第65話
乱れた呼吸を整えながら、真っ直ぐ立ち上がる。敵の敗因は、一対一の状況を自ら選択したことだろう。さすがのリューズナードでも、戦場で多人数相手にこんな曲芸じみた真似をしようとは思わない。外野に余計な手出しをされないという特殊な状況で、かつ敵が武芸に精通していたからこそ効いた、一度限りの奇襲だ。
誇り高い騎士の戦い方とは、到底言えない。けれど、恥じ入る気持ちも全くない。自分は、国家を守る英雄などではないのだから。
奥のほうで、「アドルフ団長……!?」と驚愕している声がする。もしかすると、団長とやらが負かされる姿を見たのが初めての兵士も居るのかもしれない。貴重な体験ができて良かったな、と他人事のように思う。
そんな兵士たちを一瞥すると、彼らは「ヒッ……!」と慄いたものの、それでも前のめりな戦闘態勢は解かなかった。敵の強さに関係なく、最後まで任務を全うしよう、という気概があるらしい。賞賛されて然るべきかもしれないが、リューズナードにとっては変わらず障害物でしかなかった。
向かって来る兵士たちを、千切っては投げ、千切っては投げ、淡々と数を減らす。そうして全て黙らせれば、とうとう修練場に立っているのは自分ともう一人だけになった。
そのもう一人のほうへ体ごとゆっくり振り向く。すると彼女は、リューズナードへ向けて両手を突き出し、その手に青い魔力を滞留させていた。とても分かりやすい、魔法を放とうとしている構え。
「……なんのつもりだ」
「私は……水の国の人間です。兵士たちに危害を加えたあなたを、見過ごす、わけには……っ」
彼女の、ロレッタの両手は、カタカタと震えていた。声も頼りなく揺れている。
水の国の人間。それをロレッタが、心から誇って宣言しているのなら、まだ思うところはあった。けれど、とてもそんな風には見えない。
「……そうか」
静かに呟き、刀を鞘へ収めた。この場には、もう戦う相手は残っていない。
納刀時の音に反応したのか、思わず、といった様子で、ロレッタの手から魔力の塊が放たれる。リューズナードは動かない。躱すまでもなく、見当違いな方向へ飛んだそれは、間もなく修練場の天井に風穴を空けた。洗練されたアドルフの斬撃をも凌駕する、でたらめな破壊力。王族由来の魔力量の成せる業だ。
あの力で村を救った時には、とても綺麗に笑っていたのに。今はあんなに怯えた顔をして。戦場へ放り込まれたら、この表情が外れなくなるのだろうと思うと、嫌で嫌で仕方がなかった。
「どこへ撃っている? しっかり狙え」
親指を自分の心臓へ向け、的はここだ、と指し示す。彼女の手元が、再び青く輝き出した。先ほどの砲撃がこちらへ向かって来た場合、どの道、逃げ場なんてない。規格外の力を振りかざす王族に、リューズナードは恐らく勝てない。だから、逃げることなど考えず、真っ直ぐ彼女の元へ歩いた。
「っ……どうして、いらしたのですか……? 村の皆様が、危険に晒されるかもしれないのに……!」
「その『皆様』に、早く行け、と送り出されたんだがな」
「だから、どうして……っ!」
魔力の塊が放たれ、誰も居ない隅の床を吹き飛ばした。構わず、歩き続ける。
「お前の姿が見えなくなると、村の奴らが、どうして居ないのか口々に訊いてくる。愛想を尽かされることでもしたんだろう、と俺が叱られる始末だ。煩くて敵わない。……それに、あの家は、俺が一人で住むには広すぎる。暗くて、冷たくて、安眠できる気がしない。他の奴らにとっても、俺にとっても、もうお前は必要な人間なんだ。だから、」
彼女の前で立ち止まる。傷だらけの醜い右手を、綺麗な彼女へ差し出した。
「一緒に帰ろう、ロレッタ」
間近で視線が重なると、まるで脳天から雷魔法でも食らったかのような鋭い痺れが、全身を駆け抜ける。名前を呼んだら、舌先まで甘く痺れた。水の国の王女のくせに、炎も、毒も、雷までも使うのか。そろそろ、本当に殺される。彼女から与えられるもので、溺死する。そんな馬鹿な考えが過った。
ロレッタの手から、青い光が消失する。
「…………帰、る? 私が、皆様の村に、ですか……?」
「ああ」
どうして、そんなに驚くのだろう。それほどまでに、彼女にとってはあり得ない選択なのだろうか。帰りたい。守りたい。そんな風には思ってもらえないのだろうか。
「それは……そのようなことは、できません……」
「何故だ」
「だって! 私は、魔法が使える人間で、魔法国家の王族で……あの村に居たら、魔法を恐れる皆様から、平穏を奪ってしまう……」
「俺の目には、お前が居る村の日常は、平穏そのものに見えたけどな。あいつらが恐れているのは魔法であって、お前じゃない。それに、お前の使う魔法なら、あいつらだって恐れはしないさ。傷付けられることがないと分かっているからな」
「で、でも……リューズナードさんだって、私や、この国と、縁を切らないと……幸せには、なれないから……っ」
「俺の幸せ? …………はあ。お前の話はいつも、よく分からない。俺に分かるように言ってくれ、と何度言わせる気だ? ……お前が必要だ。そう言ったのが、聞こえなかったのか」
「……でも……だって……!」
最初は、気弱で大人しい女性かと思っていたのに、蓋を開ければ意外と強情だ。面倒だが、悪い気はしない。自分の我が儘でここへ来たはずなのに、いつの間にか、我が儘を言う彼女を宥めているかのような構図になっていて、少し笑ってしまう。
「ロレッタ。お前は、俺たちの村を、自分の帰る場所だと思うことはできないのか? 俺が訊いているのは、それだけなんだが」
ロレッタの口からは、仲間たちやリューズナードを拒絶する言葉が一つも出てきていない。だから、確信できた。彼女は自分たちとの繋がりを捨てたくて離れたわけではないのだと。
柔らかな色を宿した瞳に、涙が浮かぶ。
「…………よろしいのですか……? 私が居ても……私が、帰っても……っ」
「ああ、帰ろう。皆待っている」
「っ…………」
何かと葛藤するように、恐る恐る、ゆっくりと。ロレッタの右手が、リューズナードの右手に重なった。
「帰りたい、です……私……皆様の所に……!」
「うん」
右手に力を込めて握り返す。彼女の瞳から、涙がボロボロ零れ落ちていった。
この手に触れられると、体に血が巡り出して、心拍は上がるのに呼吸がしやすくなる。なんとも不思議で、心地好い感覚だった。けれど、手から伝わる温度だけでは、足りない。もっと欲しいと全身が叫んでいる。
欲求に抗わず、小さな手を掴んで引き寄せる。そうして倒れ込んできたロレッタの体を、リューズナードは両腕で強く抱き締めた。
「きゃっ!? ……リューズナードさん……?」
「…………」
――温かい、熱い、痺れる、安心する。
炎も、毒も、雷も、全てが一斉に回り始めて、おかしくなりそうだ。いや、自覚できていなかっただけで、とっくに気が触れてしまっていたのかもしれない。
魔法が使える人間だとか、魔法国家の王族だとか。そんなことはもう、どうでも良くて。今はただ。
彼女のくれる、優しい熱が。
優しい熱をくれる、彼女のことが。
「……好きだ。どこへも行くな」
愛おしくて堪らない。