監されていた罪人、一夜にして、計二百五十人以上が失踪した。しかも、どれも素性の悪い凶悪犯だ」
「!?」
「人力で成し遂げたことと思えないから、それがしのところに回された。罪人たちの匂いを追って、この森の更に奥のほうに行ったけど、匂いがいきなり断った」
「なるほど。もし、罪人たちをこんなところまで連れてきたら、犯人はただの人間ではない確率が更に高くなるな」
口で珊瑚の話に合わせつつ、修良は別のことを心配した。
(また旧世界絡みとかじゃないといいけどね……)
「事情は分かった。じゃあ、私たちは一旦ここから退こう」
でも、それ以上問い詰めをしなく、あっさりと諦めた。
「えっ?いいの?その事件は俺たちが調査している『救世主』のことと関係なくもないような気がする。あの太陽太歳だって、大罪人だから」
幸一は別に意見を述べた。
「『救世主』?太陽太歳?なになに?面白そうだな」
珊瑚はさっそくその話題に突っ込んだ。
「幸一、早く柳蓮県に戻ろう。お母さんが心配だろ?」
修良は珊瑚の話を遮った。
「なんで?母は保釈中で、凶悪犯でもないよ」
「実の息子を百回以上売った。かなり凶悪と思わないか?罪の重さはともかく、素性が十分悪いと思うよ」
「修良さん、いくらなんでも人の母親をそこまで言うのはよくない」
珊瑚が注意したけど、意外なことに、幸一は納得した。
「……確かに、反論できないかも」
そこまで言われて、幸一も母のことを心配してきた。
「じゃあ、早く伯母の屋敷に行ってみよう!ごめん珊瑚、悩みがあるなら、後ほど聞いてあげる!」
「仕方がないな。母親が大事だから。あ、でも――」
珊瑚はさっそく引き返そうとする二人を呼び止めた。
「『救世主』と言えば、それがしはとっておきの極秘情報を持っているよ」
「!」
「幸一との友情に免じて、詳しいことを教えてあげるから、後でお酒に付き合ってね」
***
柳蓮県内。
幸一は玄誠鶯の屋敷に入る途端に、従妹の玄幸芳に抱きつかれた。
「幸一兄さん!あたし、買い取ったよ!」
「!?」
幸一は困った。
この子はまだ自分を婿養子に買うことを諦めていないのか……
幸一は不自然な笑顔を作って、幸芳を断った。
「あの、幸芳、俺の身売り契約の件はもういいだろ?母も罰を課せられたし……」
「違う違う。それじゃないの。幸一兄さんのとっても大事なものは、あたしが買い取ったの!」
「とても大事なもの!?」
(俺、そんなものあったっけ!?)
幸一は思わず修良に視線を送った。
幸芳は巾着から一枚の紙を出して、幸一に見せた。
幸一は一瞬緊張したが、紙に書かれた内容を見ると、肩を下した。
「土地のことか……」
幸芳が出したのは土地の売買契約書。
幸芳が買ったのは、幸一が売り出した三源高原の土地一部だ。
もともと玄家所属の土地だから、玄家の人が進んで買い取り戻すのも当然だろう。
「どう、あたし、でき女でしょ!幸一兄さんとあたしが結婚したら、これは幸一兄さんのものに戻るよ!」
「いや、俺は土地なんかに……」
「お嬢様、苗字のことはもう解決しましたか?」
修良は優しい笑顔で割り込んだ。
「もちろん!」
幸芳は胸を張ったが、
「父に断られた――でも、あたしの決心は変わらないよ。あたしがダメだったら、幸一兄さんに苗字を変えてもらうわ!」
「えっ、ええ――!?」
さすが幸一もこの手があると思わなかった。
「さすが、いい案ですね!」
修良はパチパチと拍手した。
「でしょでしょ!あたし、勉強以外のことになんでも冴えているっていつも褒められてるの!」
「それ、褒め言葉かな……」
幸一は困っていたら、伯母の玄誠鶯が出迎えに来た。
「幸芳、バカなことをやめて。最近、大人しくしていると思ったのに……」
玄誠鶯も娘のわがままに手が焼ける。
「俺が売り出した土地を買ってくださったのですね。ありがとう、伯母さん」
幸一は知っている。未成年の幸芳は土地の売買を行えない。実際に土地を買ったのは玄誠鶯だ。
「いいえ、玄家の一員として当然なことをしたまでだわ。誠実に助けられなかったから、せめて、婉如のことに微力を尽したいわ」
玄誠鶯は謙遜だった。
「返金が順調に進んでいるから、婉如の軟禁も解除されたわ。この県を出なければ、自由に動けるようになったわ」
「なるほど、それは良かった」
(どうやら、失踪の危険がないようだな……)
母が無事だ、幸一は安心した。
「二郎さんから聞いたわ、幸一たちはずっと走り回っているのね、しばらくうちで休みをしたらどう?」
「せっかくだけど、俺と先輩はまだ任務があるので、一言挨拶をしてから戻るつもりです」
「そうか、それは残念だわ」
「母はどこですか?一目様子を見たい」
「仙縷閣よ。最近、幸世が脇役でお芝居に出ているの。婉如と二郎は手伝いしに行ったの」




