第8話
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いつ振りだったかは忘れたけれど、先ほどまで一緒に遊んでいた子供たちから、また「リューがふわふわしてる!」と言われた。前回と違い、今回はリューズナード本人にも、ふわふわと浮ついている自覚がある。
リューズナードは就寝後、悪夢に魘されて跳び起きることが多々ある。祖国に居た頃の碌でもない暮らしを、何度でも夢にみるのである。迫害によって受けた痛みが、戦場で浴びた噎せ返るような血の臭いが、たった一人の妹を守りきってやれなかった後悔が、未だ脳裏に焼き付いて離れない。
しかし、昨夜はそれが全くなかった。心地好く意識が落ちてゆき、途中で覚醒することもなく、目覚めも快調。頭も心も大変すっきりしている。体も軽い。まさに、ふわふわなのだ。原因はと言えば、彼女の熱を分け与えてもらったからなのだろう。
ロレッタと居ると、リューズナードの体は時折、自身の制御下を外れて動き出すことがある。
戦場になんて行かせたくない。そう思ったら、足が勝手に水の国を目指して駆けていた。
優しい熱が恋しい。そう思ったら、腕が勝手に彼女の体を抱き締めていた。
彼女が好きだ。そう思ったら、口が勝手に言葉として吐き出していた。
思想に偽りはないし、行動を悔いる気持ちもない。ただ、不思議だとは思う。こんなこと、今まで一度たりともなかったのに。
昨夜も、そうだった。何やら気落ちした様子でいたロレッタが、少しばかり元気を取り戻して微笑んだ顔が、綺麗だと思った。見た目が可愛いだとか、美人だとか、そういう話ではない。上手く言い表せないけれど、とにかく綺麗に見えたのだ。そう思ったら、体が勝手に引き寄せられていた。
毎日を生き延びるだけで精一杯の暮らしをしてきたリューズナードに、自ら女性に口付けた経験など、もちろんない。それどころか、わざわざ他国まで連れ戻しに行こうだなんて思うのも、抱き締めたいと思うのも、好きだと思うのも、全部が全部、初めてのことである。
にも関わらず、まるでそれが自然であるかのように、体が動く。初めて唇から受け取った温かさは、瞬く間にリューズナードの内側を侵食し、どこか致命的な部分をふわふわに壊してしまった。彼女が一層綺麗に見えて、彼女の居る日常がひどく心地好くて、なんだかもう、よく分からない。
かくして日中、子供たちから散々に揶揄われたリューズナードは今、ふわふわの心身を引き摺りながら、一人で避難所へとやって来ていた。
普段であれば、日暮れ前には食料調達の為に村の外へ出るのが常だが、その前に先日増えた新たな住人の様子を見ておこうと考えたのである。昼過ぎにはジーナと共にロレッタも顔を出したと聞いたが、昨日の今日で果たして上手くコミュニケーションが取れたのだろうか。
軽くノックして、「入るぞ」と声をかけてから、出入り口の扉を開く。病み上がりのフェリクス少年は、退屈そうに身を横たえていたが、リューズナードを見るなり目を輝かせた。
「具合はどうだ?」
「はい、だいぶ良くなりました!」
「そうか。昨日は、名乗っている余裕がなかったな。俺は――」
「リューズナードさん!」
「……あ?」
「リューズナード・ハイジックさん、ですよね? ずっとお会いしたかったんです! あ、俺はフェリクスって言います。よろしくお願いします! 昨日はありがとうございました!」
「あ、ああ……」
矢継ぎ早に言葉を投げかけられて、思わずたじろぐ。昨日の様子と比べれば、確かに体調は快復へ向かっているらしい。本来は明るく元気な少年なのだろう。
フェリクスの言葉を反芻したリューズナードは、その中で疑問に感じた点について、率直に尋ねてみた。
「……お前、戦争へ参加した経験でもあるのか?」
「え?」
「兵士でもない他国の人間が、よく俺を知っていたなと思って」
かつて炎の国の王宮騎士団に所属し、他国の兵士を相手に数えきれないほどの戦果を挙げた。そして最後には、所属していた王宮騎士団の戦力に大きな打撃を与えて国を離れた。その経歴故、リューズナードは近隣に位置する全ての魔法国家から嫌厭されている。良くも悪くも有名人なのだ。
ただ、それは戦争下で戦う可能性のある兵士や、兵士たちに軍事的な指示を出す王族または貴族などの間での話である。政治にも軍事にも関わらない人間が、敵国の兵士の名前を把握しているというのは、一般的なことなのだろうか。少なくともリューズナードは、王宮騎士団に所属するまで兵士の素性を知る機会なんてなかったように思う。迫害に耐えて生き延びることに必死だったのだから。
ただの雑談、あるいは興味本位でぶつけたその質問に、フェリクスは視線を泳がせた。
「あ……ええと、他の兵士のことは知りませんけど、リューズナードさんは特別ですよ。非人なのに魔法が使える連中に勝てる人なんて、他にいませんから。どこの国でも有名です。俺、すごく尊敬してるんですよ!」
「……そうか」
「はい!」
他所の国の人間が自分をどう見ているのか、知る術などない。今さら知ったところで、詮の無いことでもある。ほんの僅かな違和を感じたものの、それ以上の追及は控えた。