第59話
かくして、心も体も碌に準備ができないまま、その日は訪れてしまった。
修練場の中央で、規則正しく整列する兵士たち。先頭にはアドルフが立っており、これから遂行する任務内容の最終確認を行っている。団長である彼の呼びかけに、兵士たちは一斉に返事を寄越したが、ロレッタは口を開くことさえできずにいた。
怖い。それ以外の感情が湧いてこない。死ぬことも殺すことも、この期に及んで全く覚悟が決められない。
俯いて小さく震えるロレッタを見て、アドルフがため息を吐いた。
「……ロレッタ様、お気を確かに。修練不足は否めませんが、例え足りていたとしても、それほど固く身構えてしまっていては、動けるものも動けません」
「……はい……」
「先ほどもご説明させていただいた通り、炎の国兵と交戦になった場合、ロレッタ様は御身の安全を最優先にお考えください。いざとなれば、無差別に思い切り魔法を放つだけでも、十分な護身となるはずです」
「……はい……」
敵も味方も、全てを飲み込む無差別砲撃。身体能力の強化が間に合わなかった以上、ロレッタにできるのはそれくらいだ。多くの人々を守る為にある、と思いたかったこの力で、人を撃つ。戦場でたった一人、自分だけが生き残る為に。
(自分で言い出したことなのだから、全うしなくては……。アドルフたちにも迷惑をかけてしまうし、お姉様も納得してくれないわ。……分かっているのに……っ)
緊張で胃液が込み上げてくる。その場に立っているのが精一杯だった。
「……いつまでも、こうしているわけには参りません。出立致しましょう。総員、手筈通り小隊に分かれて――」
アドルフが出陣命令を出そうとした時、彼が腰元に携帯している無線機のランプが点滅し始めた。別の兵士からの連絡を受診した合図だ。
通話に応じると、スピーカー越しにもはっきり伝わるほど焦った声が、修練場に響き渡った。
『応答願います、アドルフ団長!!』
「こちらアドルフ。何事だ?」
『そ、それが……ぐああっ!』
「! どうした、状況を報告しろ!」
突如、兵士の声が聞こえなくなり、ガシャリ! と機械が踏み壊されたような音が鳴ったのを最後に、通信が途絶えた。すぐに無線機を操作して何度か呼びかけていたが、応答はないようだ。
「警備兵と繋がらない……。外で何かが起きている、確認に向かうぞ!」
アドルフと兵士たちが駆け出そうとするも、出入り口の外側から不自然な喧騒が届き、一斉に足を止める。やがて、喧騒が収まったと思うと、
――ガンッ! ガンッ! ガンッ!
激しい修練に備えて頑丈に作られた扉へ、重い打撃が撃ち込まれ始めた。金属でできた施錠ごと、両開きの扉がみるみる形を歪めていく。
「なんなんだ……!? 第一小隊は入口付近に待機、第二小隊はロレッタ様をお守りしろ!」
今度こそ動き出した兵士たちに連れられて、ロレッタは修練場の隅へ匿われた。一体、何が起きているのか。状況が一つも分からない。
敵国の兵の侵攻ならば、直接王宮を狙うはずだ。わざわざ戦力が集まっている修練場を襲う理由はない。そもそも、ここへたどり着く前に、国中が大騒ぎになっていただろう。そんな気配が全くないということは、敵は軍勢単位ではない、ということなのか。
状況は分からないが、ロレッタは目の前の光景に、何やら強い既視感を覚えていた。こんな光景を、前にもどこかで見た気がする。
そう。これはまるで、攫われた少年を助ける為に、彼が謁見の間の扉を蹴破った時のような――。
――バアン!!
半壊した扉が勢いよく開いた。
扉の向こうには、腰元に一振りの刀を携えた青年が立っていた。