第66話
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彼の姿が見えた時、心底驚いた。そして、彼が兵士たちを相手に刀を振るう姿を見た時、驚きが絶望へと塗り替わっていくのを感じた。
だって、ここは水の国の領土で、彼が相手取っているのはこの国を守る兵士たちだ。言い逃れの余地はない。完全に、水の国へ危害を加えている。
彼がこの国の敵になってしまった場合、ロレッタは彼と戦わなければならない。それが、婚姻と契約を破棄する条件だから。
よほどの事情がなければ、それこそ、仲間が誘拐されるような一大事でもなければ、そんなことが起こる心配はないと思っていた。彼が自ら進んで魔法国家に足を踏み入れ、あまつさえ、抗争を仕掛けるような真似などするはずがないだろう、と。だから後は、ロレッタ自身が戦争に参加する覚悟さえ決められれば、全て丸く収まるはずだった。でも彼は、リューズナードは、ここに居る。どうして。
(やめて、来ないで……っ。お願いだから、止まって……!)
彼の強さが、初めて怖くなった。
魔法の使えない身でありながら、刀ひとつで凄まじい戦果を挙げたという彼。きっと、仲間たちや妹の為に、文字通り死に物狂いで刀を振るう彼を、誰も止めることができなかったのだろう。最初にここへ来た時も、人質の件がなければ、周りの兵士たちを蹴散らすくらい造作もなかったはずだ。正当な理由があれば、彼は遠慮なく自身の強さを振りかざす。
でも、それなら、今ここでの行いは、一体なんの為に……?
気が付くと、二十名を超える精鋭揃いの兵士たちも、全ての兵士の中で最も腕の立つアドルフでさえも、修練場の床に沈められていた。慌てて迎撃態勢をとる。ロレッタは、他者へ向けて攻撃魔法を放った経験がない。放つこと自体も恐ろしかったが、何よりも、初めて放つ標的がリューズナードであるという事実が、ロレッタの心を蝕んだ。
両手が、カタカタ震える。せめて、今からでも、ここを離れてくれたら。ウィレムス家の敷地からも、この国からも、出て行ってくれたら。そうしたら、ロレッタが魔法を暴発させて兵士たちが巻き込まれた、といった言い訳ができるかもしれない。
必死に願ったが、届かなかった。刀を収め、真っ直ぐこちらへ向かって来る。どうにか止まってほしくて、断腸の思いで威嚇射撃までしたのに、躱そうとする気配すらない。
それどころか、彼はロレッタに右手を差し出してきた。そして、一緒に帰ろう、と告げてくる。
何を言われているのか、分からなかった。
帰る、なんて。まるで、そこが元々、自分の居場所であるかのような言い方だ。生まれつき強力な魔法が使えて、王女殿下という肩書まで持っているロレッタには、あの村の住人を名乗る資格がない。居るだけで、皆に迷惑をかけてしまう。リューズナードからも、普通の幸せを奪ってしまう。
そう説明したが、全く聞き入れてもらえなかった。あろうことか、溜め息まで吐かれる始末。ぐちゃぐちゃの頭で他の伝え方を考えていると、リューズナードが小さく笑った。
(あ……)
自分に向けられることはないだろうと思っていた、優しい微笑み。仲間たちへ向けているのと同じような、下手をしたらそれ以上に、ドロリとした甘さを含んだような、そんな表情で。ロレッタだけを見て、大切そうに名前を呼んで、何度でも、帰って来て良いのだと教えてくれる。
頭のぐちゃぐちゃが解け、彼の言葉がストンと入ってきた。勝手な行動を起こしたロレッタへ、「帰ろう」と伝える為に。たったそれだけの為に、彼は国に喧嘩を売るような真似をしたのか。
馬鹿な人だな、と思ってしまった。体の奥底からじんわりと熱が広がって、視界が滲んでいく。
戦わなければ、何も解決できない。けれど、他国の兵とも、リューズナードとも、戦うのは怖い。結局、どっち付かずで中途半端なことしかできなかったロレッタを、それでも笑って許してくれると言う彼の大きな手に、自分の手を重ねてしまった。握り返してくれる手が力強くて、温かくて、涙が溢れた。
手から伝わる温度だけでも十分だったのに、突然手を引かれて、強く抱き締められた。ロレッタの小さな体は、彼の大きな腕の中へ綺麗に収まってしまって、身動きが取れない。動けないまま、途方もない熱がひたすらに分け与えられる。血管からマグマでも流し込まれているみたいだった。
体が熱い。心拍が跳ね上がる。胸が苦しい。すでにいっぱいいっぱいのロレッタに、しかし彼はさらなる猛毒を注ぎ込んできた。
耳元で、聞いたこともないような甘く切ない声で、好きだ、なんて……。
不器用に気遣ってくれるのが、嬉しかった。作った料理を美味しそうに平らげてくれるのも、嬉しかった。粗野な振る舞いの中に見えるちょっとした言動を、可愛いと思った。一人で無茶をしてほしくなかった。自分などどうなっても構わないから、彼に幸せになってほしかった。彼と接する中で感じた気持ちが、一つに混ざり合っていく。
――ロレッタちゃん、リューのこと好き?
いつか投げかけられた問いが脳裏をかすめる。あの時は考え込んでしまったが、今なら迷わず答えられる気がした。
腕が隙間なく抑えられているので、なんとか少し動かせる両手を持ち上げて、恐る恐るリューズナードの腰元を掴んでみる。すると、彼の腕の力が増し、さらに強く抱き締められた。
抱き締められる。締め付けられる。それはもう、万力のように、ギチギチと。
「……あ、あの、リューズナードさん……痛い、です……っ」
「! 悪い……」
骨や内臓の限界を感じて声をかけると、彼はハッとした顔ですぐに解放してくれた。そこまで強く力を込めていた自覚がなかったらしい。
頬も耳も赤く染め、バツが悪そうに目を逸らす様子が、なんだか可愛く見えた。
「……帰るぞ。もうここに用はない」
「は、はい……」
さっさと歩き出した彼の背中を追う。広くて大きな背中は、何度見ても頼もしくて安心する。また少し、心臓が早く脈を打った。
そうして、半壊した修練場の扉を抜けたところで、前方から三人の兵士たちが向かって来るのが見えた。リューズナードが刀に手をかけ、臨戦態勢をとる。しかし、兵士たちは一定の距離を保った位置で歩みを止めた。魔法を使う素振りもない。
「リューズナード・ハイジック。今すぐ、謁見の間へ来い。ミランダ様がお待ちだ」
「!」
背筋に寒気と緊張が走る。
遅かった。リューズナードの契約違反は、すでにミランダへと伝わってしまっていたのだ。素通りすることは許されない。
「知るか、俺は帰る。あの女の顔なんて見たくない」
「……いいえ、参りましょう」
鬱陶しそうに答えるリューズナードを、ロレッタは静かに引き留めた。
「経緯はどうあれ、あなたはお姉様と交わした契約を破ったのです。このまま帰ったのでは、村がどうなるか分かりません。ですから……きちんと話をして、決着をつけに参りましょう」
「! …………分かった」
リューズナードが臨戦態勢を解いたのを見届けると、兵士たちは王宮へ向けて歩き出した。二人で後について行く。
自分一人では成し遂げられなかった、ミランダとの交渉。けれどもう、ロレッタは一人ではない。彼が隣に居てくれる今なら、違う結果へとたどり着けるだろうか。