第56話
「……お姉様が、彼に兵役を課さなかったのは何故ですか?」
「そんなことも分からないの? 本当に愚劣な妹だこと。それこそ、非人の村での生活を体験したお前のほうが、より鮮明に想像できるのではなくて?
自分たちを守る為にあの男が一人で戦い続けることを、あの村の住人たちは望まない。そして、自分の為に住人たちが心を痛めることを、あの男は望まない。民衆の小さな不満というのは、積み重なればやがて大きな反乱の意思へと変わるわ。その兆しを見逃して滅んだ国が、この大陸の長い歴史の中で、どれだけあったことか。歴史から学びを得ないのは、愚か者の証よ」
「…………」
「もちろん、戦力として抱え込めるに越したことはなかったのだけれどね。最も重要なのは、あの男に『水の国へ危害を加えない』と誓わせることなの。どれほど立場が上だったとしても、こちらの要求だけを一方的に押し付けるのでは、駄目。芯の部分を確実に呑み込ませる為に、周りの部分は妥協してやっているという素振りを見せる。交渉とは、そういうものよ。
……まあ、私と同じ手段を採ったとして、他所の国の愚王共がどう考えるかまでは、私の知ったことではないけれど。欲を出し過ぎて噛み付かれでもしたら、盛大に笑ってやるわ」
契約について、サラとウェルナーにそれぞれ打ち明けた時のことを思い返す。
二人とも、話の内容に驚きはしていたが、今すぐ契約を破棄させる為の行動を起こさなければ、と焦っている様子はなかった。他の住人たちに広めて大ごとにする様子も。それは、ロレッタが村へ来ること以外に、これといった影響がなかったからだ。
しかし、もしも契約内容にリューズナードの徴兵が含まれていたら、どうだっただろう。
自分の子供が引き金となって彼に重責を担わせることになるサラも、彼が一人で戦場へ出て傷を負う姿を過去に見てきたウェルナーも、きっと黙ってはいなかった。他の住人たちだって、話を聞けば、二人と遜色ない反応を示したはずだ。そして、住人たちが暴動でも企てようものなら、仲間を守る為にリューズナードも動かざるを得なくなる。ミランダの言う「反乱の意思」が、穏やかな村の中に渦巻くことになったに違いない。
その可能性まで考慮した上で、あの契約書を事前に用意していたのか。自分の要求は確実に通し、相手の反論の余地は予め潰していた。初めて真正面から対峙した姉の手腕に、改めてゾッとする。
「話は終わりで良いかしら? まったく、余計な時間を取らせないでよ」
「……いいえ、お待ちください」
鬱陶しそうな表情を隠しもしないミランダに、往生際悪く食い下がる。このまま終わらせてしまったら、わざわざ王宮まで戻って来た意味がない。どうすれば、なんと言えば、何を差し出せば、ミランダの気が引けるのか。ロレッタは必死に思案した。
「それでは……私が、リューズナードさんの代わりになることができれば、諦めていただけますか?」
「は?」
虚勢だとバレないように、強い意思を込めて姉の瞳を見返した。
「今は遠く及びませんが、私が戦闘訓練を積み、彼と同等の身のこなしを手に入れることができたなら、王族由来の魔法を使える私のほうが、戦力としては上になるはずです。万が一、水の国へ攻め入って来るような事態になったとしても、私一人で食い止められるでしょう。そうなれば、もはや彼はなんの脅威でもなくなります。もう、契約で縛る理由はありません。……そうですよね? お姉様」
徴兵を課さなかったのは妥協の結果であって、ミランダがリューズナードを戦力として欲しがっている事実は、最初から変わっていない。先ほど、本人も認めたところだ。
だから、自分がその役を担うことができれば、ミランダの興味を彼から引き剝がせるのではないか。ロレッタはそう考えた。
身体能力も、実戦経験も、度胸も、今は何一つ及ばない。これから彼に追いつこうとした場合、血反吐を吐くくらいでは到底足りないような修練が要求されるだろう。それこそ、実際に戦場へ出て、肌でその感覚を掴む必要があるのかもしれない。
怖くない、と言えば、嘘になる。しかし、なんの取柄もない自分にも温かく接してくれた住人たちの笑顔を思い浮かべれば、自然と立ち向かう勇気が湧いてくる気がした。
(リューズナードさんも、こんな気持ちだったのかしら)
彼は、戦うことが自身の存在意義だと言った。
彼にとって「戦う」とは、「仲間を守ること」と同義だ。かつて仲間たちから与えられた役割が、今もそのまま彼の存在意義に、生きる理由になっている。
たった一人で戦い続ける、なんて易々とできることではない。けれど、守りたいものを脳裏に思い浮かべれば、それが原動力となって自分の体をいくらでも突き動かしてくれる。そんな気持ちが、今さら理解できてしまった。
「……お前、なんだか妙に、反抗的になったわね。野蛮な下民の影響でも受けたのかしら、鬱陶しい。……まあ、それでやる気になるのなら、結構よ」
「!」
「この世に魔法という概念が無ければ、きっと大陸でも随一の強さを誇る剣士だった。そんな男を、いざとなったら、お前がその手で殺す。そして、その男の代わりに敵国の兵も殺し回って同等の戦果を挙げる。そう言っているのよね?」
「っ…………はい。どれだけ時間がかかっても、必ず成し遂げられるようになってみせます」
「殺す」の部分を強調されて、息が詰まる。苦悶の表情で頷くロレッタを見下ろし、ミランダが愉快そうに笑った。
「良いじゃない。やれるものなら、やってみなさいよ。もしも、お前にそんなことができたなら、その時は望み通り、契約も婚姻も破棄してあげる。非人の村にも干渉しないわ」
「本当、ですか?」
「ええ。お前も泣き言なんて漏らすんじゃないわよ。それと、私の軍事指揮に逆らうことも許さない。余計な口を叩いたら、また人質でも取って、あの男にお前を殺させようかしら」
「おやめください! もう、あの村の皆様を巻き込まないでください……!」
「皆様、ねえ……。ずいぶん肩入れするじゃない。そんなに愛着が湧いたの? まあ、使える手駒が増えるのなら、なんでも良いわ。……アドルフ! 聞いていたわね? これから、ロレッタを近衛兵として鍛え上げて頂戴。どれだけ厳しくしても、怪我をさせても、構わない。私が許可するわ」
「……畏まりました、ミランダ様」
アドルフが恭しく頭を下げる。ロレッタは、苦々しい思いで唇を噛み締めた。